飛騨王朝と越の国・・・・もうひとつの古代勢力

このサイトに寄せられた投稿のなかに、「飛騨王朝」に関するコメントがあります。

飛騨・高山には「飛騨の口碑」という伝承があり、もうひとつの「我が国の起源」を伝えているというのです。

書き込みが分散しているうえ、長くて読みづらい投稿なので(失礼)、私が勝手に要約すると・・・・・

 

(1) 古代日本には最初に「飛騨王朝」が存在した。

(2) そこから「出雲王朝」が分家した。

(3) 「出雲王朝」はオオクニヌシの腐敗により「飛騨王朝」に再び吸収された。

(4) 九州には何も無かったので、3つの外国人勢力が横取りしようと、お互いに争っていた。

(モンゴル系隼人族、朝鮮系球磨族、インド系塩土族)

(5) そこで、「飛騨王朝」からニニギの命が派遣され、九州を統一した。

(6) その後、息子のサヌが大和橿原に大和国を建設した。

(7) 最後は、「出雲王朝」が新羅勢力に乗っ取られたので、「飛騨王朝」に対する逆襲と弾圧が始まり被差別民に落とされた。出雲神道は新羅信仰に変えられた。

 

さてさて、一見、荒唐無稽な少数説のようにも見えますが、『ウエツフミ』の記述と照合してみると、まんざらデタラメでもないことが分かります。

 

まず、重要なのは『ウエツフミ』のなかにも、ウガヤフキアエズ王朝が誕生する前に、「越の国」または「越根の国」が存在していた、とハッキリ書かれていることです。

 

この「越の国」は、ニニギの命の天孫降臨に抵抗していたため、先にタケミカヅチの命(別名トヨフツ)が派遣され、地神であったタケミナカタの命(オオナムヂの子で諏訪神社のご祀神)と力比べを行って、服従させます。

これが相撲の起源であると春日神社などは伝えていますが、どういう訳か、記紀ではこの逸話は「出雲国」の出来事であるとしています。

(つまり「越の国」の存在は完全に抹消されている)

 

明治時代に発刊された『上記鈔訳』に挿入された地図によると、「越根国」は現在の新潟・富山・石川・福井・岐阜・志賀にまたがる広大な大帝国だったようで、その都は「となみの国まきの山」(現在の富山県砺波市か?)にあったと書かれています。

>>>詳細は、こちら

 

さらに、最初に越根国のタケル(国司)に任命されたのは、「ツルギヒコの命の孫で、オクマの命の息子、ツルギアラクマの命、年齢108歳」という記述もあります。

 

その後も、「越の国」は、ウガヤフキアエズ王朝とは友好な関係を保っていたようで、たびたび天孫たちはこの地を訪れ、この地にロシア(おろし)が攻めて来た時は、九州から援軍を送っています。

(この記述も記紀にはありません)

 

以上が、ウエツフミからの検証です。

 


それでは、「飛騨の口碑」と「ウエツフミ」の記述を比較して得られる私の考察です。

 

(1) 「飛騨王朝」が最初であったかどうか?という議論は別にしても、古代日本には、下記の3つの大きな勢力が存在していたようです。

◆「出雲の国」・・・・スサノオを始祖とし、島根県あたりを本拠地としていた。

◆「越の国」・・・・飛騨・高山あたりを本拠地とする勢力。

あるいは「竹内文書」が伝える「富山王朝」のことかもしれない。

◆「豊の国」・・・・ウガヤフキアエズを始祖とし、大分県~宮崎県を本拠地とする、いわゆる「日向三代」と呼ばれる一族。

 

(2) 一時期、この3つの勢力は同時に存在し、お互いに覇権を争っていたのではないでしょうか?

つまり、3つとも地方豪族に過ぎなかったのが、お互いに「自分たちこそが皇祖である」と主張している、というのが実情のようですが、ベースとなる基本認識はほぼ一致しています。

 

(3) そのなかから、「出雲の国」が何らかの理由により滅んだことは間違いないようです。

ウエツフミでは、「オオクニヌシが人民に肉食を許したので、天罰が当たり、天変地異が頻発したため、統治を天照大神に返還した」とあります。

 

(4)(5) ここが一番議論のある部分ですが、九州は外国人ばかりであったとする「飛騨の口碑」に対して、「ウエツフミ」では、ここに日本人の祖先が降臨したとあります。

九州各地から続々と出てくる弥生時代の遺跡は、ここに何らかの巨大な文明があったことの証拠ですよねえ。

文明の背後には高度な統治機構が存在したと見るほうが、自然ではないでしょうか?

私もまだ研究中なのですが、山神の一族(山幸彦族)と、海神の一族(海幸彦族)が存在して争っていた可能性はありますが、なにしろ資料が少ないので結論に至っていません。

 

(6) 「飛騨の口碑」では、ニニギが九州を統一したのち、その息子のサヌが奈良橿原に大和国を建設したという理由がうまく説明されていません。

(記紀が伝える神武東征のことで、ウエツフミではここに約70代の天皇が挿入される)

 

(7) その後、新羅勢力が日本の政権を乗っ取ったという説は、私も同感です。

ただし「ウエツフミ」には、(滅んだあとなので)何の記述もありません。

八幡信仰は新羅系の神様が習合したものではないか?と考えています。

 


いずれにせよ、このあとに日本を統一した「大和王朝」は、上記のいずれの勢力にも属さない、第四の勢力であった可能性が高いようです。

なぜならば、我が国に古くから伝わるこれらの伝承を、ことごとく抹消するか、改竄を加えてしまっているからです。

正統な後継者であれば、むしろ先祖への崇拝から「復元と保存」という選択をするハズだと考えるのは、私だけでしょうか?

 

さらに、これは私の独断と偏見ですが、この4大勢力の力関係は、2千年後の現代まで引き継がれており、明治維新という形で再燃した可能性があります。

つまり、薩長土肥の明治政府に抵抗して弾圧されたのは誰だったか?よーく思い出してみてください。

◆西郷隆盛率いる九州勢力・・・・「ウガヤフキアエズ王朝」の残党?

◆越後・・・・・「飛騨王朝」の残党?

◆会津・・・・・本国を追われて東に逃げた「出雲王朝」の残党?

 

もし私の推測が当たっているならば、明治政府が歴史の再編と宗教の改革に積極的だった理由も見えてきます。

 


コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    Misaki-1167 (水曜日, 10 9月 2014 01:50)

    日本原人は飛騨に発生し、それが全国に拡散して行き原日本人が住み着きました。飛騨大陸は20億年前に形成され、浅い海に4億8000年前にはミジンコがいました。これは昭和55年に飛騨の上宝村で発見されました。海藻類が吐く酸素が5億年前後になると空気中に酸素が混入されて陸上に生物が住めるようになると生物が這い上がって進化を続けました。宮城県黒川郡大和町中峰C遺跡から発見された石器は熱ルミネッセンス法で37万年前後のものと分かりました。また青森県外ヶ浜町の大平山元1遺跡からはなんと16500年前の土器が発見されました。このように飛騨に発生した日本原人は37万年前後に宮城県にまで拡散して住み着いていました。
     日本で一番初めに日本原人が生まれたのは飛騨の乗鞍岳のふもとでした。全国に飛騨から人が散らばって行ったのですが、飛騨には大淡上方様という御方が出られ、国をまとめるにはどうすればいいかを考えられ、本家を中心に分家を飛騨の要所に配置し、先ず国内の防衛に取り掛かられました。大淡上方様からは兄弟として直系命、山下住水分命、山本住命の三人の分家がありました。
    直系命には15代目に淡上方様が出られ、更に伊邪那岐命、そして35代目のヒルメムチと子孫が繋がって行きました。
     15代淡上方様の代に「このまま飛騨にのんびりしていては外国勢が大勢来て危ない時が来る。海辺を見張らせて舟を造れ」と命令されて、若狭湾、琵琶湖、庄川、神通川の河口付近、新潟、東京湾、秋田、山形、瀬戸内、伊勢湾などに分家の者を配置して万が一の時には直ちに連絡するように備えられたのです。
     山本住命の子孫は山本高山土公命が大勢の一族を連れて伊勢の鈴鹿の海岸に住み着きました。山本一族は分かれて琵琶湖の山本山のふもとに住み、その分かれが若狭湾の山本に行き織田の地に住んだのです。
     山本一族と共に山下住一族が鈴鹿に下り、後にこれが命により二つに分かれて一団は東の方へ行き、伊豆と横浜方面へ、他の一団は海路瀬戸内海の大三島に行きました。大三島へ行った山下住一族が大山祇神社に祀られ、伊豆へ行ったのがやはり大山祇命となり後世伊豆の三島に祀られました。
     出雲は意宇国といい、この大三島に展開した大山祇命の先祖が開拓した国です。この時代、日本には数十の国らしきものが出来ていましたが、飛騨と出雲が2大政権でした。
    中でも飛騨はダントツに大きな国でした。
    出雲は飛騨が開拓した国であり、また日本国の防衛と言う意味では非常に重要な国でした。
    ですから、両国は政略結婚で和睦しつつ国を一つにまとめるべく縁談で誓約していたのです。
     伊邪那岐命の嫁として伊邪那美命が飛騨へ嫁ぎ、ヒルメムチ(天照大神)と素戔嗚命が生まれました。素戔嗚は母の国である出雲へ出奔し婿に行きました。淡上方様、伊邪那岐命の後を継いだ天照大神は第35代目の飛騨スメラ命でした。
    天照大神の御代に出雲に婿入りした素戔嗚命は一度大国主を連れて飛騨を訪れています。そして大国主の二人の弟と天照大神の二人の姫を縁組させる約束をし、大国主は二人の姫の姉の多紀理姫と結婚し一緒に出雲へ帰りました。
     また、天照大神の息子の熊野久須毘命は出雲へ婿に行きましたが、誰かに殺害されてしまいました。
    さて、出雲に嫁いだ長女多紀理姫ですが、阿遅志貴命と下照姫が出来た頃、大国主は腹違いの妹の須勢理姫を正妻にし、阿遅志貴命(加茂命)を後とりにもせず、侍女との子の事代主を後とりにし、須勢理姫は勿論、次から次へと娘を替えました。多紀理姫は裏切られて幼い二人の子を侍女に任せて飛騨へ逃げ戻りました。
     詳細を省きますがここで飛騨の談判となりました。
    そして、㈠大国主は出雲の統治権を飛騨に返す。出雲は天照大神の息子の天穂日命が治める。
    ㈡大国主と事代主を幽閉する。
    ㈢予てからの誓約である大国主の弟二人と多紀理姫の妹二人の縁談は約束通り進める。
    事が決まりました。
    大国主は逃げられないように高床式の高層建築を建て、その中に一生幽閉されました。建物は飛騨の匠が建てました。現出雲大社の前身です。
    さて出雲の件が一段落し、次は筑紫の平定が待っていました。その前に飛騨は気候変動により、降雪が多くなり都として機能しずらくなって来たので温暖な大和に遷都すべく、高天原の天の安川原で決定されていたので、天照大神の孫で弟の邇邇芸命が九州平定に向かう前に、兄の饒速日命が大勢の若者や家来を引き連れて橿原の地の開拓に降臨されました。畿内には天照大神の子の天津日子根命の子孫が多数おり、その方々と共に橿原を開拓し、将来九州平定から邇邇芸命が戻られた時の都の整備に前もって向かわれたのです。当時は末子相続でしたから、邇邇芸命が戻ってから都で皇統として即位することは当然でしたし、飛騨天孫はその日を楽しみに待ち続けたのです。
    そして兄の饒速日命が大和開拓に向かわれてから後、今度は弟の邇邇芸命が飛騨の大勢や、それでは足らないので、鈴鹿や畿内など参加できるもの達を引き連れて九州へ向かいました。これが天孫降臨です。
    当時九州は土着の日本人は勿論いましたが、外国勢が3部族上陸し三つ巴の戦をしており、放置すればいずれ飛騨へも侵略しにくることを天照大神が予見されて、平定の命を下されたのです。それに先立ち、出雲から出戻った多紀理姫ら三姫を九州に下見と状況偵察に出されています。三姫は九州遠征にも案内役として同行されました。
    この遠征には大三島の大山祇の子孫や山本住命の18代目の子孫の猿田彦命らが大活躍されました。
    邇邇芸命は大山祇の娘の木花咲耶姫を妃とし九州の苅田の浜で急に産気付き鵜萱葺不合命が生まれました。
    邇邇芸命は3部族の塩土族と先ず和睦し、成人した鵜萱葺不合命の妻として塩土翁の娘の玉依姫を貰い、後に孫のサヌ命、後の神武天皇が生まれました。 
    また、玉依姫の姉の豊玉姫は球磨族(火遠族)の火遠理命と結婚して塩土族と和睦しました。そして2部族が隼人の火照族を攻め、火照族が滅ぶ寸前に仲裁して火遠族と火照族を兄弟盃させ、自らはこの二人と親子盃をさせて3部族を親戚としてまとめ上げたのです。
    これに至るまでに30年以上の時間がかかりました。
    やがて九州も平定されサヌ命が飛騨での決定通りに大和に戻る時期が来ました。
    邇邇芸命は九州で亡くなり、饒速日命達が開拓して待っておられる奈良橿原大和への帰還が行われました。
    途中手違いから長スネヒコの件がありましたが、ナガスネヒコは殺した事にして東北に流しました。
    そして、サヌ命は邇邇芸命の言いつけを守り、大和帰還を果たし、無事御帰還の知らせは飛騨へも使者を通して伝えられました。飛騨はお祭り騒ぎとなり皆でサヌ命の御帰還を祝福し、位山の一位の木で作られた笏板が授けられ、サヌ命は奈良橿原大和初代の天皇として畝傍山で即位されました。ここに飛騨王朝は終焉し、橿原大和が飛騨皇統=日本皇統の地となったのです。
    しかし、この時既に出雲では大変な事態が起こっていました。先に述べたように出雲国は飛騨領となり、国防上の最重要地として天照大神の長男の天穂日命が統治していたのですが、幽閉所で大国主が静かに息を引き取った葬儀の晩のことです。
    大国主は飛騨の談判の時に全てを反省し、国内の妾などに産ませた子供全てを白状したものと飛騨の人達は思いました。
    ところが、まだ隠し通していたことがありました。
    飛騨の人達が談判に行っても大国主はいませんでした。出雲にいないから11年間も談判どころではなかったのです。では大国主はいったい何処へ行っていたのか?
    とんでもない事が判りました。彼は新羅に11年間も行ったままでした。
    新羅へ行き、新羅の一般家庭の「ソ氏」の家の娘に子供を産ませていました。妹もいました。そしてさらにそこらじゅうの娘達に何と181人ともいわれる新羅娘との子供が出来ていたのです・・・
    そして最初に「ソ氏」の娘に産ませた子の少彦名が出雲に父を訪ねて来ました。日本の王だと母から聞いていたはずです。父に会うのを楽しみに来たはずです。
    でも、大国主は幽閉されていました。
    最初は天穂日命の言う事を聞いて従順にしていました。しかし、大国主が亡くなった晩の葬式の後にとんでもない行動に出たのです。
    少彦名は飛騨から来て出雲を統治していた天穂日命を惨殺しました。出雲の釜茹で神事が物語るように、釜で穂日の死体を煮て、食べてしまったのです。
    そして、骨をどぶ池に捨てました。出雲の国造の水葬の始まりです。
    そして乗っ取った出雲で新羅神を崇拝する出雲新羅神崇拝教という新興宗教を興し、半島由来の大陸の物質文明を武器に日本の大和人の信心深さに附け込んで、神社に新羅神を入れて行き、と同時に物質文明の豊かさを武器に日本人の心の中にまで入り込んで行くのです。
    少彦名は短命でしたが、出雲を取りかえした英雄として五十猛・イソタケルを祭神に仕立て、古来の飛騨の古神道である氏神を出雲新羅神にすり替え、神官を奪い、先ず思想から日本乗っ取りをしたのです。奈良開拓の祖の饒速日命の御諸山も少彦名の子孫の大田タネコという三輪山の神官に乗っ取られ、御諸山から三輪山へと名を変えられてしまいました。一の宮も乗っ取られ大神神社とされてしまいました。
    更に段々出雲は勢力を増し、蘇我氏が出てからは天皇・皇后、大臣まで蘇我氏の血が入り、聖徳太子さえ蘇我氏の一門と言う程に大和政権を乗っ取りました。蘇我の血は今上天皇にも引き継がれていると言います。
    蘇我娼子と蘇我堅塩媛によって蘇我氏滅亡後も今日まで引き継がれています。

  • #2

    Misaki-1167 (水曜日, 10 9月 2014 17:50)

    大三島の大山祇命と薩摩の塩土翁とを混同した『古事記』について、山本健造著「明らかにされた神武以前」より抜粋して紹介します。
    抜粋・・・国学者は大山祇命を山の神と早合点していたようですが、昔は山に住んでいたところの、海の支配権を持つ船団の頭領だったのです。
     九州の南端の薩摩半島の彼方から(私はインド南端のタミール語民族と推定)舟で流れ着いて、笠沙の岬を本拠地として住み着き、舟を多数持っている塩土翁を海神と言いました。この海神の娘に豊玉姫と玉依姫がありました。『古事記』は豊玉姫を「わに」に仕立てています。
     ひこで、九州の山間部には、北満よりウラジオストックの近くを通過して渡来したと思われるモンゴル族が勢力を張っていました。その首長が火遠理命であり、この火遠理命と海神の娘豊玉姫が結婚し、この海神の助けにより、九州の大隅半島から鹿児島辺りに勢力を持つ隼人(琉球から来たと思われるモンゴル族)を攻めたのです。
     皇孫邇邇芸命の一族は、これを仲裁して兄弟盃させ、皇孫に対して子として仕える杯をさせたのです。そして、邇邇芸命の子の鵜萱葺不合命は豊玉姫の妹の玉依姫を妃に迎えたのです。
     この出来事と大三島の大山祇命の娘木花咲耶姫と邇邇芸命が結婚された事が、長い間に混同されて、笠沙の海岸にいた豪族の塩土翁を大山祇命にして、木花咲耶姫をこの海神の姫と思い込んでしまったのです。
     飛騨の山に住んだ命、即ち大山祇命と、南方から潮や土を越して来た塩土翁とを混同したのが、とんでもない間違いを起こしたのです。
     薩摩半島の野間崎へ上陸された皇孫は邇邇芸命と伝えられているが、実は鵜萱葺不合命だったのです。
    命を喜んで迎えたのは大山祇命ではなく塩土翁であり、木花咲耶姫ではなく玉依姫だったので、政略結婚だったのです。
    『古事記』が編纂される頃までに年月が経ちすぎて、二つの事件が混同されて伝えられたのです。
    『古事記』に誤記されたので、笠沙宮や金峯の吾田
    辺りにあった鵜萱葺不合命と玉依姫の遺跡が、邇邇芸命と木花咲耶姫に塗り替えられたのです。
    『古事記』時代の人は単純で、木花咲耶姫が火の中で三つ子を産んだというような、ありもしないことを信ずるあたりが滑稽です。
    この玉依姫の子が神武天皇になるのですから、塩土翁は大船を沢山持っていて御東遷を応援され、部下が大三島に定住して、大山祇命の子孫と共に水軍を興すようになるのです。・・・抜粋終わり。
    九州平定は飛騨王朝が高天原の天の安川原で飛騨全域の民や天照大神・思兼命夫婦、高御産巣日神ら総出の大会議によって決定されたことです。
    出雲はこの九州平定のことは知っていて詳しく「記紀」に書いていません。
    古事記、日本書紀は出雲が書いていますから、都合の悪い事はボカし、或は意図的に分かりにくくし、或は全く書かずにいるのです。
    出雲が、出雲というより新羅の子孫が大和朝廷飛騨を乗っ取って行くわけですが、その経緯が判っては困るのです。
    これは日本の現体制にも関わることなので、更に考察が必要だと思われます。