ニギハヤヒは、天孫の斎として臼杵に降臨した!-----物部氏の祖先だが、長髓彦とは無関係だった。

古事記・日本書紀では、あいまいに描かれているため、その正体について大混乱をきたしている邇藝速日命=ニギハヤヒの命ですが、ウエツフミでは、実に詳細な記述が残されています。

ただし、その記述が通説とは大きく異なっていますので、ここに正確に再現しておきます。

今後の研究の材料としてお使いください。



ニギハヤヒの出自

『ウエツフミ』によると、

◆火明の命とは、ニギハヤヒのことであり、天之忍穂耳の命の御子である。

と書かれており、ここまではほぼ記紀と同じです。

つまり、天孫降臨したニニギの命とは腹違いの兄弟であり、天照大神の孫だということになります。


また、

◆天に在っては、御子星御祖の神(ミコツツミオヤノカミ)と呼ばれる。

つまり星々を司る神々の総司令官という意味でしょうか?

と説明されています。

M36-7



降臨した経緯

ここが通説とは大きく違っているのですが・・・・・


◆ニギハヤヒは斎(イツキ)として、降臨した。

⇒その役目は、ニニギの命らの天孫族が、天の下を治めるのを助けることである。

⇒そういえば、天照大神のファミリーは、本人以外の全員がニニギの命を助けるために地上に降臨していますよね。


◆「天之磐楯船」に乗って、臼杵の河内山に降臨した。

⇒あとで説明しますが、近畿に祀られたのは後世になってからのことです。

⇒江戸時代の享保の頃、臼杵藩と佐伯藩とのあいだで、津久見奥河内の山林の所有をめぐる争いがあり、これを「奥山論争」または「奥河内山争議」と呼び、聖地の奪い合いとなった可能性もあります。

この場所こそニギハヤヒの降臨した場所と思われますが(下記の地図参照)、現在調査中。

⇒「天の磐船」ではないことに注目、つまり乗っていた宇宙船の形状が異なる可能性があります。

(磐楯船が母船を意味すると解すれば、ニギハヤヒが総司令官だという説明にも納得できます。

⇒なお、私が参照している田中勝也氏の『解読 上紀』にも、下記の解説があります。

*豊後史蹟考:海部郡臼杵荘に「小河内」・「下河内」・「奥河内」がある。

*なおここに見えるニギハヤビの降臨説話は旧事記が物語る同型伝説に重なるが、旧事記では天磐盾船ではなく天磐船となっていてしかも降臨の地を畿内の河内の国とする。

*「臼杵の河内山」とする上紀の記事は畿内河内国降臨伝説をモチーフにして作為されたものであろうか。

*一方、谷川健一氏は「白鳥伝説」でニギハヤビ伝説が筑紫に広く分布していることを傍証としてニギハヤビ伝説を担った物部氏の故地を九州北部とする推論を展開している。

*すなわちここに見える臼杵の河内山降臨説話を単なる作り事とだけ片付けられない面がある。


◆天上界の呪術を伝えた。

ということで、実際の呪文が書かれており、災いごとがあったときは、密かにこの呪文を唱えなさいと指示があります。

ちなみに、ニギハヤヒの御魂代として伝わっている「十種神宝」とは、お宝のことではなく、この呪文の一部なのです。

 だから、ナガスネヒコとの戦いで争点になった「弓矢」こそが、本当のご神宝なのです。

M36-7

 


◆畿内への再降臨?

さらに、ウエツフミの最終章である宗像本第41綴第16章には、

「ニギハヤヒら十神が、天の磐船に乗って秋津根国(畿内)に降臨したので、この地を磐船山という。」

と書かれていますが、河内山斑鳩山(下記参照)とは異なっており、前後の脈絡も無く突然に登場するこの章自体の位置づけが不明瞭で、降臨した目的など何も書かれていません。(何者かがあとから付け加えた可能性もあります)

 

あるいは、字句どおり素直に読めば、2回目の降臨は、仲間を引き連れての「磐船山」だったということになります。

ちなみに、このときは「磐楯船」ではなく、「十神おのおのの船で・・・」というような説明が加えられていますので、やはり初回とは異なる「再降臨」と読むべきでしょうか?


現在の磐船神社 (交野市)とする説が有力ですが、ここにある岩船はあくまでもモニュメントであり、実際にこの岩に乗ってきたとすると、それが10個無いとおかしいですよねえ?

 

ニギハヤヒの降臨地
ニギハヤヒの降臨地

第70代ウガヤフキアエズの命との関係

第70代ウガヤフキアエズの命は、お后の矢野姫に御子を孕ませるのですが、このお産が大難産で、とうとう矢野姫は臼杵の大の浜(現在の大浜)の産屋で亡くなってしまいます。


そこで第70代は、中臣道柴の命(ナカトミミチシバ、年齢350歳余り)に蘇生のおまじないを命じ、矢野姫はみごとに息を吹き返しますが、その最中に不思議な夢を見ます。


火明(ホアケ)の命という神が現われて、

『私の子孫(であるあなた)が、皇族の子を孕んだことは、わが一族の誉れである。だから難産なのである。これから百日間、天上界の呪文をこの男(中臣道柴の命)に唱えさせよ。そして私を畿内の斑鳩山に祀れば、この皇子の繁栄を守ってあげよう。』

と、告げます。


このときに、第70代は「火明(ホアケ)の命とは誰か?」と、中臣道柴の命に聞くのですが、その答えが複雑なので、家系図にしてみました。(下記参照)


つまり、火明(ホアケ)の命とはニギハヤヒのことであり、お后の矢野姫はその血筋にあたるというのです。


第70代は納得して、ただちに畿内の斑鳩山に大宮を造って、ニギハヤヒが臼杵に天孫降臨したときに持参した「天之羽羽矢(アメノハハヤ)ひとつと、置靱(オキユキ)ひとつ」を、この宮に御魂代として置いたのです。

M36-6


このときから、ニギハヤヒは九州から移動し、関西の地に祀られることになりました。



長髓彦(ナガスネヒコ)との関係

(1)『ウエツフミ』の記述

『ウエツフミ』によると

「神武東征」の際に反乱を起こした長髓彦(ナガスネヒコ)とは、


◆ニギハヤヒの子孫ではなく、単なる関西の一豪族にも関わらず、

◆盗んだ御魂代を見せて、自分をニギハヤヒの子孫と偽った。

(もしナガスネヒコが本物のニギハヤヒの子孫なら戦闘を控える姿勢さえ見せた)

◆加羅支那国までも騙して味方につけ、この外国軍勢を関西に引き入れた。

◆ニギハヤヒではなく、ウマシマテが降臨し、皇軍の味方として参戦した。

(「ナガスネヒコは甥である私・ウマシマテさえ殺そうとした狂人なので」と、本人が理由を述べている)

(さらに、私=ウマシマテは、「ニギハヤヒの子孫であるウマシハヤビとカシキヤヒメ=別名・鳥見屋姫との間の子である」という異説を展開しているが、こちらのほうが真実で、ナガスネヒコの供述は捏造か?)

M38-5

◆五瀬の命を騙し討ちにして戦死させ

◆最後は、自分も攻められて自殺してしまうという

◆極悪非道の大悪人

だと説明されています。

 

さらに、ナガスネヒコの祖先についても詳しく書かれており、

◆伊勢の渡会の文によると、越の国に居た禍津亘理彦(マガツワタリヒコ)という悪人がその祖先で、第16代に追い払われて、近畿の名張の国の山中に隠れた。

◆登美彦はその長男なので、宇侘の覇精高の長(ウダノハセダキノカミ)という。

と、ニギハヤヒとの関連性を、完全に否定しています。

M37-2

 

(2)『古事記』の記述

これに対して『古事記』の記述では、

◆ナガスネヒコとニギハヤヒの関係については何も書かれていないうえ、

◆その死に方も、イワレヒコの「久米歌」のなかで「撃ちてしやまむ」と、象徴的に表現されており

(殺されたとも自殺したとも分らない、さらに死んだかどうかさえ不明)

◆ナガスネヒコが戦死したあと、ニギハヤヒが降臨して味方に付いた(つまり、両者はすれ違っている)

・・・・となっています。


つまり、「ナガスネヒコの存在は認めるが、その足跡については曖昧」にされています。

多分、意図的に・・・・・


さらに、

◆ニギハヤヒが降臨したとき、ナガスネヒコの妹トミヤビメに生ませた子がウマシマジの命であり、これが物部の連の祖である。

と、あとから追加されています。


『ウエツフミ』によると、ウマシマジとは、第70代ウガヤフキアエズの命の三男であるとなっているので、ここで大問題が生じていることにお気づきでしょうか?

つまり、『古事記』の作者は、ウガヤフキアエズ第70代の存在を認めていないので、物部氏の祖先が宙に浮いてしまう、つまり存在しないことになります。

そこであわてて、ニギハヤヒをウマシマテの直接の父親として、中間を省略するカタチで創作を加えてしまったようです。


(3)『日本書紀』の記述

また、『日本書紀』の記述では、

ナガスネヒコは、自分はニギハヤヒの子孫であるとして、御魂代を見せて神武天皇(イワレビコ)と争ったと書いてあります。

つまり、「ナガスネヒコ=ニギハヤヒ子孫説」を肯定しているのは、この『日本書紀』だけなのですが、ここでとんでもない大間違いをしでかしてしまいました。


ニギハヤヒがナガスネヒコの妹であるトミヤビメと結婚したとすると、この3人は同じ時代に生きていたことになります。

なのに、なぜその子孫なのでしょうか?

つまり、ナガスネヒコは、「妹の子、つまり甥であるウマシマジが、私の祖先だ!」と言っているのですよ。

この大矛盾に気づかなかった日本書紀の作者は、頭が悪いとしか言いようがないのですが、そもそも事実を曲げて、無理な創作をしようとするから、こんなことになってしまったのでしょうね。


(4)推 論

さてさて、なぜ『古事記』や『日本書紀』が、ナガスネヒコを擁護する必要があったのでしょうか?

『ウエツフミ』が極悪非道の大悪人だと非難している人物を、記紀ではなんとなくかばっているか、あるいは隠しているような姿勢が見うけられませんか?

なぜでしょうか?


その答えは「加羅支那国」にあります。

つまり、唐=新羅の連合軍が、その後日本を間接統治して、その際に、彼らの意向で書かれた歴史書が『古事記』や『日本書紀』だとしたら。

そのとおりです。

つまり・・・・

(1) ナガスネヒコは、自分たちを同盟国として認めてくれた朋友なので、無視する訳にはいかない。

(2) しかし、彼の手引きで自分たち外国軍が、初めて日本に侵攻することができたなんて、絶対に書けない。

ということでしょうか?

⇒ちなみに、現在の刑法でもナガスネヒコの行なった行為は「外患誘致罪」にあたり、死刑です。


だから、その存在は認めるし、ある程度の敬意は払うが、この人がどんな人で、何を行なったかは、なるべく知られたくない。

なぜなら加羅支那国の工作員、あるいは支援者だから。

・・・・・という推論も充分に成り立ちます。

 


物部氏との関係

すでにお分かりのことと思いますが、

ニギハヤヒが天孫の斎(イツキ)であり、

ウマシウチが、第70代ウガヤフキアエズの命と矢野姫との間の三男であるとするならば、

その子孫である物部氏とは、ウガヤフキアエズ王朝の正統な後継者であるということになります。


だから、物部尾興が、蘇我稲目らの仏教導入に反対して、日本の古神道を守ろうとして争ったことも理解できます。

その息子・物部守屋も、ついに蘇我馬子に滅ぼされ、物部氏の存在は歴史から永遠に抹消されてしまいます。

つまり、このときは、下記のような構図となっていたのです。


<廃仏派>

物部尾興・・・・ウガヤ王朝の左大臣フトダマの子孫

中臣鎌子・・・・ウガヤ王朝の右大臣アメノコヤネの子孫

<仏教導入派>

蘇我稲目・・・・親・加羅支那国派(唐・新羅連合軍派)

※のちに蘇我入鹿も、韓風の政治をしたという理由で暗殺されている。(日本書紀による)


そもそも、物部とは「もののふの ベのたみ」という意味であり、軍事を司る近衛集団のことなのです。

もしかしたら固有名称ではなく、役職名だったかもしれません。

実際にウエツフミでは、軍人のことを指して「物部人(もののべと)」という表現も使われています。

つまり、ウガヤ王朝の左大臣(軍事担当)を勤めた人たちのなかには、フトダマやウマシウチの子孫たちが多かったので、いつのまにかこの一族を総称して「物部氏」と呼ぶようになった。・・・・というのが実体のようですが、まだ決定的な証拠が見つかっていません。

 


最終結論

さてさて、最後に本稿の目玉となります。

本文中、ウマシマテウマシウチの二人の人物が登場していることに気づいた方はいらっしゃいますか?

 

『ウエツフミ』は、正確にこの二人を区別しています。

⇒ウエツフミは豊国文字で書かれているため、カタカナが正しい表記で、漢字表記はあとから記紀を参考に付け加えられたものであり、その音の表記は実に正確です。

もういちど、私の書いた系図を詳細に眺めてみてください。


宇麻志眞手

(1)ウマシマテ・・・・ナガスネヒコの甥であり祖先であると、本人が主張している人物

⇒なおウエツフミでは、第73代ヒタカサヌ=神武天皇が即位したとき、秋津根の国の建(タケル)に指名されたのが、「ニギハヤヒの子孫である(1)ウマシマテである。M40-7 」と書かれている。

つまりナガスネヒコとの親戚関係は不明だが、確かに実在した。

ナガスネヒコとの戦いで途中参戦した(1)ウマシマテが、その功績により領地を与えられた可能性がある。


宇摩志麻治または宇摩志麻遅

(2)ウマシウチ・・・・別名・大久米の命、第70代と矢野姫とのあいだに生れた三男

⇒(1)ウマシマテが秋津根国のタケルに就任すると同時に、(2)ウマシウチ=大久米の命は、畝傍川の西辺に宮を構えているので、こちらも実在しており(1)とは別人。M40-7

つまり、(1)と(2)は、ともにナガスネヒコと戦った(祖先を同じくする)戦友同士ということになる。


そうです、ここに最大の混乱の原因があったのです。


物部氏の祖先は、(2)ウマシウチであり、(1)ウマシマテでもなければ、(3)ウマシマチまたはウマシマヂ(通説だが、ウエツフミでは存在しない人物)でもありません。

つまり、直接、皇族から派生している由緒正しい家系であることになります。

 

そして、(2)ウマシウチ別名:大久米の命)の母親である矢野姫が、ニギハヤヒの血筋を引き継ぐため、物部氏の祖先とされていることは前述したとおりです。

 

さらに、ウエツフミ第39綴第10章では、この(2)ウマシウチが再び登場し(別名:大久米の命、この章では第70代の四男とされているが、妾の子をカウントするかどうかの違い?)、第70代の命令により、吉野6大神を守る巫女の役目を与えられたので、「この地を六峰山という。」と書かれています。

(ここら辺に物部氏のルーツがありそうですが、そのまま記しておきます。)


これに対して、ナガスネヒコの先祖である(1)ウマシマテは、明らかに別人です。

 

◆その名前があまりにも似ているため、古事記や日本書紀の作者たちさえも勘違いしたのか?

(太安万侶も古事記の序文の中で、「古語は音と意味が連動しているため漢字に変換するのが大変難しい」と嘆いている)

 

◆それとも意図的に似た名前の(3)ウマシマチが創作・追加されたのか?

(なぜなら天孫の斎であるニギハヤヒの本当の子孫ならば、反旗を翻すハズが無いからです。つまり記紀もこのことを認識していたが、ナガスネヒコに配慮して似た名前で誤魔化した?)

(そういえば、海彦山彦のときもそうでしたが、記紀の作者たちは紛らわしい名前を乱発して混乱を図っていますよね。)

 

◆あるいは、ナガスネヒコ自身が、自分の出自を誤魔化すため、紛らわしい名前をでっち上げ、それに記紀の作者も騙された可能性もあります。

つまり、「自分の祖先は豊臣秀義だ」と言っているのと全く同じ!ということです。

(上述のとおり、ウエツフミは本当の祖先を暴露していますので、この説が一番妥当でしょうか?)

 

真実は分りませんが、たったひとつだけ確実に言えるのは、

物部氏と長髓彦とは、赤の他人であり、何の関係も無いということです。

少なくとも、『ウエツフミ』の正確な記述は、(ウマシウチとウマシマテを使い分けることにより)そう伝えています。

 

そして、物部氏の出自が不明瞭になったのは、その出身母体のウガヤフキアエズ王朝と第70代ウガヤフキアエズの命が、抹消されてしまったからに外なりません。

 


コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    1610sou (水曜日, 23 12月 2015 05:36)

    長髄彦は、天八現津彦であり阿遅鋤高彦根の息子です。阿遅鋤高彦根は大国主と多紀理姫の長男であり、鴨氏や葛城氏の祖です。尊い神であり、深い事情をお持ちの方だと思います。