神武天皇の御陵を大分県で発見か?

神武天皇が葬られた場所については、江戸時代から大論争がありましたが、結論は出ていません。

つまり「不明」のままなのです。

 

日本書紀では、「畝傍山東北陵」

古事記では、「畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り」となっており、

奈良県橿原市大久保町にある「ミサンザイ」が有力とされていますが、異説も多くあります。

ウエツフミには、全く記述がありません。

 

もし、ウエツフミの説くとおり、神武天皇が豊の国の出身者ならば、大分県に何らかの痕跡を残しても不思議ではありません。

⇒関連記事は、こちら

 

ところが先日、この疑問に対して、竹田市の地元の方たちから有力な情報をいただきました。

それが、「小富士山」なのです。

 


小富士山とは?

小富士山(標高457m)は、大分県竹田市片ケ瀬と豊後大野市緒方町の中間にある小山ですが、豊後岡藩・第8代藩主 中川久貞公のお墓があることでも有名です。

http://ooitanoyama.in.coocan.jp/sub3311.html

地図は、こちら

 

ところが、現地を調べてみると、数々の不可解な点が浮上してきます。

 


中川公のお墓がなぜ北を向いているのか?

『国指定史跡 岡藩主中川家墓所』の標柱がある入り口は、この小山の南側にあります。

そこから参道を真っ直ぐ登っていくと、その頂上には中川久貞公の墓石がありますが、なぜか北向きに設置されています。

「北向きに設置されたお墓」というのも珍しいのですが、正門を背にしてぐるりと廻り込んで、裏側からアプローチするというややこしい参道も不可解です。

 

「藩主が岡城の見える方角を望んだから」という解釈もあり得ますが、

なぜ、こんなややこしい配置が選ばれたのでしょうか?

 

つまり、もともとあった「何か」の上に、中川公のお墓があとから設置されたのではないか?という疑惑が浮上してきます。

 

私には、中川公がもともとあった「何か」にあやかろうとしたのか?

それとも、その「何か」を守ろうとしていたのか?としか思えないのですが・・・・

おそらく、その両方だと思われます。

 


頂上にある巨大な「さざれ石」とは?

なんといっても圧巻は、頂上に鎮座する巨大な「さざれ石」です。

さざれ石は、古来から特殊なパワーを持つ石と信じられており、神社に多く見られるほか、「君が代」の歌詞にも登場することでも有名です。

 

このさざれ石は、中川公が設置したものではなく、どうやらもともとここにあったようです。

なぜなら、巨大すぎて江戸時代の土木技術では、これを運んできて、ここに設置することは不可能に近いからです。

 

そして、その下には「何か」が埋蔵されていることを予感させてくれます。

古事記が「白檮(かし)の尾の上」と言っているのは、ここのような気がしてきます。

 

このことを裏付けるように、このさざれ石を頂点に、小山全体が巨大な古墳のような配置となっています。

 

神武天皇御陵 小富士山
この岩全体が巨大な「さざれ石」

なぜここが橿原神宮の遥拝所なのか?

そして、最も決定的な証拠は、この地に立つ「橿原神宮遥拝所」という石碑です。

そこには、橿原神宮権禰宜の名前と家紋が入っています。

 

この家紋、橿原宮の神社紋=樫とは少々異なり、樫の葉が菊花のご紋章をお守りする図案となっています。

つまり宮司を務める家系の家紋と思われますが、詳細は不明です。

橿原神宮の初代宮司は、神武天皇の次男・ヒコヤイミミですから、その血筋を引く家系かもしれません。

http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=41&sno=12

 

問題は、「なぜこの場所から橿原宮を拝む必要があるのか?」ということです。

 

橿原宮は、ご存知のとおり神武天皇が東征して最初に建設した大宮であり、その場所を拝むためだけなら、もっと見晴らしの良い場所はどこにでもあります。

さらに、中川公と橿原宮とは、無関係とはいえませんが、直接の関係はありません。

 

つまり、この場所こそ「神武天皇にゆかりのある重要な聖地」だと暗示してくれているのです。

 

神武天皇御陵 小富士山
「橿原神宮遥拝所」と書かれた石碑

結 論

私の推論が正しいかどうかは、この場所を発掘してみるしかありません。

 

ただし、地元の人たちの証言によると、この場所からは強力なパワーが噴出しているらしいのです。

 

◆この場所に近づいただけで踊り出した人も居たといいます。

◆霊媒師に霊が降りて「よう来たのう」というメッセージがあったそうです。

◆その強力なエネルギーで、磁石さえも狂うといわれています。

 

そして、この場所こそ、私が主張しているレイライン=北緯33度線上にあり、しかも中央構造線の上に位置しています。

⇒関連記事は、こちら

 

もしかして、「畝傍山の東北」とは、「祖母山の東北」のことかもしれません。

なぜならば、当時の人たちは、各地の地名を「フラクタル」に配置しているからです。

つまり、祖母山を中心に、豊の国にある地名と、日本全国にある地名とは、相似形に配置されています。

このことがよく分かるのは、下記のウエツフミの記述です。

http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=30&sno=15

 

だから九州にある地名が、奈良や関西にも多いのです。

さらに、徳島県にも全国のミニチュアのような地名配置と神社配置があるそうですが、検証していません。

 

以上、決定的な証拠はありませんが、この小富士山こそ神武天皇の本当の御陵である可能性は極めて高いといえます。

そして、後代の学術調査に期待して、ここでは暗示のみに止めておくことにします。

 

あなたもぜひ、この場所を訪れて、ご自分の目でお確かめください。

もしかしたら、神武天皇から「よう来たのう」と、言われるかもしれませんよ。

 


コメント: 3 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    菊千代 (水曜日, 16 12月 2015 16:55)

    橿原神宮は明治23年の創建ですから、明治時代に何か由来があるのではないでしょうか。

  • #2

    管理人 (木曜日, 17 12月 2015 07:00)

    菊千代様 明治政府は、富国強兵政策のもと、国家神道の建て直しを行っていますが、その多くは、独断と偏見に基づいた勝手な解釈が多いようです。例えば、天孫降臨の地を霧島に誘致したり、スサノオや豊玉姫の痕跡を抹消したり、廃仏毀釈と称して多くの文化財を破壊しています。だから、明治政府の見解は全く信用できません。逆に、明治政府に見つからないように密かに伝えられてきたものこそ、本物であると考えています。

    あと、「橿原神宮」の創建は、私の推定によると紀元1~2世紀頃で、神武天皇の手によるものです。明治23年は、それを復活させただけです。

  • #3

    赤星憲一 (木曜日, 17 12月 2015 18:32)

     小富士の陵墓は、豊後大野市と文化庁との協議で公園化が企画されている。(トイレを設置する計画)
     さて、豊後大野市の大野町と千歳町の境にある王子山は、(真名の長者、鏡の王子伝説、頂上に鏡の王子神社跡あり)は巨大な円形の山稜で、いつも通る中九州道路の千歳インターの正面にある、異様なパワーを発している。黄金が眠っていそうな直感。誰かの古墳か。地元の人から、確かに千歳町には小さな古墳がある言い伝えが残っている。