ウエツフミには由緒正しい『底本』が存在した!

ウエツフミは、鎌倉時代に豊後の国主であった大友能直により編纂されています。
なぜそれが分かるのかというと、能直自身が『序文』を書いて、署名押印しているからです。

 

<サンカとの関係について>
この文献の成立については、「山の民である山窩(サンカ)たちが口伝で伝えてきた民間伝承をまとめたものであろう。」という推論がまことしやかに通用していますが、大きな間違いであり、きちんとした底本をもとに書かれています。

 

サンカ文字と豊国文字が似ていることから、このような誤った解釈が出てきたものと思われますが、何らかの形でサンカたちが絡んでいることは間違いないようです。

 

例えば、サンカ研究家の三角寛は、千葉のサンカの長老であった印部一郎氏の談話として、「豊後のサンカ1600人が国守の大友能直に殺され、彼らの一切の記録が持ち去られた。」と書いています。

 

この逸話からピンとくるのは、印部氏という苗字です。

日本書紀によると忌部氏は「フトダマ」の子孫であると書かれているからです。

私はフトダマは物部氏の祖先であり、忌部氏の祖先はオモイカネであると解釈していますが・・・

ご存知のとおり、オモイカネは「知恵と言葉の神様」ですよねえ。

 

どちらにせよ、サンカたちはウガヤフキアエズ王朝にとって「天皇家の八咫烏」のような重要な役割を果たしていたと考えられます。

 

<底本について>
ウエツフミの記述には、それが参照した底本がきちんと書かれています。
つまり、それ以前に存在した古文書をまとめて編集したものなのです。
ところがこれらの文献は、いまは全て消失しています。

 

さらに、興味深いのは
日本書紀に「一書に日く」云々とは比の類(たぐい)なる。
と書かれていることです。

 

日本書紀は、本文以外に「一部少数説」として複数の異なる記述を併記していますが、その根拠がこれらの底本であるというのです。

 

つまり、下記の四つが証明されたこととなります。
◆古事記・日本書紀が書かれる以前から、我が国には文字で書かれた歴史書が伝わっていた。
◆これらの古文書は、現在は消失または行方不明になっている。
◆古事記・日本書紀もこれらの文献を参考にして書かれた。

◆ウエツフミの編集者は、記紀の存在を知った上で、記紀と同じ底本を参考に、あえて異なる記述を書いた。

(つまり、記紀の誤りを訂正し、足りない部分を補うため?)

 

ということは、逆に解釈すると、

記紀の編集者たちは、

「ウガヤフキアエズ王朝の存在を知りながら、あえてこれを無視した」

ということになりませんか?

 

その「底本」のリストは下記のとおりです。

 

<上記(うえつふみ)引用書目>
◆高千穂ノ大宮司ノ伝書
◆同国主元雄力伝書
◆常陸国新治郡富田某カ家記
(以上三部を原本と云う)

◆出雲国造上世記
◆常陸国鹿島国造文
◆伊豆加茂三島ノ伝書
◆尾張中島逆手記
◆伊勢度会文
◆摂津住吉大坐生記
◆肥後八代県文
◆阿波田村記
◆筑前後老家文
◆豊前後老家文
◆薩摩霧島記
◆越白山舟人文
(以上十二部総計十五部也)

日本書紀に「一書に日く」云々とは比の類なる

<これ以外に本文に登場する書名>
◆高千穂記
◆出雲記
◆新治記

 

では、「古事記」や「日本書紀」が正統な歴史書であり、「ウエツフミ」はなぜ偽書なのでしょうか?

その答えはシンプルです。

前者は権力者が書いたもの、後者は被征服者が書いたものだということです。

このことは重要なので、また章を改めます。

 

>>> 「明治10年発刊の『上記鈔訳』には、当時の県知事も参加していた!」

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