光仁天皇は、熊野のご祭神を豊の国に里帰りさせた!【上田原御手洗神社】

大分県豊後大野市三重町、ここは古墳の多い町としても有名です。

ある日、三重町に住む親友が、「このあたりに古墳があるので案内する!」と、言い出したのです。

古墳文化は3~4世紀以降のことなので、ウガヤフキアエズ王朝には全く関係が無いと思い込んでいた私は、ここで思わぬ発見をしてしまうことになります。


なお、この記事は、前回の

『熊野信仰のルーツは【神武東征】で新羅軍と戦った英雄たちだった!』

の続編となりますので、まずこちらを先に読まれることをおすすめします。

 


友人が案内してくれたのは、「立野古墳」あるいは「木ノ元古墳」という、全長63mもある巨大な前方後円墳ですが、このあたりの木ノ元山周辺は、山全体が巨大な遺跡群となっており、まだ詳細な調査が進んでいないようなので、一言でいえば「謎の古墳群」ともいえます。

http://milky.geocities.jp/oita_no_sanpomichi/bunkazai/bungooonosi-tateno.html

 

さてさて、雨がしきりに降るので早々に帰ろうとしたところ、

友人が「近くに神社があるので、ついでにそこも見て行くか?」と言い出しました。

 

それが、『上田原御手洗神社』だったのです。

⇒大分県豊後大野市三重町上田原(かみたわら)地区

http://5.travel-way.net/~niemon/ooita/miemati/hasi/mitarai.html

 

ちょうど、熊野信仰のルーツを調べていた私は、その神社の「由緒書」を見て、ビックリ仰天!

まさに、これは熊野の神々からの招待であるとしか思えないのです。

 

そこには、こう書かれていました。

 

宝亀二年(771年)豊後国を訪れた光仁天皇は熊野(和歌山県)から西国に向かう光の夢をみた。

そこで、使者に命じて聖地を探させ、この地に建立されたのが「上田原御手洗神社」である・・・・と。

 

当初は、「寶池山御手洗熊野大神」と呼ばれていました。

 


西国に向かう光とは何か?

まず、宝亀二年といえば第49代・光仁天皇が即位した次の年ですから、さっそく豊の国に「即位の行幸」に訪れていたことになります。

 

そこで、熊野から西に向かう光を見るのですが、この夢とは、下記の2つのうちのどちらかであろうと解釈できます。

 

(1)新羅との戦いで犠牲になって熊野に祀られた、稲飯の命(神武天皇の兄)や御毛入野の命(神武天皇の弟)らが、「豊の国に里帰りさせてくれるよう」お願いした。

 

(2)稲飯の命や御毛入野の命らが、祟り神となって宮中に不祥事が相次いだので、鎮魂または供養、あるいは封印する必要があった。

 

実際に、光仁天皇について調べてみると、その人生はまさに不幸の連続でした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

「大化の改新」から約百数十年後のこの時期、宮中ではまだ中大兄皇子(天智天皇)派とその弟の天武天皇派に分かれて、激しい権力闘争が繰り広げられており、両派閥の後継者たちは次々と怪死、変死という異様な状況でした。

 

天智天皇の孫にあたる光仁天皇自身も例外ではなく、親兄弟や一族郎党が呪い殺されたり、病死したり、暗殺されたりの連続で、本人は大酒を飲んでマヌケのふりをして、この難を耐え忍んだといいます。

そして、62歳になってからやっと天皇に即位しています。

 

これは私の独断ですが、

◆天智天皇やその孫・光仁天皇らは奈良を本拠地とする「親ウガヤ王朝派」であり

(だから『ウエツフミ』を擁護した)

◆天武天皇一派は京都を本拠地とする「新羅傀儡政権派」(だから『古事記』を書いた)

◆ここにめきめきと台頭してきた藤原一族(たぶん親中国派で『日本書紀』を書いた)を加えて、

三つ巴の泥沼地獄の状態となっていたのです。

 

この状況を憂いた光仁天皇が、先祖(特に不遇の状態となっている天孫たち)を供養することを思いついたとしても不思議ではありません。

 

そして、夢に出てきた光とは、

◆速玉之男神と名前を変えられて、その功績と尊厳を抹消された、稲飯の命

◆事解之男神と名前を変えられて、その功績と尊厳を抹消された、御毛入野の命

の二人の霊魂だったのです。

 

ちなみに、速玉之男神と事解之男神が、和歌山の熊野三山のご祀神であることはご存知の通りです。

 


聖地とは何か?

以前にも書いたとおり、この二人は神武東征の際に自ら海に飛び込んで「サイモチの神」(シャチの姿をした海神)となり、新羅の50隻の船団を全滅させているのです。

⇒詳しくは、こちら


だから、海神を祀るこの神社では、“水”が重要な意味を持っており、

神聖な御手洗池(泉水)には、もともと海獣の姿をした石像があったハズです。

残念ながら今は池に真ん中にその台座だけが残されており、小さな祠も紛失しています。(下記の写真参照)

 

創建から約200年後、今度はこの地に太政大臣の藤原公季が(新たに)社殿を建てており、

その際に熊野神社から持参したナギの枝を上下逆さまに地面に刺しています。

(現在も大木となって残っている)

このことは、何を意味するのでしょうか?

 

念のため、藤原一族の不比等が書いた『日本書紀』からは、

稲飯の命と御毛入野の命の記録は削除されています。

しかも藤原一族が、私の推測どおり光仁天皇とは敵対する勢力であったならば・・・・

 

そう、もうお分かりですよねえ?

再び封印のおまじないがされた!ということです。

 

多分、このときにイザナミの命などが追加され、本来のご祀神が曖昧にされているのです。

(記紀では速玉之男神をイザナミの子としているが、ウエツフミではよく似た名前の別人なので、あるいは藤原氏らによる作為的な混乱作戦か?

 

 

ということは、光仁天皇が探させた聖地とは、

そして、藤原公季が再び封印してしまった聖地とは、

稲飯の命と御毛入野の命の、生まれ育った土地であり、お墓だったに違いありません。

 

この神社の入り口は西側にあり、本殿は正確に熊野神社の方角を指しています。

http://kazenoyadori.seesaa.net/article/323580220.html

 

問題は、その本殿の裏山にあたる木ノ元山の古墳群です。

 

私の予想では、ここに稲飯の命と御毛入野の命らが眠っているハズです。

あるいは、神武天皇と名前を変えられた日高狭野の命のお墓も、ここから見つかるかもしれません。

今後、考古学的な調査が進めば、だんだんと真相が明らかとなってくるでしょう。

 

なぜなら、五瀬の命を加えたこれら四兄弟は、

この地から、『神武東征』へと旅立っていったからなのです。

 



コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    赤星憲一 (水曜日, 03 6月 2015 20:19)

    ここの境内で4回、荷物を積み降ろしました。(ゴミとして捨てられるものを一時保管)異様な気配を感じましたが荷物は安全でした。神社の神々が守ってくれたのでしょう。上田原に自分の観光協会の事務所があるので、いつもこの神社の前を通ります。