ウエツフミに見る猿田彦の足跡

今年(2016年)は、申年ということで、猿田彦が大活躍しそうです。

しかし、この神様の由来は、ほとんど忘れられようとしています。

 

そもそも「猿田彦」とは、いったいどういう神様だったのでしょうか?

今回は、ウエツフミの記述から、その足跡を追ってみます。

そこには、記紀が意図的に削除した痕跡が、くっきりと浮かび上がってくるのです。


加賀の岩巖に生まれる

父は、大歳の神の御子で、久久紀若室葛根(ククキワカムロツナネ)

母は、産巣日の神の御娘で、封貝比売(サキガイヒメ)

 

猿田彦が生まれたとき、父は自分の子でないことを疑い、「無くした弓矢を持ってきたら本物だ」と、母子に試練を与えます。

母が嘆き悲しんで、川で禊をすると、まず角の弓矢が流れてきます。

生後200日ばかりの赤子だった猿田彦が、「私の弓矢ではない」と見抜き、次に流れてきた黄金の弓矢を、「これが私の弓矢だ、母上嘆かないでください」と取り上げて、暗い岩巖を射抜くと、そこが光り輝いたので、ここを「加賀」という。

と、書かれています。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=8&sno=1

 

また、別伝では伊勢の五十鈴川に降臨したともあります。

 

つまり、後述するように、由緒正しい大山津見神の子孫(孫)であり、植林や伐採や製材などの林業全般を司る「山の神ファミリー」(三島神社・日枝神社系)の一員として、庶民からも愛された人気の神様でした。

 

なお、大山津見神はスサノオの命令で、その体毛を使って全国の山野に植林したので、「山の神」となったのです。

のちに、第19代ウガオフキアエズの治世に、四国の大三島にこの神が降臨したので、「三島神社」を創建したと、その由来が書かれています。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=27&sno=22

 


様々な異名と伝承を持つ神様

ウエツフミでは猿田彦(サルタヒコ)が正式名ですが、そのほかにも下記の異名があります。

大土之御祖(オオツチミオヤ)の命

佐太(サダ)の大神

大土(オオツチ)の神

そして、その御子が塩土(シオツチ)の翁です。

 

このほか、「出雲神話」では

縁結び幸の神(さいのかみ)----ニニギに木花咲耶姫を紹介したので(ただしウエツフミでは下記のとおり異なる)

導きの賽の神(さいのかみ)

庚申塚に祀られた庚申様

船玉明神(造船技術を伝えたので、この記述はウエツフミにもあり)

摩利支天、毬(まり・摩利)の明玉

罪咎(つみとが)払う白ひげの神

【出展】http://kagura.kaiz.asia/2015/05/29/saruta/

 

また奥豊後地方に伝わる「高千穂神楽」では、

荒神(こうじん)様と呼ばれ、罪咎を払う厄払いの神であり、またカマドを火災から守るために「お札」としても貼られます。

詳しくは、こちら

 

さらに、村と村との間の境界線には「庚申塚」が置かれましたが、そこには神代文字のような(まるで五郎丸ポーズを横から見たようなカタチの)猿田彦のマークが入っています。

(写真は竹田市三宅の大歳神社にある庚申塚)

つまり、「ここから先は猿田彦神が守る境界だから入ってくるな!」という意味でしょうか?

あるいは、当時は外国人の侵略が最大の悩みごとでしたから、結界が張られたのかもしれません。

もともと「荒神(こうじん)塚」だったものが、「庚申(こうしん)塚」になまったのか、または中国風の充て字と考えられます。

 

くしくも「五郎丸ポーズ」と書きましたが、猿田彦が精神統一して厄払いをするときの姿勢が、そのまま象形文字として表されているのかもしれません。

(とすれば、五郎丸選手は、猿田彦の生まれ変わり?)

 


天孫降臨のとき、突然表れてニニギの道案内をする

ここは、ほぼ記紀が伝えるとおりです。

つまり、父の大年の神の命令で、ニニギ一行が迷わないように道案内にやって来たのです。

(現在でも、奥豊後地方では獅子舞に姿を変えた猿田彦神が、神様を迎えに行き、お神輿を先導してきます)

 

しかし、「アメノウズメがホトに手を当て腰を廻して誘惑した」などという下品な記述はウエツフミにはありません。

これは「天の岩戸」のときの舞いの様子で、猿田彦に向けられたものではありません。

(つまり記紀の作者は、アメノウズメが淫乱だ!とでもいいたいのでしょうか?)

なお、アメノウズメについては、以前にも書いていますので、こちらから。

 

逆に、猿田彦はアメノウズメに一目ぼれしたので、ニニギの命にお願いして、妻としてもらいうけます。

その後、この二人はどこに行くのも一緒で、仲良く天孫の道案内を勤めています。

 

だから出雲神話が「縁結びの神」と伝えているようですが、ニニギに木花咲耶姫を紹介したのは、コヤネ、フトダマ、オモイカネの三神であり、逆にニニギが猿田彦夫妻の縁を取り持ったともいえます。

つまり、日本初の婚礼が行われたということでしょうか?

 

余談ですが、このとき猿田彦が道案内した先は「高千穂の二上りの峰よ日の瑞の新宮」、つまり大国主が準備した「フタノボリの大宮」であり、記紀はここを曖昧にして「笠沙の御前」まで通り過ぎたと誤魔化しています。

くわしくは、こちら

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=8&sno=26

 


その異様な容貌はまるで天狗

初登場したときの猿田彦の容貌があまりに異様だったので、お供の神たちは「一体誰だ?」と怖がって、気の強そうなアメノウズメにコンタクトさせたのです。

 

その容貌とは、

上は高天之原まで照り渡り

下は中津国(日本)まで照らし渡り

鼻の長さ七寸(まるで天狗のようです)

背平の長さ七尺余り(背平=そびらを背中と解するのが通説ですが、背中の長さを記録するのは不自然なので、もしかしたら背びれ=翼のことかもしれません?つまりここも天狗そっくり)

その眼は梅実のごとく円く

腰に太袴を穿き込み

右の御手に木矛を持って

楮布(かじふゆ)で作った御和幣(みにぎて)に五十鈴の付いたものを持っていた

 

ただし、こちらの記述からも分かる通り、猿田彦は縄文人であった可能性が高いので、もともと縄文人たちが信仰していた「山の神」が、天狗のような姿をしていたのではないでしょうか?

 


全国を巡幸してその足跡を残す

この猿田彦、全国を巡幸してその足跡を残していますので、その訪問地をリストアッブしておきます。

 

◆日向の襲岳の頂上で婚約発表を行う

襲岳(おそだけ)は、阿蘇山という説と、祖母山という説がありますが、どちらにせよ中部九州で結婚式を挙げたことには間違いありません。

この山頂から、アメノウズメと結婚したことを人民に宣告します。

 

◆このとき、引き出物として木炭を配る

ここで、炭焼きの技術を伝え、出来上がった炭(燿り炭)500菰を、ニニギの命に献上して喜ばれました。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=9

つまりオオヤマツミの孫ですから、林業に精通していたということが重要なのです。

また最後に詳しく解説します。

 

◆愛媛で「天の磐船」の造り方を教える

ここは、出雲神話も伝えるとおりです。

ただし、その記述を読むと「木造船」であり、二本マストの帆船だったようです。

そして、山から木を切り出す樵の姿がいきいきと描写されています。

つまり、「天の磐船」とは、どこかの神社にあるような岩石ではなく、ましてやUFOでもありませんでした。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=14&sno=1

 

ちなみに、このとき海幸彦と事代主が、はえ縄漁によるマグロ漁を伝えています。

のちに、ニニギの孫の初代・ウガヤフキアエズが玉依姫を竜宮城から迎えるときも、この猿田彦の造った船が活躍します。

 

◆ちびき石を二つに割り、谷にかけて「水門(みと)の浮橋」を作る(場所不明)

 

◆直入(竹田市)で、大雨のため13日も足止めされる

東の菅生山(すがやま、菅生の山で荻岳のことか?)に登り、頂上の岩を蹴散らかしたので、ここを千引(ちびき)という。

長雨でよほどストレスがたまったのでしょうか?

 

◆速水に仮宮を構える

大分の高崎山を越えて、速水(別府~日出)に出たとき、由布川の深い谷に丸木橋をかける。

ここを「猿の渡り」といい、木立が多く茂る合間だったので「阿比良(あびら)」というと書かれていますが、どこか別府と湯布院との中間地点であり、祖母山の尾平(おびら)や宮崎の吾平(あひら)ではないようです。

恵良(えら)となまったという説もあります。

ということは、初代・ウガヤフキアエズが埋葬された「吾平山稜」とは、別府付近だった可能性もあります。

 

またここに、仮殿を建てたので「神楽女」(アメノウズメに因んで)という、とも書かれています。

これが、幻の「吾平の宮」または「恵良の宮」であり、大分県の安心院地方には、(間違って?)スサノオの伝承として伝わっています。

 

◆夫婦そろって熊襲の国(熊本)に出かける

浮橋を渡したところを「川辺り(かわべり)」という。

それにしても、橋を架けたという伝説の多い神様ですね。

ポイントは、熊本のことを熊襲の国と呼んでいるので、結婚式を挙げた場所は阿蘇山ではなく、祖母山の可能性が高くなります。

 

◆空国頓丘(むなくにひたお)を通過

ここは、日田を通過したと解するのが自然ですが、満家野(みちえぬ)という地名が書かれています。

あるいは、熊本と鹿児島の中間地点かもしれませんが、不明。

 

◆阿多の笠沙の岬に至り、スガルを退治

この阿多とは、鹿児島県のことで(阿多隼人の地)、記紀の作者はこのことを称して「ニニギの命が笠沙の御前に至った」と解しているようですが、主人公はあくまでも猿田彦です。

 

ここで長屋竹島に登って、あたりを見回すと、シオツチの翁が登場します。

塩土の翁は、猿田彦の子供ですが、ここではどういう訳か国津神となっており、別名を事勝国勝長狭の命といい、イザナギ・イザナミの子とありますから、当時からも異説があったようです。

 

「このあたりにタタリ神が居るというが、汝は知っているか?」と聞くと、

塩土の翁が「よく知っています。スガルというマガツ神で、襲之崎の小都萬の国に居ますので、行って退治してください」とお願いします。

すると猿田彦は、「その国でスガルを退治してから、熊本経由で福岡に行き、山口あたりまで諸国を来訪しようと思う」といいます。

すると「あなたがそのルートで来訪するなら、私は海路で島々をめぐり、海水から塩を作る技を伝授しましょう」といいます。

多分、ここで義理の親子の契りが成立したということではないでしょうか?

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=11

 

のちに塩土の翁は、約束どおり穴門の国(山口県)の内海の辺津島で、「海水塩田法」による塩造りの技を伝えます。

奈良時代の「藻塩製法」ではないことに注目。

つまりわが国古来の製塩方法は、大陸由来のものとは異なるということです。

この辺津島とは、宗像三女神の祀られた辺津宮と同じ地名ですので、現在の厳島神社であると考えられます。(当時は広島県は存在せず吉備と穴門の一部だった)

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=15

 

ちなみに、ニニギの皇后の木花咲耶姫も、ここ鹿児島県の笠沙の御崎の出身で、たいそうな美人でした。

(出雲神話では、伊予の越智出身としていますが、のちにここにオオヤマツミが降臨したのでその娘も越智出身だと誤解されたようです)

そして、ここから豊の国に嫁いできたのです。

そのことを証明しているのが、二人の婚礼のときに歌われた祝歌であり、そのなかにニニギの大宮のあった場所が全て書かれているからです。(重要なので全文掲載します)

この御子は

高千穂宮に神ながら----フタノボリの大宮(祖母山)

阿比良屋宮に神ながら----恵良の宮(速水?)

豊宝宮に神ながら-----大分の御宝山の宮

阿蘇道宮に神ながら----阿蘇の宮

臼杵宮に神ながら----臼杵の宮

日継の此の子御世継ぎに

木之花姫を御妃と

千秋百秋百千萬にいつべらく

えまほぎめらし其が吉しに

萬こだだよやちさよ各も各もよ

腰太のはしきほぐらしなり

神朗ら朗ら愛で弥楽し

こヤ楽し天晴れ御世

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=9&sno=24

 

◆山彦を竜宮城まで迎えに行く

 のちに、ニニギの次男・山彦(ホヲリ)が、無くした釣針を探して竜宮城を訪れ、豊玉姫に出会って一目ぼれし、そのまま帰ってこなくなります。

この山彦(ホヲリ)を迎えに行くという特命全権大使に選ばれたのが、猿田彦とアメノウズメでした。

 

二人は、国東半島まで行き、姫奈米(ひなめ)の高津の澪前(みおさき)に立って、道案内してくれる魚を召集します。

するとヒラフ貝が沢山集まってきました。

(記紀は猿田彦がこの貝に挟まれて溺れ死んだとしているが、ここに悪意ある創作が見える)

さらに、鯨が現れたので、その背中に乗って竜宮城を目指し、天の高津のオムロト(小室津?)に到着します。

 

そして、無事に山彦(ホヲリ)と豊玉姫のカップルと、潮満玉・潮干玉(ウガヤ王朝では勾玉ではなくこれが三種の神器)を持ち帰るのですが、このときに利用したのが、ヤヒロウガツチという乗り物で、琵琶湖の竹生島に祀られています。

つまりこれが宇賀神の原型です。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=14&sno=14

 

◆初代・ウガヤフキフエズの皇后・玉依姫を竜宮城に迎えに行く

 ニニギの孫の初代・ウガヤフキフエズの時代になって、神隠れした大国主が突然降臨し、ウガヤフキフエズに「なぜ、お后を迎えることをためらっているのか?今でしょう!」といい、自ら佐賀関を出発し竜宮城まで出向いてワタツミの神に会い、玉依姫(豊玉姫の姪)を皇后にするよう説得します。

 

ちなみに、このとき大国主が到着した場所が、「小浜(おはま)」となっていますので、もしかしたら竜宮城とは福井県小浜市のことかもしれません。(なら、上記の高津のオムロトとは高浜の青戸?・・・トとは狭い海峡のことなので)

そう考えると、のちに神宮皇后や武内宿禰が、頻繁に気比を訪れている理由も明確になってきます。

(ウエツフミにも、「この気比のあたりはとりわけ霊気の強い場所だ」と書かれていますので、そんなところに原発なんか作っちゃったらバチがあたりそうですけどね)

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=17&sno=1

 

そして、お出迎えの全権特命大使に選ばれたのが、またまた猿田彦とアメノウズメの夫婦でした。

さっそく二人は美しい船を建造して迎えに行きます。

 

このときの経路が重要なのですが、

⇒まず、玉依姫の一行がヤヒロウガツチに乗って、海津宮(竜宮城)から出雲の日碕の浜(日御碕)に到着します。

 

⇒すると猿田彦夫妻が大分の御宝山(霊山)に顕れ、国の守・豊日別の命に「天津御子の御妃を、海津宮から迎えるので、あさっての日、ここの丹生門(大分市の大在海岸あたりにあった港)に到着する。ついては、ぬかりなくもてなすように」と命令します。

そこで、豊日別の命は霊山の麓にあった大分の宮に門松を立てて盛大に歓迎しました。

 

⇒ここから御輿を仕立てて、お供の神たちを率いて、直入の宮(緒方町)を通り、そこから高千穂の二上の大宮(竹田市菅生地区)に入ります。

 

さてさて、以上のように猿田彦夫妻は、日向三代にわたってお仕えした重臣だったのです。

しかも、全国にその足跡を残しているのに、なぜ「古事記」や「日本書紀」は、この重要な神様をあえて無視しているのでしょうか?

 


その後の歴史から、消されてしまった理由とは?

<日向三代の抹消>

ひとつの大きな理由は、豊の国を中心に繁栄した「日向三代」の存在自体が、その後の歴史から抹消されてしまったことです。

多分、日向王朝のライバルがその後政権を握ったということでしょう。(ひとつの仮説が、こちら

 

現在では、その本拠地は宮崎県にあったとするのが通説で、あるいは鹿児島県であるという珍説まで堂々と展開されています。

 

従って、その日向王朝の重臣であった猿田彦の記憶と、猿田彦信仰もことごとく抹消され続けているということです。

その後、庚申様と中国風の名前に変えられて、単なる道祖神として扱われるようになってきました。

しかも、上記のとおり「そのお顔が猿に似ている」という記述はどこにも無いのですが、いつのまにか「猿の化身」だということになっています。

 

さらに明治時代になってから、天照大神を中心とする国家神道への統合が行われました。

つまり、明治政府は「廃仏毀釈」というスローガンのもと、絶対唯一神を作り出したかったということであり、これにより国民の思想宗教を(侵略戦争に向けて)統一することを狙っていました。

いうならば、「統合」という名目の「取捨選択」です。

即ち、秦の始皇帝の行った「焚書坑儒」政策と同じように、歴史破壊・文明破壊が行われたということです。

 

だから、「国つ神」の系統である「オオヤマツミ・ファミリー」は、ことごとく異端の神とされて、抹消されていったのです。

被害者はオオヤマツミだけではありませんでした。

海の神ファミリーである豊玉姫しかり、さらにスサノオ信仰さえも、ことごとく他の神へと名前を変えることを強いられたのです。

 

<二つの勢力の政権交代>

もうひとつの理由は、私の書いた下記の「神様系統図」を見ていただければ、一目瞭然です。

即ち、天孫族を取り巻く「国津神」には、二つの系統があるということです。

 

◆オオヤマツミを中心とする「山の神ファミリー」

例えば、三島神社であり、山王神社(日枝神社、日吉神社、比叡山)であり、山の文化「林業」を支える勢力です。

 

◆オオワタツミを中心とする「海の神ファミリー」

例えば、住吉神社であり、鹿島神社であり、あるいは八幡神社もここに属するかもしれませんが、海の文化「魚業」を支える勢力です。

 

そして、海彦・山彦の時代に大変革が起こっていることにお気づきかと思います。

つまり、それまで天皇家を支えてきた「山の神ファミリー」から、「海の神ファミリー」へと政権交代が行われているのです。

このことを象徴しているのが「海彦と山彦がお互いの宝物を交換した」という逸話です。

このときから、なぜか弟の山彦が即位して、「海の神ファミリー」との絆を強めていったのです。

 

逆に、スサノオ以来天皇家を支えてきた「山の神ファミリー」は、ひっそりと姿を潜めるカタチになります。

ウエツフミでは、兄の海彦は嘆いて岩屋に篭ったと書かれており、そのことを裏付けるように豊国文字で書かれた「蓋石の碑文」まで、発見されています。

つまり、現在「天の岩戸」とされている高千穂神社の洞窟は、この海彦が幽閉されていた現場なのかもしれません。

詳しくは、こちら

 

さらにこれは重要なことですが、天皇家自体は伝統的に「農業の神様」ですから、この3つの勢力が合体することによって、日本の農林水産業は安泰しているという誠にありがたい仕組みなのです。

<藤原氏と物部氏の主導権争い>

そして、もうひとつの重要なファクターは、

「山の神ファミリー」を支えて信仰していたのが、物部氏の一族であり、

「海の神ファミリー」を支えて信仰していたのが、藤原氏の一族である。

ということです。

 

聖徳太子の時代に起こった藤原氏と物部氏の覇権争いは有名ですが、どちらが勝ち残ったのか?をみれば、その後「山の神ファミリー」が廃れていった理由が明確になってくるハズです。

 

<帰化人による神話体系の乗っ取り>

 さらに事態をややこしくしているのが、ニセ物部氏とニセ藤原氏の存在です。

いつのまにか、外戚関係を通じて入り込んできた、恐らく帰化人勢力が、日本古来の神道体系をメチャクチャにしています。

 

例えば、ニセ藤原氏が連れてきた「白鹿信仰」や、

ニセ物部氏がどこからか復活させた「大物主」

(物部一族が滅んだあとその家督を乗っ取った外国人の仕業?)

さらには、謎の人物・大神比義が降臨させた「八幡神」など、

(この神様も「我は新羅の神なり」と自分で言っています。詳しくは、こちら

 

多分、ユダヤやシュメールの神々との融合を図る目的で、本来の日本神話には全く登場していなかった「新参の神様」が、あちこちで活躍して日本の神道体系を大混乱させています。

 

例えば、帰化人が書いたことが明確な「古事記」には、「山の神ファミリー」は、どのように説明されているかご存知ですか?

大山祇の子・大年の神が生んだ子供は、

大国御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神であると・・・・

これらは全て朝鮮系の神様ですよ!

しかも、この4人が正妻の子で、猿田彦は妾の子であるとしています。

その他、見たことも聞いたこともない異郷の神様たちが「古事記」には目白押しです。

【出展】http://www.genbu.net/saijin/ootosi.htm

 

さらに、天孫降臨の地は「韓国に向いている」とか、日向国は存在せず宮崎と熊本が合体して「建日向日豊久士比泥別」というとか、スサノオが朝鮮半島に渡ったとか、もう目を背けたくなるような捏造記事のオンパレードです。

藤原氏の書いた「日本書紀」のほうがまだマシですが、「古事記」との齟齬を避けるため、あえてまずい部分は無視するか、「別伝」という姿勢をとっています。(どうやら藤原氏のほうが賢かったようですね)

 

このように彼ら自身の信仰をブッ込んできている訳ですから、いまだに素直に「古事記」と「日本書紀」こそが絶対唯一の正史だと信じ込んでいる人たちは、みごとにあちら側の「マインド・コントロール攻撃」に感染している訳です。

 


結びにかえて

ちょっと発言が過激になってきましたが、「ウエツフミ」を読む限り、これこそが本物の日本人の書いた「素直で正しい歴史書」であることを痛感する毎日であり、自分がそれを復活させなければ、古代史が永遠に闇の中に埋もれてしまうことを危惧しているだけなのです。

このことは、猿田彦に関する「ウエツフミ」の正確で丁寧な記述からも明白です。

 

そして、猿田彦とアメノウズメの夫婦神は、永い間、日本人の祖先たちからも絶大な信仰を受け続けてきた人気者でした。

その記憶は、いまでも私たち日本人のDNAのなかに、脈々と受け継がれています。

 

申年の今年(2016年)、あらためて猿田彦が祀られた神社を訪れてみてはいかがでしょうか?

 


コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    山内 桂 (火曜日, 02 2月 2016 01:15)

    ご存知かと思いますが、由布川渓谷沿いに「猿渡」の地名があります。また源流方面には有名な「神楽女湖」もあります。