二上(ふたのぼり)の大宮とは、城原(きばる)だった可能性が高い!

北に久住山、南に祖母山を配する竹田市
北に久住山、南に祖母山を配する竹田市

ウエツフミによると、ウガヤ王朝の信仰の中心地は、 「二上(ふたのぼり)の大宮」であると書かれています。
ここに正統なる皇孫の証である八咫鏡(やたのかがみ)が置かれ、神々を祀る祭殿が建てられていました。

 

現在では、この地は宮崎県の高千穂町であるという説が有力となっています。

 

しかし、いろいろと研究を進めるうちに、どうしてもこの通説には納得がゆかないのです。

二上(ふたのぼり)の大宮は、祖母山の北側であったことは、ほぼ間違いありません。
このことは前にも書きましたので、興味のある方は、こちらから。

 

それでは、当時の信仰の中心地はどこにあったのでしょうか?

私の結論は、 「城原(きばる)八幡のある場所、または禰疑野周辺、つまり現在の大分県竹田市であった」と考えています。
そして、「大分(おおきた)の宮」が政治経済の中心地であり、この2つの都をつないでいたのが、大野川による水上交通だったのです。 >>>詳しくは、こちら

 


以下に、その証拠を列挙します。

 

◆景行天皇の遠征ルートから

景行天皇は、宮処野から奧豊後に侵攻し、菅生で激戦の末に、城原まで撤退し、体勢を立て直してから、禰疑野でウガヤ王朝の勢力を滅ぼします。 >>>詳しくは、こちら
つまり、ここに出てくる地名こそが、ウガヤ王朝の重要拠点であったということです。
特に、城原ではフトマニという占いを行っていますので、ここが神聖な場所であった可能性が高いのです。

 

逆に、景行天皇は宮崎県の高千穂町を素通りしています。
自分たちの祖先が降臨したハズの重要拠点を、挨拶も無しに通り過ぎたことは、全く不可解な行動であると、多くの学者が指摘しています。

つまり、当時ここには何も無かったと考えるほうが自然です。

 

◆天孫降臨のあった場所に関する記述から
記紀をはじめ、ウエツフミも含めて、天孫降臨の地に関する記述に共通する特徴は、下記のとおりです。
1.  九州にある高い山の頂上である。
2.  盆地状の地形で、2つの山頂が望める。この地形から「二上(ふたのぼり)の大宮」と名付けられた。つまり「2つのピークに上がることのできる都」という意味。
3. 『筑紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穗(たかちほ)のくじふる嶺(たけ)に天降りき』
という文章を素直に解釈すると、
『九州の東(ひむかし)の、高い峰々の、クジフル岳に降臨した』

と読めるのです。
つまり日向とは、ひゅうがという地名ではなく、ひむかし=東という方角のことである。
(古代宮崎県はクシヒの国、またはクシヒネ別と呼ばれていた)
たかちほも地名ではなく、高い山々が連なる峰のことである。
4.  それでは、クジフル岳とはどこか? というと、実は「久住山」だという可能性があります。

>>>詳しくはこちら

今でも久住山は別名「クシフル岳」と呼ばれています。
クジフル→クジフウ→クジュウと訛った可能性があります。

 

◆城原八幡のある場所から
地図上で、祖母山の山頂と、久住山の山頂を直線で結び、その中点を求めると、菅生の禰疑野あたりと、ピタリと一致します。
これは単なる偶然でしょうか?
そうではありません。

 

大分の宮でも、真北に「柞原八幡」、真南に「宇曽嶽神社」が配置されており、都を南北からガッチリと守るという配置になっています。
つまり、城原または禰疑野が「二上(ふたのぼり)の大宮」であったとするならば、北に久住山、南に祖母山が配置され、自然の地形により、外敵から都が守られていたのです。

 

このことを裏づけているのが、城原八幡の山門に配置された

豊磐牖命(とよいわまどのみこと)」と

櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)」の像です。
なぜか、山門なのに仁王像ではありません。

 

つまり、「豊」は豊玉姫の豊であり、祖母山を意味しています。
「櫛」はクシフル岳の櫛であり、久住山を意味しています。
「磐牖」は「岩間戸」の意味であり、自然の岩が戸のように守ってくれていることを意味しています。
だから、城原八幡社では山門の南に「豊磐牖命(とよいわまどのみこと)=祖母山の神」が配置され、

北側に「櫛磐牖命(くしいわまどのみこと)=久住山の神」が配置されているのです。
つまり都の守護神である山々が、神格化されて祀られているのです。

 

ちなみに、八幡様とは、豊玉姫が仏教と習合した別のお姿である可能性が高いのですが、話が長くなるので、章を改めます。

 >>>興味のある方は、こちら



もう一度整理しますと・・・

 

◆ウガヤ王朝の信仰の中心地であった「二上(ふたのぼり)の大宮」とは、現在の城原神社付近または禰疑野付近のことである。(研究中)
◆この場所は、北側に久住山、南側に祖母山があり、この二つの聖地の中間点で、どちらにも容易に登ることができる。だから「二上(ふたのぼり)の大宮」と名付けられた。
◆さらに、西側には阿蘇山の外輪山があり、三方から外敵が侵入することを阻む、天然の要塞である。
◆唯一開けているのは東側で、ここは大野川の河川交通を使って、瀬戸内海にまで達することができる。
◆この大野川に沿って、ウガヤ王朝の重要拠点が作られていった。

 

では、なぜ宮崎県の高千穂町のほうが有名になったのでしょうか?

あえてこの土地、つまり祖母山という自然の城壁の外側に聖地を偽装して、外敵を欺いたという可能性もあります。(前にも書いたように、ここには緒方町から三田井氏が遠征している。 >>>詳しくは、こちら。)
特に、熊本や鹿児島県北部は「加羅支那の国」の人たちが、たびたび攻めてきて、安全が脅かされていたという記述があるからです。 >>>詳しくはこちら


以上、あくまでも現在は仮説にすぎませんが、これから徐々に書き加えてゆく予定です。

 

 

城原神社の山門にある二体の像
城原神社の山門にある二体の像
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