ウガヤ王朝滅亡から大和王朝誕生まで!【その2】

誰がウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしたのか?

前回は、第2代・綏靖天皇までは確実に存在した。

しかもそれはウガヤフキアエズ王朝最後の天皇であり、日向族の出身だったというお話をしました。


まだ読んでいない人は、こちらから予習しておいてください。


そこで、今回は「誰がウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしたのか?」

という、いよいよ核心部分のお話に入ってゆきます。



縄文人連合軍の逆襲

答えから先に書きますと、それは「縄文人連合軍」です。

この縄文人連合軍とは、私が命名したものですが、以下の勢力が結集したものと考えられます。


(1)ナガスネヒコ一族

神武天皇に滅ぼされたハズのナガスネヒコ一族は、東北に逃げて、現地のアラハバキ族と合流します。

伝説では、ナガスネヒコ本人と兄の安日彦(アビヒコ)が、一緒に逃げたと伝えていますが、必ずしも本人たちではなかった可能性があります。

詳細は、のちほど。


問題は、このナガスネヒコ一族が本当に「縄文人」であったかどうかですが、下記の事実が、それを証明しています。

 

◆ニギハヤヒの子孫ではないこと。

あるいはニギハヤヒとは婚姻関係にあったかもしれませんが、ウエツフミではその子孫ではないと、ハッキリ否定しています。つまり、天孫系=弥生人=日向族の身内ではない、ということです。

◆逃亡先に下記のアラハバキ族を選んでいること。

つまり、ナガスネヒコが縄文人そのものではなくても、縄文人たちとは非常に親しくしていたことになります。

◆ウエツフミでは、ナガスネヒコの出身地を「越の国の亘理」だとしています。

しかも、それは伊勢の度会文に書かれており、第17代ウガヤ天皇に追い出されて奈良県に逃げてきたと・・・・。

越の国ということで、見逃していたのですが、亘理とは、宮城県の亘理町の書き間違いではないでしょうか?

もしそうだとすると、ナガスネヒコはアラハバキ・津保化族の出身であり、先祖の土地に逃げ帰ったことになります。

⇒詳しくは、こちら

富家(ナガスネヒコの末裔)には、代々口述で伝わる伝承があり、これを「富家伝承」と呼びます。

これによると、ナガスネヒコは、やはり縄文人系の出雲族だったようです。

その始祖は、約4000年前に日本に移動してきた、クナトの大神とアラハバキ神(女神)であり、もともとは出雲国で繁栄したと伝わっています。

 

(2)アラハバキ族のうち、阿蘇辺王の率いる一族

 

(3)アラハバキ族のうち、津保化王の率いる一族

これらのアラハバキ族については、前回詳しく書いていますので、こちらから。


さらに、ここに下記の二つの勢力の関与、あるいは支援があった可能性大ですが、全く証拠が残っていない世界なので、あくまでも私の推測です。


(4)タギシミミの率いる、阿蘇の熊襲一族

第2代・綏靖天皇の異母兄弟、タギシミミの怪しい動きは、前回書きましたので、読んでいない方はこちら

 

(5)外国人勢力

とくに、ナガスネヒコをそそのかして、反乱を起こさせるきっかけとなった「新羅軍」は、今回も協力する可能性は充分にあります。

なお、ウエツフミでは「新羅軍」と書かれていますが、当時は古代ユダヤ国が崩壊して、ユダヤ人の失われた支族たちが、続々と(新羅などを経由して)日本を目指して漂着してきていますので、あるいは秦氏や徐福の一族などが絡んでいるのかもしれません。

つまり当時の日本は、どの外国人が関与していてもおかしくない不安定な状況にあったということです。


以上を要約すると、全国に散っていた(1)から(4)までの「縄文人たち」、それまでは蝦夷や熊襲と呼ばれて虐げられていた人たちが、ここで一気に連合して反発しはじめたということです。

 

そして、日向族である神武天皇は、その頃ナガスネヒコの本拠地であった奈良の橿原に居ましたので、ナガスネヒコの残党からみれば、攻略はいともたやすかったと思われます。


そこにどんな戦闘があったのか?どんなドラマがあったのか?記録は一切残っていませんが、この混乱は「倭国大乱」という名前で、中国人だけがしっかりとウォッチしていたようです。



縄文人天皇の誕生

この「弥生人」 対 「縄文人」の戦いが終了すると、縄文人たちが天皇として君臨しはじめます。

具体的には、第3代・安寧天皇から、第9代・開化天皇までです。

そうです、滅ぼされた側の日向族、第2代・綏靖天皇を含めると、ちょうど【欠史8代】と呼ばれている天皇たちと一致します。


後代の歴史学者たちは、よほど「縄文人たちが政権を握った!」という事実を認めたく無かったのでしょう。

かわりに、「この天皇たちは実在しなかった!」「フィクションである!」と主張しはじめました。

だから、今日に至るまでこれらの天皇について詳細に語られることは無かったのです。



天皇の「おくり名」に隠された暗号マーカー

だから私が勝手に、これらの天皇を復元してみることにします。

手がかりは、「おくり名」のみです。

記紀にはそれしか書かれていないからです。


この「おくり名」、正式には和風諡号(国風諡号)といいますが、誰が、いつ、何のために付けたのか?詳細は一切伝わっていません。


しかし、それは単に思いつきや好みで付けられている訳ではなく、

そこには、一定の法則が存在するといわれています。


具体的には、「神」のつく天皇は正統な血筋であり、「分」のつく天皇は分家である・・・・などなどです。


以下のとおり、第3代・安寧天皇から、第9代・開化天皇までの「おくり名」を分析すると一定の傾向が見えてきます。



第3代・安寧天皇 磯城津彦玉手看天皇

まず、そのおくり名に付いている「磯城津彦」ですが、ウエツフミによるとナガスネヒコの兄は、殺されるときになって突然登場し「磯城太郎」という名前になっていることです。

この人物が安日彦(アビヒコ)であり、のちに天皇となった可能性大です。

どちらにせよ磯城郡という土地は、ナガスネヒコ一族の本拠地だったようです。

 

また、ナガスネヒコの七男の髓田輪之男郎(スネタワノオロ)は無罪放免されていますので、この人物が東北に逃げて、現地の人たちから「長脛王」と呼ばれた可能性もあります。

 

さらに別伝では、磯城氏は宇陀の十市の国主であり、ナガスネヒコと一緒に反乱を起こした戦友であることになっています。(もしかしたら直系親族が国主にも就いていた?)

その四男が降伏していますので、その後ナガスネヒコ一族を統率し、天皇として返り咲いたのかもしれません。

 

この磯城氏、その後の皇族の系譜に何度も登場しますので、単なる地方豪族と考えないほうが無難です。

例えば、ネット上には、下記の書き込みもありますが、出典が不明なのであくまでも参考としてください。

 

◆かつて三輪山の麓には大和朝廷より古い中枢があり、彼等を磯城(志幾)氏・族といったらしい。 

彼等は三輪山の大物主を崇めていて大物主は蛇神なのでユダヤ人の神ヤハウェを表すから、磯城氏・族達こそは正統なイスラエルの聖王族で本来の天皇家だったんだろう。

大和王朝も初めのうちはよく大物主に祟られていたので磯城氏・族の女性を娶り血を入れなければならなかったという記述があるようで、 大和王朝に国譲りしたニギハヤヒも当時の磯城氏達の首長だったナガスネヒコの妹と婚姻関係を結ぶ事で大物主の祟りを回避して神器所有者として天皇のような立場になったらしい。 

 

◆神武天皇の東征で磯城(志幾)氏・族の天皇的な人物だった兄磯城は戦死し、 弟磯城のクロハヤは大和王朝の赦しを得て志幾の縣主になる。 

ナガスネヒコの兄アビヒコ(安日彦)もこの時に大和朝廷と戦って死んだ、イスラエル聖王家の血を引く磯城の天皇族の一人だった。 

この安日彦の血を引く子を大彦命が伊賀で拾い大和王朝の一族に迎える。 

これが安倍首相の祖先で父親の命を助ける為に若冠16歳で敵中に飛び込んでって、 獅子奮迅の戦いの末に大和朝廷に父子で容赦なく殺された碧眼白人系美貌親子だったという安倍貞任のそのまた祖先。

 

◆出羽山形県の幾志という地帯から発生したという岸氏達は、果たしてこの三輪山麓にいた天皇でイスラエル聖王族の兄磯城(志幾)他の末裔で大和朝廷の目を逃れる為に磯城(志幾)の文字を逆にして幾志としてルーツを籠めたものか。 

それとも幾志とは磯城(志幾)を呪う為に逆さ言葉にしたもので磯城氏・族の敵側の葛城族やタケノウチスクネの末裔なのか。

 

さらに、皇后の渟名底仲媛命ですが、この名を見てピンと来る人は居ませんか?

そうです、第2代・綏靖天皇と同じ、「渟名(ヌナ)」という珍しい名前(臼杵のヌナ川からきている)が付いていますので、綏靖天皇の娘と考えられます。

日本書紀では、事代主の娘としていますが、神様の娘?いかにも不自然でしょ。

つまり、自分が滅ぼした日向族の娘をもらって、天孫の系列に割り込んできたということです。

 

さらに不可解なのは、(日本書紀によると)このお后の連れ子である大日本彦耜友尊を第4代に立てていることです。

つまり、自分とは血が全く繋がっていない継子を跡継ぎにしているのです。

 


第4代・懿徳天皇 大日本彦耜友天皇

この人からおくり名に「大日本」が付き始めます。

つまり、この方は、ナガスネヒコ一族をかくまった津軽のアラハバキ族の出身ではないでしょうか?

なぜなら、「日乃本国」という名称は、アラハバキ族から発祥しているからです。


また、「耜」という不思議な文字が付いていますが、これは石器時代の「鋤」を表す文字で、縄文人のアラハバキ族は、別名「スキ族」とも呼ばれていたらしいのです。


どうやら、ナガスネヒコ一族からアラハバキ一族に、次の皇位が譲られたようです。

しかも、渟名底仲媛命の子供ですから、日向族の血も引いている訳です。


さらに、お后はナガスネヒコ族系の磯城氏からもらっています。

このあとも、お后に必ず磯城とか十市とかの娘が登場しますが、その理由は上記のとおりです。



第5代・孝昭天皇 観松彦香殖稲天皇

この方がよく分らないのですが、おくり名から識別マーカーが無くなります。

再びナガスネヒコ一族に戻されたということでしょうか?


ただし、この方のお后と子供二人には、全員「足彦=タラシヒコ」が付いていますので、のちのタラシヒコ系統の祖先であると考えられます。


むしろ、お后の家系のほうが重要で「世襲足媛」という尾張連の一族から出ている娘なのですが、この尾張氏とは、ニギハヤヒを信仰する物部氏の系統であり、のちに景行天皇や織田信長などの(凶暴な)武人を輩出します。

 

ちなみに、磯城郡はナガスネヒコの土地、隣接する葛城郡は物部氏の土地、だったという説もありますので、両者が婚姻により結びついた可能性があります。


といっても、両者はウマシマテ(ナガスネヒコの甥で神武天皇に味方し、のちに秋津根国のタケルとなる)の時代から親戚同士でしたので、物部氏はナガスネヒコ一族と天孫族=日向族の両方に近づいて、着々と生き延びたことになります。

 


第6代・孝安天皇 日本足彦国押人天皇

第4代・懿徳天皇と同じく「日本」というおくり名と、「タラシヒコ」が同時についていますので、アラハバキ族と物部氏一族の混血と考えられます。

そういえば、そのお顔が、どことなく織田信長に似ていませんか?

 

ということは、父親がアラハバキ族ということになりますが、第5代のおくり名には「日本」が付いていないので、第4代の息子ということも考えられます。

正直、よく分りません。


第7代・孝霊天皇 大日本根子彦太瓊天皇

この方から、アラハバキ族を表す「日本」に加えて、「根子」というおくり名がつき始めます。

この「根子」とは、神武天皇の息子のタギシミミのこととしか思えないのですが、根拠は全くありません。

タギシミミに猫の化け物が取り憑いて阿蘇山の「根子岳」になったという伝承は、以前に書きましたので、こちらから。

その母親は、阿蘇の熊襲の娘であり、安達太良山に祖先が居たと言っていますから、アラハバキ族のうち「津保化族」(福島から宮城に居た海洋民族)から天皇が出たと読むこともできます。


また、磯城郡には神武天皇の子孫も住んでいたという伝承がありますので、日向族ではなく、熊襲系のほうは継続していた可能性があります。


この方は、重要な皇子を二人残しています。

一人は、倭迹迹日百襲姫命であり、崇神天皇の時代に大物主の巫女となって大活躍します。つまり、巫女といっても斎女というよりは、イタコに近い存在なので、東北の伝統がここで開花したのかもしれません。


もうひとりは、吉備津彦命であり、岡山の総社~倉敷あたりで繁栄した大豪族の祖先となります。

 


第8代・孝元天皇 大日本根子彦国牽天皇

この方と、次の開化天皇は、『東日流外三郡誌』が、アラハバキ族から出た天皇だと伝えていますので、間違い無いと思います。


気になるのはその宮で、軽境原宮(かるのさかいはらのみや)とさていますが、軽とは津軽のことではないでしょうか?

この時代の天皇がずっと奈良周辺に居たという証拠はどこにもありませんし、十三湊あたりに遷都してもおかしくありません。

だからこそ、逆に、崇神天皇という第三勢力が、奈良に興こるきっかけとなったのかもしれません。


また、この方の皇子からも重要人物が出ています。

一人は、武内宿禰の祖先となる方、もう一人は阿倍氏の祖先となる方です。


この武内宿禰、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代に仕えて、策士として活躍します。

特に神宮皇后の時には、ほとんど摂政のような位置づけで、熊襲征伐や三韓征伐を企画しています。

寿命が長すぎるという指摘もありますが、「宿禰」というのは神官のような立場の役職名であり、一般名詞ですから、代々武内家が宿禰という役職に付いていたと解したほうが自然です。つまり「第○代・武内宿禰」というのは、歌舞伎や落語の世界でもよくあることですから、ここに外国人が割り込んできてもおかしくは無いと考えます。


また阿部氏は、ナガスネヒコの兄の安日彦から出ているという説もあり、あるいは渡来人の安曇氏からだ、という説もあります。

いずれにせよ、ここまでは、まだナガスネヒコの影響力が続いていた訳です。



第9代・開花天皇 稚日本根子彦大日日天皇

上記のとおり、この方もアラハバキ族の出身である可能性が高い方です。

「稚」は、「若」の意味で、二代目ということでしょうか?

 

そして、時代的には、このあたりで邪馬台国が登場していると推測されますが、あまり自信がないので、ここでは詮索しないことにします。


いずれにせよ、この方が縄文系最後の天皇となります。


さてさて、以上のように七代にわたり続いた縄文人系の天皇ですが、ここでいったん血筋が途絶えます。

このあとに、崇神天皇という全く異質でユニークな天皇が誕生するからです。


学会は、この天皇こそ「初めて日本を統一した実在する天皇である」「神武天皇のモデルである」などと、もろ手を挙げてヨイショの嵐です。

なぜでしょうか?

そんなに優れた大人物だったのでしょうか?


どうやら実情は、逆のようなのです。

そこには、日本が置かれた危機的な状況が見え隠れします。


それでは、次回は、この崇神天皇という人物を詳細に見てゆくこととします。



連載シリーズ 『ウガヤ王朝滅亡から大和王朝誕生まで!』

【その1】神武天皇の皇子たち

【その2】【欠史八代】と呼ばれる天皇たちの正体

【その3】神武天皇の実在性を証明する史実


コメント: 2 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    どんぐり源さん (土曜日, 15 8月 2015 05:22)

    いや、面白い…
    是非お近づきを頂きたい物だ…

  • #2

    千家午庫 (金曜日, 09 10月 2015 11:53)

    上記とはすごいですね。これを解説してくださり、興味ワクワクです。ところで、別な古代史探訪で何やら五行とかいうのでしたか?それで古代史を解明と最近読みました。前半の天皇は皆女帝だったとかそれが前天皇の人肉を食べて代々天皇を繋いだとかの解明をされたというのは本当でしょうか。これまた破天荒で面白かったのですが、真相には疑問が残りました。
    また、上記の新しい真相解説を楽しみにしています。