景行天皇が滅ぼした「土蜘蛛族」とは、ウガヤ王朝の本体だった。

禰疑野神社
激戦の地に残る禰疑野神社・・・この戦闘が歴史的事実であったことが分かる。

景行天皇が竹田まで攻めてきて滅ぼした「土蜘蛛族」とは、
実は、ウガヤ王朝の本体そのもの(吉野山に遷都した後の九州残留勢力)だった。

 


『日本書紀』の巻第七によると、景行天皇は大分県の竹田市にまで遠征してきています。
ところが、『古事記』には、この記述が全くありません。
しかも、『日本書紀』の現代語訳を見ても、景行天皇の言動はあいまいに訳されています。
そこで、あえて私が『日本書紀』の難解な漢文を正確に訳してみましたので、もういちどその経緯を振り返ってみましょう。

 


曰速津媛〔はやつひめ〕が申し上げるには、
『(前略)直入郡の禰疑野〔ねぎの、現・竹田市菅生〕には、3人の土蜘蛛がいます。
犬爰〔うちさる〕と八田〔やた〕と國摩侶〔くにまろ〕といいます。
みんな揃って強が力く、また仲間も多いので、天皇家には従わないと言っています。
もし無理やり呼びつけようとすれば、挙兵して抵抗するでしょう。』

 

景行天皇は、これを聞いて激怒しますが、進行することができません。
そのまま、来田見邑〔くたみのむら、現在の都野または宮処野〕に留まって、そこに仮宮を建てて滞在しましたが、家来たちが会議を開いて『いますぐ挙兵して土蜘蛛を討つべきです。もし我が兵勢を恐れて山野に隠れれば、後から必ず後悔します!』と進言します。

 

そこで、海石榴樹〔つばきのき〕を採って、槌〔つち〕を作って武器にして、勇猛な兵を選んで、これを授けます。これで山腹を穿ち、草を払い、土蜘蛛の岩室を襲って、ついに彼らを稲葉川の川上で破ります。

 

ことごとくその一族郎党を殺したので、血が踝〔くるぶし〕まで流れました。
このときから、海石榴樹で槌を作ったところを海石榴市〔つばきいち、場所不明〕と呼び、また血が流れた所を血田〔ちだ、菅生に現存〕と呼びます。

 

次に、犬爰〔うちさる)を討つため禰疑山〔ねぎのやま〕を越えたところで、反乱軍たちが横の山から矢を射かけて来たので、天皇軍の前方に矢がまるで雨のよう降ってきました。

そこで天皇は城原〔きばる〕まで退却し、川原で占い〔フトマニ〕をしました。

 

そして軍勢を整えると、まず禰疑野〔ねぎの〕で八田〔ヤタ〕を討ち破りました。
これにより打猿〔ウチサル〕は勝てないと観念し、服従を申し出ます。
しかし天皇はこれを許さず、一族郎党は自ら谷に飛び込んで死んだといいます。

 


 さて、ここからが本題ですが、最後に短い文章が付け加えられています。

 

是時祈神 則志我神 直入物部神 直入中臣神三神矣


つまり、このときに「志我の神」、「直入物部の神」、「直入中臣の神」の三神に祈った。
と書かれているのです。

あまりに短い一文なのでほとんどの人が読み飛ばしてしまうところですが、この一文が大変重要な意味を持っています。

 

私の解釈では、

「この三氏を滅ぼしたので、その恨み封じのため、新たにお宮を建てて封印した。」

と読めるのです。

 

つまり、景行天皇が滅ぼした犬爰〔うちさる〕、八田〔やた〕、國摩侶〔くにまろ〕の三人とは、

実は直入中臣氏、直入物部氏、志賀氏の三つの氏族の大将だったのです。

 

実は、私も長いことこの短文の意味が分からなかったのです。

なぜなら、「この三氏が、景行天皇に全面協力したので、天皇はその氏神様にお礼参りをした。」と、全く逆の意味にもとれるからです。

 

しかし、「ホツマツタエ」に、重要な記述がありました。
※ちなみに「ホツマツタエ」は「ヲシテ」という神代文字で書かれた古文書で、「フトマニ」という占いの方法が解説されていることでも有名ですが、なぜか直入と景行天皇についてはかなり詳しく書かれています。

 

直り神 両羽の社 新に建て これ祭らしむ 返詣で

 

つまり、「景行天皇は、直り神を祀る『両羽の社』を、新たに建てて、ここにお参りしてから帰った。」というのです。

元からあった神社ではなく、景行天皇自身が創建しているのです。

この戦いへの協力に対する「お礼参り」であったなら、しかも生きている豪族たちに対するお礼であったなら、わざわざお宮を建てる必要があったでしょうか?本人たちもありがた迷惑でしょうし・・・。

 

さらに、敵地を侵略するに際して、その土地の氏神様に「戦勝祈願」をするということは、まず考えられません。

 

つまり、もっとはっきりと書けば、「三人の豪族が戦死した場所に慰霊碑を作った!」

ということなのです。

 

ここで説明が必要になってきますが、ホツマツタエによると「直り神」とは、
直入の郡を治めていた二人の大臣、つまり「直り中臣氏」と「直り物部氏」であり、後代の藤原氏と物部氏の祖先にあたります。この二人が「両羽」だと説明されています。

 

この二氏は、ニニギが天孫降臨したときから、右大臣(鏡を守って政策立案を担当)と左大臣(剣を守って軍事担当)として付き添っており、ウガヤフキアエズ王朝でもその子孫たちが代々その重役を継承してきました。

 

さらに、 「ホツマツタエ」では

「(当時は)筑紫にいた天皇に行幸をお願いしたところ、(もう年なので)直入中臣氏(アメタネコと宇佐出身のウサツヒメとの間に生まれた子=ウサマロ)を派遣し、直入物部氏(クシミカタマの子=アタツクシネ)に、これを補佐するよう命じた」

とあり、これが豊の国、直入の郡(現在の大分県竹田市)が成立した経緯であると書かれています。

 

志我の神については記述がありませんが、現在でも久住高原一帯に実在する志賀一族(志賀の姓をもつ人たちの祖先)であったと考えられます。

前にも書きましたが、ニニギの命が降臨したとき、三人の神が重臣として同行していますので、ここに登場していない「オモイカネの命」が、志賀氏の祖先であった可能性もあります。

 

つまり、景行天皇に滅ぼされた三人とは、

実は、ウガヤフキアエズ王朝の重臣たちであった中臣氏、物部氏、志賀氏であり、

宇佐にいた女王・カムナツソヒメと、速見郡のハヤツヒメが相次いで降伏したのにもかかわらず、

あるいはこれらの女王たちの密命を受けて、

最後まで抵抗し続けて、滅ぼされてしまった英雄たちなのです。

 


 

もうひとつ気になるのは、「菅生」という地名です。

中臣鎌足が藤原姓を名乗る以前の古い中臣氏の家系図を見てみると、そこには「菅生氏」という一族が存在します。

この菅生氏が発祥した場所こそ、現在の竹田市菅生地区なのではないでしょうか?

 

さらに、古代からこの場所に「大集落」があったことは、考古学的な出土品からも実証されています。

ところが、この出土品=つまり生活の痕跡は、弥生後期になるとパッタリと途絶えてしまいます。

つまり、景行天皇が攻めて来たことにより、ここに住んでいた人たちは、忽然と姿を消してしまうのです。

まさに日本書紀の記述どおり、ここに住んでいた「土蜘蛛族」は根絶やしにされて、その後しばらくは誰も住まなくなったようなのです。

 


 では、なぜ日本書紀は彼らを「土蜘蛛族」 という、蔑称で呼んだのでしょうか?

それは「天皇家はあくまでも人民の味方であり、同属を滅ぼすことはない!」というイメージを壊さないための演出だと思われます。

つまり、「天皇がやっつけたのは悪者なのだ!」・・・・・と。

 

※本物の「土蜘蛛族」は、竪穴式住居のカヤブキ屋根の上から土を被せていた人たちで、「土屋根式住居」と呼ばれるものに住んでいた人たちです。だから“土グモ”のようだと呼ばれたのです。

この住居は暖房効果が高まることから、北方からやってきた縄文人であろうと言われています。

なお、北米のインディアンの一部族にもこの住居を使う人たちがいます。

私は北へ追いやられたアイヌの一派だと思っていますが・・・・・下記の写真参照。

 

※また「ウエツフミ」には、近畿地方に本物の大グモの化け物がいて、天皇に退治されたという記述がありますので、後代の偽作作家たちは、このキャラをモチーフにしている可能性もあります。

 


さて、日本書紀を編纂したのは藤原不比等ですが、彼は自分の祖先である中臣氏が滅ぼされた経緯を、涙を流しながら綴ったに違いありません。

あまり詳しく書けば、ときの天皇ににらまれてしまいますから、ごくごく短く、さらりと後代の人に伝わるように、暗号として残したのではないでしょうか?

 

あるいはこのとき既に、帰化人のニセ藤原氏が「日本書紀」を書いていたのかもしれません。

(藤原氏に関する私の考察はこちら

 

是時祈神 則志我神 直入物部神 直入中臣神三神矣

 

そう考えなければ、この短い一文は全く唐突で、不自然です。

 ・・・・・これはあくまでも、私見ですが。

 

この3つの神社は、約2000年後の現在でも、大分に存在し続けています。

志加若宮神社・・・・・朝地町宮生

籾山八幡社直入物部神)・・・・・竹田市長湯

直入中臣神社(直入中臣神)・・・・・由布市庄内町阿蘇野

 

土屋根式住居----大分でも千歳村などで見つかっている
土屋根式住居----大分でも千歳村などで見つかっている
コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (木曜日, 21 8月 2014 21:14)

    ニニギが九州平定に向かった当時、薩摩笠沙岬に塩土族、大隅に火照族、山間部に火遠族の3勢力があり、子のウガヤフキアエズ、孫のサヌ(神武天皇)の3代で30年以上かかって平定できました。そしてサヌは兄のミケヌマに九州を託し橿原大和に戻ります。奈良大和も飛騨王朝のニギハヤヒが開拓した地です。そして大和本家です。九州大和は分家ですが、後に卑弥呼が治めました。しかし、大和朝廷が奈良に晴れて飛騨から遷都してさてこれからという時、出雲では大変な殊が起きていました。オオクニヌシが新羅で「ソ氏」という一般家庭の娘に孕ませてできた子の小彦名が出雲を治めていた飛騨の天菩日命を殺し出雲を統治し飛騨大和朝廷打倒、天照大神の八咫鏡奪取に動き始めたのです。出雲は新羅人の国となり出雲神でまず橿原一の宮を乗っ取ります。御諸山を三輪山と改名し、崇神天皇の時、ニギハヤヒの御霊代の勾玉と剣を盗み、八咫鏡を狙い、皇位を大和から奪おうとしました。当然、九州にはミケヌマ命の家来も一部残っていたものと思いますが、この出雲新羅が嘗ての九州の外国部族にかこつけたかどうかは分かりませんが、熊襲(=新羅人を九州に上陸させ、九州大和国を乗っ取らんと画策したと思います。崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・仲哀天皇・応神天皇の頃はまだ大和朝廷は飛騨天孫の力が強く新羅人は天皇近親に近づき、役人を懐柔している段階です。景行天皇は純粋な飛騨皇統のお方ですから、九州を治める為に残ったミケヌマ命らの家来の物部氏、中臣氏、高木氏、思兼命の家来などを絶対に滅ぼすことなどありません。
    私は、出雲新羅のソ氏の子孫(後の蘇我氏)が九州に新羅人を呼び寄せ出雲と結託して九州大和国を攻撃させたと思います。熊襲とは新羅なのです。現に蘇我馬子の時、飛騨の神社だった宇佐神宮が同じく新羅の秦氏八幡に宮司の宇佐氏を追い出させ、神社を八幡神社にすり替えています。大和国は奈良橿原(本家)、九州邪馬臺国(ヤマトコクと読む)、津軽大和国と3つあったのです。みんな飛騨皇統から派生しています。

  • #2

    たいせい (火曜日, 07 7月 2015 22:52)

    私の地元は大分県の島なのですが、景行天皇が座り休んだとされている岩があります。