景行天皇ゆかりの志加若宮神社は、志賀氏の居城だった。

志加若宮神社
志加若宮神社

『日本書紀』によると、景行天皇が土蜘蛛族を滅ぼしたあと、「志加若宮神社」に祈ったと書かれています。
通説では、これを「戦勝祈願」または「お礼参り」であろうと解釈しています。

私が、現地を詳細に調べたところ、全く別の事実が浮上してきました。
この場所こそ、滅ぼされた志賀氏一族の居城であり、激戦の跡地だったのです。

 

 

 

 

 


<なぜお城だと断定できるのか?>

 

まず、その地形です。
国道57号線と大野川に挟まれた、ゆるやかな高台の頂上に位置するこの神社は、まさに交通の要所にあたります。
ウガヤ王朝の古代国家は、北に久住山と大船山、南に祖母山と傾山、西に阿蘇山の外輪山があり、三方を険しい山に囲まれた天然の要塞でした。
唯一開けていたのは東側であり、この神社のある場所こそ、当時の戦略拠点だったのです。

 

つまり、外敵が侵略してくるとしたら、陸路・国道57号線を西進するか、大野川を遡上する以外に方法は無く、ここを押さえれば奥豊後の防衛は容易だったのです。
さらに、くねくねと曲がった分かりにくい周辺道路、麓に広がるかつての城下町と豊かな農地など、ここを訪れた人は誰もが、「ここが古いお城であった」ことを確信するはずです。

 

さらに、「若宮神社」の「若宮」という地名です。

「若宮」とは通常は「新しい都」を意味します。

志賀氏はもともと岡城のあたりを本拠地としていましたから、ここが新しい都、つまり「若宮」であった可能性は充分にあります。

「景行天皇遠征の地」の石碑と古墳にある石祠
「景行天皇遠征の地」の石碑と古墳にある石祠

<本殿の左側にある古墳は誰の墓か?>

 

本殿の左側、鬱蒼とした杉林の中にこんもりとした小山があります。

ほとんど壊れた石の祠もあり、ここが「古墳」であることは明確なのですが、誰のお墓なのかはどこにも説明されていません。

そこに立つ石碑には「ここはかつて志我神が鎮座した故宮である(文政11年2月吉良氏が建立)」と書かれています。

私の推測では、この古墳こそ、景行天皇に滅ぼされた3人の豪族、つまり犬爰〔うちさる〕、八田〔やた〕、國摩侶〔くにまろ〕のうちの誰かのお墓であったのではないか?と考えます。

 

<この神社のご祭神は?>

 

この神社のご祭神は、下記のとおりです。  

 

志我神(しがのかみ)   

┗底津綿見神(そこつわたつみのかみ)   

┗中津綿見神(なかつわたつみのかみ)   

┗表津綿見神(うはつわたつみのかみ)

 

つまり、志我神=綿津見神(わたつみのかみ)であるということです。

ご存知のように、この神様は海の神様であり、伝説の竜宮城の主であり、豊玉姫の父上であり、初代・ウガヤフキアエズの命の祖父にあたります。

景行天皇が、自ら滅ぼした敵方が信仰する地神様に対して、「戦勝祈願」または「お礼参り」をしたとは到底考えられません。

 

<志賀氏とは何物か?>

 

現在でも久住町で一番多い苗字が『志賀さん』です。

かつては、大友氏の重臣であり、志賀親次・志賀親度・志賀親守などの戦国武将を輩出しています。

また、豊臣秀吉の命により中川秀成氏が赴任してくるまでは、「岡城」を居城としていたことでも有名です。

つまり、奥豊後では名門の家系であった訳です。 単なる地方豪族というよりは、奥豊後最大の権力者であったと考えられます。

しかも海神である綿津見神(わたつみのかみ)を、志我神(つまり志賀氏の氏神)として信仰しているのですから、ウガヤフキアエズ王朝の流れをくむ一族であることは明確です。

また、博多の志賀島あたたりから発祥した阿曇(あずみ)氏一族とも関連がありそうですが、現在研究中。

志賀氏と阿曇氏の関係

 

つまり、景行天皇がやってきて滅ぼした土蜘蛛族とは、ウガヤフキアエズ王朝そのものであり、犬爰〔うちさる〕、八田〔やた〕、國摩侶〔くにまろ〕こそ、ウガヤ王朝の重臣たちだったのです。

>>> 詳しくは、こちら

[左]石灯籠に踏まれた狛犬 [右上]中国人風の軍隊の絵 [右下]外された鬼瓦
[左]石灯籠に踏まれた狛犬 [右上]中国人風の軍隊の絵 [右下]外された鬼瓦

<景行天皇のおまじないとは?>

 

まず、上の写真をじっくりとご覧ください。
中川家の家紋の入った石灯籠が、狛犬を踏みつけています。
狛犬はペッチャンコに潰れて、「参りました」と言っているようです。
なぜこんな「バチ当たり」なことをしているのでしょうか?

 

つまり、踏まれている狛犬は、志我神の見張り番です。
踏んでいるのは江戸時代にここを統治した中川の殿様です。
つまり、志我神が勢力を盛り返さないように、中川の殿様が押さえつけているのです。

 

もちろん、これは景行天皇の仕業ではありませんが、同様の仕掛けがいたるところに施されています。

例えば、屋根瓦に付いていた「鬼瓦」も外されて、地面に置かれています。
この鬼瓦は、私には何かの「海獣」のように見えるのですが、だとしたら綿津見神を守護するるための「魔よけ」であったに違いありません。

 

さらに、神殿内部の天井に古い絵が掛けられています。
ほとんど消えかけてよく分からないのですが、私には「中国人のような衣装を着た軍人」が描かれているように見えます。
だとしたら、景行天皇の軍隊が中国風の衣装を着ていたことを暗示しているのではないでしょうか?(推測)

 

最近、大規模な改修を行ったらしく、古い祠や石碑がことごとく破壊されています。
私には、誰かが意図的に破壊しているとしか思えないのですが・・・・・
私は宗教人ではないので、霊感のようなものは全く無いのですが、詳しい人がいましたら、ぜひお知らせください。

 

もう一度整理しますと
◆景行天皇はここまで攻めてきて
◆この地を統治していた志賀氏の居城とその大将を滅ぼした。
◆日本書紀は、この滅ぼされた人たちを「土蜘蛛族」という蔑称で呼んだ。
◆しかも滅ぼされたのは、犬爰〔うちさる〕、八田〔やた〕、國摩侶〔くにまろ〕の三人うちの誰かであり、実はウガヤフキアエズ王朝の重臣だった。
◆そして、景行天皇はこの勢力が二度と復活しないように、この地におまじないをして帰った。

 

 

>>> 『景行天皇が滅ぼした「土蜘蛛族」とは、ウガヤ王朝の重臣だった。』

コメント: 0 (ディスカッションは終了しました。)
    まだコメントはありません。