海彦山彦の時代に、ヤタの鏡は高千穂の天の岩戸にあった!

私は、以前『天の岩戸は、地震から逃れるためのシェルターだった。』という記事を書いています。

ところが、これは全くのガセネタであったことが分りました。

参照した下記のサイトに掲載された、豊国文字の現代語訳が間違いだったのです。

http://utukusinom.exblog.jp/9661239/


そこで、皆様に深くお詫びするとともに、この訂正記事を発表させていただきます。


宮崎県の高千穂地方に、「天の岩戸」という場所があります。

こここそが、天照大神が弟のスサノオの命の乱暴に腹を立てて、お篭りになった場所だと伝わっています。


ところが、この場所から出てきた蓋石には、「豊国文字」で全く別の事実が書かれていたのです。

まず、下記の写真をご覧ください。

これが、「蓋石の碑文」の模写です。

ここに書かれているのが「豊国文字」という神代文字です。

蓋石の碑文
蓋石の碑文 出展: 『上記鈔訳』 国立国会図書館デジタルライブラリー

文政四年といいますから、江戸時代の末期に、日向国臼杵郡岩戸村で発掘されたもので、遥拝所のご神体として七折村の佐藤家が所有していたとあります。

この遥拝所を建設するためこの地を掘ったところ、この蓋石と、古鏡が七枚、四種類の陶器が出土したと書かれています。


ところが、この豊国文字をどう解読するのか?

をめぐって、現代語訳が全くバラバラなのです。


岩戸蓋石写真(昭和10年撮影)
岩戸蓋石写真(昭和10年撮影)

地震シェルター説

私が最初に書いた記事は、この説がベースとなっています。

あちこちのサイトで見かけるこの解釈が、どこから出てきたのか分りませんが、ほぼ翻訳ミスと断定して構わないと思います。

 

その要旨は、「火之明(ホノアカリ)の時代に、阿蘇山で地震が発生したので、この洞窟に篭って助かった。」

というように現代語訳されており、全くデタラメの読み方であることが分りました。

>>>詳しくは、こちら


ヤタの鏡が置かれていた場所であるという説

一方、明治時代に『上記(ウエツフミ)』を深く研究していた下記の3人は、その著書『上記鈔訳(明治10年発刊)』の序文で、全く別の解釈を展開しています。

 

吉良義風・・・・大分県竹田市出身で、旧・岡藩の藩士、のちに教部卿の役人として活躍。

森下景瑞・・・・明治時代の大分県令(現・大分県知事)で、『上記(ウエツフミ)』の復元に尽力。

岸田吟香・・・東京日日新聞(現・毎日新聞)の主筆で、古代史に関する記事を紙面上で展開。

 

この3人が解読した「蓋石の碑文」は、下記のとおりです。

 

(前段翻訳不能のため省略)--------右側は筆者による現代語訳

火之明(ホノアカリ)の命が--------ホノアカリの命が

この天の岩戸に篭座す時の--------この天の岩戸に篭って鎮座したときに

遊びの供えに奉る--------行幸のお供えとして奉納された

 

ひとつの大御鏡は--------ひとつの大御鏡=ヤタの鏡は

皇太御神の御霊として--------天照大神の御神体として

天の岩戸に遺こし--------(天上界の)天の岩戸に残し

 

持出ししなるを--------持ち出した(もうひとつの鏡)を

天の岩屋戸の此地の岸に--------天然の洞窟のあるこの地の岸に

石もて四枚に立てて--------石を四枚立てて

隠し置くなり--------隠し置いたのである

 

つまり、「こここそが、ヤタの鏡が置かれていた隠し場所である」と書かれているのです。

 

その他の記述も『ウエツフミ』の全体と一致します。

例えば・・・・

 

◆ヤタの鏡は二枚作られたということです。

このことは、以前にも書きましたので、興味のある方は、こちらから。

 

◆そして、そのうちの一枚をニニギの命が携えて、祖母山に天孫降臨してきます。

それは、最初は大分市の御宝山に置かれていました。

(御宝山は現在の霊山とするのが通説ですが、私は宇曾岳であると解釈しています)

>>> 詳しくは、こちら

 

◆その後、ここ高千穂町に移動してもおかしくありません。

 

◆ちなみに、この『上記鈔訳』を書いた三人は、ホノアカリ=海彦説をとっています。

なぜなら、ウエツフミにある下記の記述とも一致するからだとしています。

 

弟・山幸彦の人徳に人気が集まり、兄も皇位継承権を弟に譲ろうとするのですが、山幸彦自身が「自分は弟だから」という理由でこれを辞退したため、兄はそれを嘆いて『天の岩戸』に篭って反省した。

 


ところが、「いったいホノアカリとは誰なのか?」をめぐっては、解釈が大きく分かれています。

ニギハヤヒ説

(1)『ウエツフミ』では、ホノアカリ=火明橿日(ホアカリカシヒ)の命とは、ニギハヤヒ、またはその一族だと書かれているのです。

 

※宗像本36綴7章には、第70代ウガヤフキアエズの命が「火明(ホアケ)の命とは誰か?」と尋ねたところ、「ニギハヤヒの子孫です。この神は領主にはならず、斎(いつき)として天の磐船に乗って臼杵の河内山に降臨しました。だから天上界の呪術を伝えます」と地神が答えている。

※『上記』宗像本37綴7章に、「お前の祀る神は誰だ?」と聞かれたナガスネヒコが、ニギハヤヒのことを「天照国照彦天津火之明饒速日の命」と答えている。

 

(2)『ホツマツタエ』でも、ホノアカリ=ムメヒトとは、ニギハヤヒの父とされています。

 

(3)『ウエツフミ』の記述を信じたい私の立場ですが、火之明=ニギハヤヒという解釈に従うと、ニギハヤヒが高千穂町に居たことになり、他の記述と矛盾してきます。

ニギハヤヒは関西(現在の大阪府交野市の磐船神社あたり)に降臨した、ニニギの命とは別系統の皇祖だと書かれており、九州までやってきたという記述は無いからです。

【訂正】その後の研究により、ニギハヤヒは臼杵の河内山に降臨したことが分りましたので、「九州までやってきたという記述は無い」という部分は撤回させていただきます。詳しくは、こちらから。

 

※なお、ウガヤフキアエズ王朝はニギハヤヒを敵とみなしている訳ではありません。

ナガスネヒコとの戦いにおいては、もしナガスネヒコが本物のニギハヤヒの子孫ならば争いを控える姿勢を見せたのですが、ナガスネヒコの出してきた証拠=神器が盗品だったうえ、加羅支那国の勢力と結託したため、怒ってナガスネヒコを滅ぼしています。

 

(4)さらに、ニギハヤヒがヤタの鏡を持っていたこともあり得ません。

なぜなら、この神様の持っていた「十種の神器」は弓矢などであり、全く別のお宝なのです。

 

海彦説

(1)『古事記』では、ホノアカリ=火明りは存在せず、長男=ホデリ=火照りが海幸となっています。下記の『日本書紀』との対比からホノアカリ=ホデリ同一人物説が主流になっています。


(2)『日本書紀』の本文では、火明命とは、海彦・山彦の三番目の弟であるとしていますが、「一書に云わく」として数々の異説も書かれており、最終結論に至っていません。


(3)ちなみに、明治時代に『上記鈔訳』を書いた三人も、海彦説をとっています。

なぜなら、ウエツフミにある記述とも一致するからだとしていることは既に述べたとおりです。


(4)ところが、皇位についていない兄・海幸彦が、ヤタの鏡を持ってこの岩戸にこもったことは絶対に考えられません。

ヤタの鏡は、弟・山幸彦の即位にともなって、父・ニニギの命から直接手渡されているからです。

 

山彦説

(1)以上の消去法から、ホノアカリ=火明りとは、山幸彦のことだったということになります。


(2)このことを裏づけるかのように、祖母山の南側=宮崎県側には、ホオリ=山幸彦に関する伝承が多く残っています。

例えば、祝子川(ほうりがわ)という地名があり、このあたり一帯には古代文明の存在を暗示する神秘的な遺跡が多く残っています。

だから、この川の上流にある「祝子川温泉美人の湯」には、山幸彦の銅像(アサヒ化成による建立)も建てられているのです。


(3)つまり、第二代の皇孫である山幸彦の時代には、ここ祖母山の南東側山麓一帯を本拠地としていた可能性が高いのです。


天孫降臨があったのち、大分方面に展開していった初代・ニニギの命が、第二代ホオリ=山幸彦の時代になってから、祖母山の南東側=現在の宮崎県高千穂町周辺に遷都したと考えると、すべての説明が整合性を帯びてくるのです。


ちなみに、大分県と宮崎県のあいだに県境が引かれたのは、第三代皇祖であるウガヤフキアエズの命の時代になってからなのです。

ウガヤフキアエズの命は、大分県を豊日別(とよひべつ)と定め、宮崎県を奇日別(くしひべつ)と定めて、はじめて境界線を引きました。

つまり、祖父の土地と父の土地を別々の建(たける=国司)に管理させてから、この2つの地域が分離されたということなのです。



こう解釈すると、「蓋石の碑文」の主旨は、

「ホオリ=山幸彦が、この『天の岩戸』に鎮座=遷都したときの、行幸のお供に奉納されたヤタの鏡を、この場所に隠した」

ということになります。

 

あるいは、もっともっと複雑な事情があって、兄の海彦がヤタの鏡を持って洞窟に篭ったという可能性もあります。

例えば、

◆一旦、長男の海彦が受け継いだヤタの鏡を、何らかの理由で弟の山彦が継承した。

(弓矢と釣り針を交換したという伝承は、政権交代があったことを比喩している?)

◆兄の海彦は、この洞窟に幽閉されていた。(三種の神器とともに)

◆天照大神とスサノオの確執は、実は海彦と山彦の確執であり、弟の暴挙に腹を立てて洞窟に篭ったのは、海彦だった?(確かに太陽神である天照大神が地上の洞窟に篭るのは不可能だし、そもそも天照大神は地上に降臨したことはない)


その他、いろんな可能性も浮上してきますが、どれも根拠の無い仮説なので、あとは今後の研究を待つしかないようです。

 

『天の岩戸は、地震から逃れるためのシェルターだった。』

 

『海彦山彦で露呈した捏造の証拠、『古事記』を書いたのは隼人だった!』

 

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