Google Earth に現れる謎の雲!

天孫降臨の地とは

祖母山のことだった!

 

ある日、祖母山(大分県と宮崎県の県境にある山)を上空から見たいと思って、

Google Earth で検索してみた。
その結果、表示されたのが、

右の画像である。

 

これは、一体何なんだ???
この場所には、必ず「雲のようなバグ」が現われる。(真ん中にある白い四角)
まるで、ここに存在する「構造物」を、覆い隠しているかのようだ。

 

 

結論から先に言おう。
これこそが本当の「天孫降臨の地」である。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そう、あのニニギの命が高天原から地上に降り立った聖地なのだ。

多分、ここには大きな穴が開いていて、UFOが着陸できるようになっているハズだ。
そこから、地底世界「アガルタ」につながっているに違いない。

 

というのも、この場所は鬱蒼とした原生林に覆われた急斜面の土地で、絶対に人間が近づけないような難所なのだ。(高校時代に山岳部長だった私がいうのだから間違いない)

 

「オイオイ、ちょっと待てョ」と、あなたは言うかもしれない。
「天孫降臨の地は、確か高千穂のクシフル岳じゃなかった?」

 

その通りです。間違いありません。
ただし、高千穂はいわば「下宮」であって、祖母山頂が「本宮」にあたります。

高千穂にある天岩戸神社の蓋石には、豊国文字で下記のように書かれているのです。

「祖母を開いた神が、阿蘇が噴火して大地震があったとき、この天岩戸に隠れて命拾いした。」

・・・・・と。(出典はこちら

 


 

なぜ、祖母山こそ天孫降臨の地だと断言できるのか?

 

◆まず、古事記の記述を見てみよう。
「この地は韓国(からくに)に向かい・・・・」と書いてあるぞ。
高千穂から北を望むと、この祖母山が邪魔になって、韓国は見えません。

 

◆それでは、『ウエツフミ』宗像本にはどう書いてあるかというと、
熊襲の山岳 (霧島連峰) 

阿蘇の海辺の端山 (雲仙、祖母から阿蘇を見ても山には見えない) 

直入の御岳 (久住山) 

臼杵の海辺も然々に  (大分県臼杵市の海岸までハッキリとみえるらしい)

櫛触岳の頂及び中腹ぬに

八尋の大宮を 太敷き立て・・・・

 

つまりこれだけの眺望が望めるところは、祖母山以外にはあり得ない。
その頂上と、中腹にデカい大宮を建てたと書いてある。

 

◆その大宮を建てた場所の景観については、

筑紫の日向の国の  高千穂の櫛触の岳ハ 
内日刺すかも  朝日の輝ぐ  夕日の落ちぬ 
高岳の眞中顕わに  外垣に岩を立て並み 
秀懸けたる奇し山並べ  殿根の土の城負イて 
清らけく 清に明き弥々に  吉き宮所にあるかも

・・・・・ウエツフミ宗像本【第8綴】第21章より

 

つまり、真ん中に高岳があって、その回りに外垣のような岩が取り囲み、

ギザギザの櫛のような峰が並び、御殿の屋根のように土の城(外輪山)が背後に連なる、という。

あきらかに「盆地」を連想させる描写である。

まさに下記のイラストにある「尾平渓谷」からみ見た祖母山の景観そのものなのだ。

 

さらに、神々がその土地を訪れたときの感想として

「朝日の直刺す 夕日の照らす  雄々しき国なり」

これは、「(東側が開けているので)朝日が直に射すが、(西側が塞がっているので)夕日が中空に反射する」とも読める。

下記のイラストはまさにその東側から見た展望である。

 

ここは大きな盆地のようになっていて(下のイラストを参照)、

写真の左手が高千穂方面(つまり下宮)、

また中腹には「尾平鉱山」があり、つい最近まで、銅や水晶が産出していた。
ウエツフミには、この鉱山のことも書かれているぞ。
「これの山(クシフル岳)の頂と 麓と腰とに 黄金  白銀 多なし 瓊石 立て並みき」

 

 
さらにさらに、この天孫降臨の地の東側と西側には、それぞれ神社があって、

どういう訳か両方とも洞窟がある。
だから「地底世界への入り口」と言っているのだ。

 

特に、西側にある「穴森神社」の洞窟には、大昔から大蛇が住んでいて「それが緒方三郎惟栄の祖先である」と『平家物語』にも書かれている。

 

江戸時代になって、岡藩の殿様であった中川氏がこの洞窟を探検して、実際に大蛇の骨を発見したという。

(これは神社の由来にも書かれているので多分事実だ。殿様が言っているのだから間違いない!ただし、今でも現地に奉納されているこの骨を実際に見た人は「鹿の骨だ!」と証言している。)
私も行ってみたが、人の背の高さほどもある大きな穴で、気味が悪くて中まで入ってみようという気にはなれなかった。(残念)

 

そういえば、この祖母山は、昔は姥岳(ウバダケ)と呼ばれており、「トヨタマヒメ」が祀られている。そう、初代・ウガヤフキアエズの母君である。

しかも「トヨタマヒメ」は竜宮城からやってきた半魚人だった! >>>詳しくはこちら
冗談ではなく、記紀にもちゃんとそう書かれている。

 

子供を生むための産屋が、まだ屋根のカヤが葺き終っていなかったため、父君・山幸彦がここからこっそりと覗くと、肌一面にウロコがあり、背中にはヒレがあったという。

だからトヨタマヒメは「子供の名前はウガヤフキアエズ(ウ茅の屋根が葺き終わらず)にしましょう」と提案している。

 

そういえば、先日テレビのニュースで半魚人の映像が流れた。
「ミヤネヤ」という番組である。

公の電波にハッキリと白い半魚人が映ったのだ。

なぜ?何のために?

半魚人の映像が公開されているサイトはこちら⇒英語

地底文明と地球空洞説に関する動画はこちら⇒英語

 

そのうち、地底人たちが登場して「我こそはウガヤフキアエズの祖先なるぞ!」

と宣言するかも知れない。

この盆地の右手に尾平鉱山があり、左の尾根を下ると高千穂だ。
この盆地の右手に尾平鉱山があり、左の尾根を下ると高千穂だ。
コメント: 5 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    狩生裕志 (木曜日, 22 8月 2013 19:25)

    いいですね!
    祖母山もう一回ゆっくり静かに登りたいものです。

  • #2

    Misaki-1167(Twitter@bonchan1) (金曜日, 25 7月 2014 02:21)

    当時飛騨と出雲が日本の2大政権でした。出雲(意宇国)は、飛騨の大淡上方様の子孫山下住水分命の子孫である大山祇命(=愛媛大山祇神社の祭神)の子孫が開拓した土地であり、元々飛騨のものでした。さて、飛騨政権の天照大神が夫の思兼命や大幹部の天児屋命らと飛騨の安川原に飛騨中の人達を集め、会議を持ちました。何故かと言いますと、当時筑紫(九州)が中国の揚子江辺りから沖縄を通って九州南部に上陸しているモンゴル系隼人族と朝鮮北東部から来て九州山間部に勢力を張る球磨族、そしてインドの南端から漂着したタミール語族が三つ巴の勢力争いをしていて、放置すればやがて本州に攻め入り、飛騨へも侵略してくる事を天照大神が予見された為です。そしてその会議で、①日本を一つにまとめる②筑紫平定に行く③飛騨は降雪が寒冷化で多くなったので、都を奈良橿原に遷すという三つの事が満場一致で可決されました。そして天照大神の孫の邇邇芸命が九州平定に鈴鹿の天孫子孫の猿田彦命の船にて愛媛大三島の大山祇氏らのルートで福岡苅田の浜へ向かいました。前もって8年かかって九州の偵察に行っていた天照大神の三姫らも同行し途中宗像にも寄りました。大三島では同じ天孫の大山祇命の娘である木花咲耶姫を妻にし、急に産気付き苅田の浜でお産されました。現地にはその時の口碑も残っています。さて、邇邇芸命は天照大神から「平定は武力ではなく穏和に成す事」とのご命令を受けていたので、まず先の2勢力を兄弟盃させて懐柔し、更に邇邇芸命との親子盃にて平定しました。古事記などで邇邇芸命と木花咲耶姫の子が火照命と火遠命、海幸族と山幸族の子となっていますが、実際は親子盃をして和睦させただけです。古事記は出雲が書かせていますから、その辺の事情をぼかしているのです。で、本題のもう一つの外国勢力ですが、塩土族といいますが、インド南端から漂着したタミール語を話す一族で、コオロギ族といいます。実は天照大神の三姫が九州偵察の時、好意的に接してくれた民族で「いずれ隼人や球磨族に攻められるから飛騨政権に助けて欲しい」と依頼をうけていたのです。本拠地は鹿児島南端笠沙の浜です。この当時山沿いに高千穂の里に入ってインド原産の稲の栽培を教え始めていました。さて、この塩土族の長である塩土の翁(こじ)の娘を邇邇芸命と木花咲耶姫の子である(苅田の浜で急に産気付き生まれた子)鵜萱葺不合命が結婚します。そして五瀬命、稲氷命、御毛沼命、最後に神倭伊波禮毘古命(サヌ命)=神武天皇が生まれます。さて、私も宮崎の高千穂ではなく、久住辺りが真の行かれた場所だと思います。何故なら塩土族の長の娘玉依姫を邇邇芸命の子ウガヤフキアエズが貰うには鹿児島の南端の笠沙の浜まで塩土翁に会いに行く必要があります。また高千穂辺りで会えたとしても一度は本拠地である鹿児島笠沙の土地を見たくなるのは当然の成り行きだと思います。鹿児島南端の海沿いを日向から海岸沿いに行くより、稲作で来ていた高千穂から彼ら塩土族が開いた道を西に向かった方が楽です。豊玉姫は南方系民族の娘ですから、この時点で皇統に異民族の血は半分入ったわけですね。串触嶽へ行き、荒涼たる「阿蘇外輪韓国岳」を行き、しかるべく所を訪ねに尋ねて笠沙の岬にお出になってとあります。と言うことで、土地勘がないのでざざっと書きましたが・・・この時すでに邇邇芸命の兄の饒速日命は奈良橿原の開拓に先立って行って見えます。大和は九州、奈良、津軽五所川原アラハバキ王国=津軽大和と三つあります。奈良が本家、後の二つは分家です。共に飛騨からの天孫に継ぐ天孫の結果出来ました。それから、出雲の国譲りは「飛騨への意宇国(=出雲)返還」です。大国主の飛騨への裏切り行為と新羅に11年もいって新羅女に子供を何十人と孕ませた不祥事に対する飛騨政権のお仕置きでした。大国主とその子事代主(側室の子)は飛騨の匠が建てた幽閉所(現出雲大社)と美保神社に幽閉されました。天照大神の娘=宗像三神、厳島神社三姫、宇佐大社姫神の多紀理姫、市寸島姫、多岐都姫は最初出雲に政略で嫁いでいましたが、大国主の女たらし、好色醜男に嫌気がさし飛騨に逃げ戻りました。このことも幽閉の原因の一つです。全国は飛騨の天孫族が苦労して開拓しました。神社に祀られていたのはそういった開拓をされた天孫でしたが、先程の出雲の国返還に恨みを持った、新羅女の子達が飛騨政権=大和朝廷打倒に出ます。先ず、饒速日命開拓の地の象徴、御室山の一の宮を出雲新羅神崇拝教ですり替えました。饒速日命の御霊代の勾玉の首飾りと剣を盗み、饒速日命をなきものとしました。御諸山は三輪山と改名してしまいました。全国の飛騨天孫を祀った神社を出雲新羅神にすり替え、乗っ取り、同時祭祀さえしました。国返還の恨み、父大国主の幽閉に対する恨みがその後ずーっと続き現代まで社会の中に潜りこみ、朝鮮族支配の日本国になってしまっています。神社全国どこにでも出雲新羅がはいりこんでいます。以上まだまだ話は続くのですがたわいもないと思われるかも知れませんが「飛騨の口碑」が門外不出の秘伝として飛騨の旧家に伝わり、ようやく最近少しですが知られるようになりました。古事記、日本書紀、記紀は史実を書いていません。出雲新羅神崇拝者が書いています。蘇我氏も新羅です。秦氏も内心は帰化したと言いながら、反日組織だったかもしれません。長々とすみません。失礼しました。ご無礼お許しのほど。

  • #3

    管理人 (金曜日, 25 7月 2014 06:40)

    Misaki-1167様
    どうも貴重な情報ありがとうございます。
    全ての説明が論理的、かつ具体的で、つじつまが合っている、大変興味深いストーリーだと思います。
    ◆新羅勢力に乗っ取られた、というところは私の説と完全に一致しています。
    ◆もし飛騨政権=越の国だとしたら、「ウエツフミ」の記述とも重なってきます。ウガヤ王朝と「越の国」とは大変仲が良かったらしく、、「ウエツフミ」にはこの国のことがかなり詳しく書かれています。
    ◆さらに竹内文書にある「富山王朝」とも一致してきます。
    ◆つまり、飛騨政権=越の国=富山王朝だということでしょうか?

    ぜひ今後も研究を続けたいので、何か情報がありましたら、書き込みをお願いします。

  • #4

    Misaki-1167 (土曜日, 20 9月 2014 20:00)

    飛騨は飛騨です。越の国というのはなかったと思いますよ。古事記でいう越とは「海の向こうの国」つまり新羅です。後に出雲・新羅神崇拝教が新潟佐渡辺りまで布教し、祭神を氏神から例えばイソタケルとかオオクニヌシとかスサノオなどなどにすり替えて行きました。これは全国の神社に言えます。だから天ツ神と出雲神が同祭祀されたりしておかしなことになっています。全部、三輪氏とかの差し金です。
    小彦名(イソタケル、五十猛)→大田タネコ→蘇我氏と繋がり大和朝廷と天皇が新羅に乗っ取られて行きました。

  • #5

    siraki (水曜日, 13 1月 2016 16:58)

    ニニギ는 유명한 百濟의 太子王으로 海를 건너서 築慈로 상륙해 왔고 百濟의 第2軍 卽 水軍은 北九州 해안을 우회해서 동쪽 바다로 들어왔다..대규모 陸戰隊는 疾風怒濤와 같이 進擊을 개시했고 그것을 막을수 있는 新羅軍은 그것을 막을수 없었다.