追わえヘボ(荒神様)とお神輿の起源が明らかに!

大分県の奥豊後地方には、「追わえヘボ」と呼ばれるお神楽が伝わっています。

「ヘボ」は、大分方言で「荒神様(こうじんさま)」のことであり、真っ赤で怖い鬼のようなお面を被った荒神様が、舞台から飛び降りて追いかけてくるため、こう呼ばれているのです。


東北地方に伝わる「ナマハゲ」も、その変化形ではないかと思われます。


子供たちを驚かして、恐怖のどん底に陥れることがヘボたちの役目で、昔はずいぶんと乱暴なことをして観客を笑わせてくれたものです。


例えば、たまたま舞台の脇に置いてあった自転車に乗って子供を追いかけたり、美人の奥さんを舞台に引き上げてダンスを踊ったり、木に登って泣いている子供を引きずり下ろしたり、今とは違って、昔はやりたい放題でした。


これに対抗する子供たちも、かなり乱暴な方法で武装していました。

例えば、「2B弾」と呼ばれる花火をヘボの衣装に投げ込んで爆発させたり、近くの山からシノブ竹を切ってきて、これで叩いたり、逆上したヘボに竹を奪われて反撃されたり・・・・

まさに、追うほうも追われるほうも、命がけの攻防戦が行なわれていたのです。


最近は、大分おとなしくなってきて、乳幼児を抱き上げてあやしてもらうことにより、無病息災を祈るという意味合いが中心となってきていますが・・・・


それは、橿原宮の新築を祝うお神楽だった!

さてさて、上記(ウエツフミ)には、このお神楽の起源が書かれています。


神武天皇が、「大分の宮」から遷都して、奈良の橿原に新宮を構えたときのこと。


最初は、自分が滅ぼしたナガスネヒコの一族に配慮して、宮殿を新築することをためらって、掘っ立て小屋のようなところに住んでいたのです。


ところが、周辺に段々とお付きの者たちの立派な屋敷が建てられるようになり、その様子があまりにもみすぼらしかったため、樵(きこり)や大工たちが集まってきて「自分たちに新居を建てさせてください!」と、献身的な提案をします。


一度は、この提案を断った神武天皇ですが、数年たってからやっと決断をします。

その場所は、「鳥見山の上津榛原の小野」であったと書かれています。


そして、新しい宮殿が完成したことを記念して、「新宮祝ぎ」という盛大なお神楽が奉納されました。

このときのお神楽の様子が、まさに「追わえヘボ」と、「お神輿」そのものだったのです。



荒神お神楽の起源

まず、最初に行なわれた「追わえヘボ」の様子を、ウエツフミはこのように記録しています。


◆180人の人たちに、お面を被らせて、悪事を働く様子を演じさせた。

◆これを8柱の神たちが、退治する真似をしたあと、お供え物を奉げた。

◆日本全国の過ちを犯した者たちの「罪科」を、この180人に肩代わりさせて、

◆「神直毘の命」と「大直毘の命」の二柱の贖罪の神として祀り直して、

◆将来、二度と災いが起きないようにと、幸福を祈った。


つまり、「荒神様」とは、本来は悪いことをした罪人たちや、滅ぼした宿敵たちを肩代わりする神様であり、退治されてこそ本来の目的が達成されたのです。


だから、「荒神様」がふざけてイタズラをするのは自然な流れであり、子供たちがこれに敵意をむき出しにするのも正しい神事であり、最後に退治される場面が省略されていることだけが、正確に伝わっていないことになります。


多分、太刀を持った男衆数人だけで舞う出し物がありますが、昔はこの2つがつながっていたのではないでしょうか?

 


お神輿の起源

そして、次に行なわれたのが、「お神輿」だったのです。

つまり、自分たちが滅ぼした宿敵たちの霊魂を慰めたあとから、お神輿に乗った皇祖神たちが降臨してくるという二段構成のお祭りになっていたのです。


このときのお神輿の様子が正確に記録されています。


◆お祭りの最中に、巫女の五十鈴姫が、突然、神がかりとなって、床に伏して意味不明のことを言い始めます。

◆神武天皇が、大変に驚いて、その理由を確かめさせると、

◆「野山に出て遊びたい!」と、神様のお告げがありました。

◆「あなたは何の神様ですか?」と尋ねると、「汝が招いた皇祖神である」という答えが返ってきます。

(つまりニニギの命、山幸彦、初代ウガヤフキアエズの命の三柱でした)

◆ただちに、白木で造ったお神輿を取り出して、「これにお乗りください」と言いますが、返事がなく、眠っている様子です。

◆そこで次に、漆の黄金飾りのお神輿を取り出すと、「よし!」と言って、やっと神上がりされました。

◆この三基のお神輿を、大宮の隠し部屋に入れて「神招き」したところ、お神輿が自ら勝手に揺れ始めました。

◆そこで、お付きの者たちが、このお神輿を担いで外に出し、お参りにきた民衆たちも手を貸して、高く掲げて走り出すと、東西の区別も無く迷走しはじめたので、みんな旗や飾りを抜き取ってあわてて追いかけました。

◆三日目の夕方になって、隠居した先代(第71代)の大宮に置いて、次の朝運び出そうとしましたが、岩のように全く動きません。

◆このとき、第72代・五瀬の命(神武の兄でナガスネヒコに襲われて亡くなった)の霊が、お神輿の脇に立っている夢を見たので、神武天皇が直接出向いてお迎えするとやっと動き始めました。

◆ところが、山も野も里も構わず迷走しはじめたので、五瀬の命のお神輿もあわてて追いかけましたが、これを担ぐ人たちは、食事もろくにすることができないのに元気で、益々勢いを増して坂道も平気で越えてゆきます。

◆さらに三日たってから、やっとお神輿が橿原の大宮に帰ってきましたので、そこから8日8晩、歌や踊りや演奏が続きました。


なんとも凄まじいお祝いの様子ですよね。

昔の人たちは、体力もあったし、お神楽などに関してもまさに全身全霊で満喫していたようです。


でも、私も子供の頃、実際にお神輿が「揺れる」様子を目撃しています。


私の子供時代には、近所の「山王様」に、獅子舞とお神輿が奉納されており、子供だった私も白装束を着て、ウチワを持って、獅子を囃す踊り子として参加していました。


正確には、小学校に上がるとまず鐘を叩く役、翌年には締め太鼓を叩く役で、三年目からは踊り子になって、さらに大太鼓と笛と獅子舞は大人たちという順番だったと思います。


お神輿が「迷走する」というのは全くその通りで、誰が押しているという訳ではないのですが、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしながら、ぶつかりそうでぶつからないという、不思議な動きを始めるのです。


この状態になってから、初めて「神様が降臨して楽しんでいる様子」が実感できるのですが、最近はこのような状態はめったに見られなくなりました。

ちょっと寂しい感じがするのは、私だけでしょうか?



さてさて、取りとめの無い思い出話しになってしまいましたが、重要なことは、神武天皇が豊の国から旅立っていった「日向族」であり、その名残が現在も奥豊後地方に伝わっているということです。


そして、現在宮中で執り行われている「雅楽」などとは、全く違っていたということなのです。



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