蓋石に書かれた豊国文字とウエツフミの記述が完全に一致

昭和31年に、高千穂町の天岩戸神社から発見された「蓋石」ですが、そこにはいったい何が書かれていたのでしょうか?

この碑文の解釈をめぐっては、様々な説が乱れ飛んでおり、中にはとんでもない誤訳もありますので、あらためて私が翻訳しなおしました。
無理もありません。

この碑文は新字体と旧字体が入り混じって書かれているため、ひとつの教科書だけでは、解読は不可能だったからです。

<過去の様々な解釈がわかるサイト>
http://kiyond.blogspot.jp/2011/09/blog-post_03.html

結論を、ひとことで要約すると
「ホノアカリの命が、この岩戸に篭ったとき、持ってきたヤタの鏡をここに隠し置いた」
と書かれているのです。

 


私流の最新の解釈

<原文>
そぢみぎみかみづみか
みさみねともほえ これの
うつはわ
ほのあかりのみこと これのあめのいわと
にこもりますときの あそひのそ
なヱにまつる ひとつのおおみかかみわ
すめおおみかみの みたまして あめのい
わとにのこし もちいだししなるお あ
めのいわやどの これのきしに いわも
て四ひらにたて
かくしお
くなり

 

<筆者による現代語訳>
(前段2行は「呪文」と思われるため省略)
この器は、
ホノアカリの命が、
この天の岩戸に籠りますときの
遊びの備えとして祀る。
ひとつの大御鏡は、
皇祖大御神(天照大神)の御霊として、
天の岩戸に残し、
持ち出した(もうひとつの)ものを、
天の岩屋戸のある この岸に
岩を以って四方に立て
隠し置くなり。

 


ウエツフミの記述との一致

つまり、「ホノアカリ」とは、「海彦山彦の神話」で、皇位を弟に譲った兄のホスサリ=(通称)海彦のことだったのです。

記紀では兄弟間に確執が有ったように伝えていますが、実はそうではなく、「弟の山彦のほうが太陽のように光り輝いて、いかにも天皇らしいオーラを放っており、人気もあったので」、兄のほうから即位をすすめましたが、弟のホヲリがなかなか応じなかったので、20年間も後継者が決まらなかったとあります。

ついに、自分自身に皇位継承の力量が無いことを嘆いた、兄の海彦が、岩戸に篭って出てこなくなったのです。

『こハ 吾が世に経れる罪なりと 御嘆きのまにまに 豊道之原 高千穂の岩屋に立て籠もりて シシの岩戸を 閉し固めたまイて 磐隠りまします』
(原文)http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=14&sno=17
【第14綴】第17章より

つまり、この事件があった舞台が、ここ天岩戸神社の洞窟であると、蓋石碑文が伝えているのです。

これにより、「ウエツフミ」の記述と、考古学的な史跡の存在が、完全な一致をみることになりました。

 


大事件の発生

ところが、ここに大事件が起こります。

この碑文が発見されたのは、昭和31年7月のことでしたが、東京から学術調査団がやってきて、朝日新聞が「この蓋石には歴史的信憑性がない」と報道したので、天岩戸神社の氏子一同が協議して、地上から永久に抹殺することになり、粉々に砕いて近くの川底に沈めた、といいます。
もったいのない話です。

私には、まだどこかに隠されているような気がしてならないのですが・・・・

 


残る問題とは?

さてさて、それでもまだ下記の3点が解決されない謎として残ります。

(1)ホノアカリは天皇であった。
なぜなら、天皇以外がヤタの鏡を持ち出すことは、絶対にあり得ないからです。
これは天照大神からの神伝えです。
つまり、海彦はいったん皇位を継承していたことになります。
では、ウエツフミは、なぜそう記さなかったのでしょうか?
ここが第一のミステリーです。

(2)ヤタの鏡は2つあった。
これは「ウエツフミ」の記述どおりです。
ひとつは、「天上界の天の岩戸に残し」「もうひとつをニニギの命が持って天孫降臨した」とあります。
ここでは、その神話があらためて解説されているようです。

それとも、「ひとつは兄が持ち、もうひとつは弟が持った」ということでしょうか?
もしそうならば、もうひとつのヤタの鏡は、大分の御宝山から発見される確率が高くなります。

 

さらに、「遊びの備えに祀られた器」とは、ここから発見された「古鏡が七枚と四種類の陶器」のことだとすると、本物のヤタの鏡はまだ見つかっていないことになります。
ここが第二のミステリーです。

(3)ホノアカリが、その後の歴史から消えていることです。
通説では、「天火明命」について
◆海彦のことだとする説
◆ニギハヤヒのことだとする説
などがあり、統一されていません。
つまり分からないということ。

それでは、「ウエツフミ」には「ホノアカリ」についてどう書いてあるのか?というと、
ニギハヤヒの正式名称の一部として、たったの一度登場するだけなのです。
天照国照彦天津火之明饒速日の命
しかも別伝として下記の異名もあります。
天照国照彦火明櫛玉饒速日の命
ここでは、「ホアケ」であり「ホノアカリ」ではありません????

仮に、ニギハヤヒのことだとしても、ニギハヤヒがここ宮崎県高千穂町に「篭った」という記録は、どこにもありませんし、そもそもニギハヤヒとは一体誰なのか?全く説明がありません。
これは、第70代ウガヤフキアエズ天皇の時代も同じで、お后が身篭ったとき降臨した「火明の命」という神様の由来が分からなかったので、長老・中臣道柴に尋ねると、それは「ニギハヤヒの子孫です」と回答があり、あわてて斑鳩山に祀ったとあります。
つまり、当時の人でさえ、ニギハヤヒのことはそんなによく知らなかったということです。
なぜ、海彦・山彦の兄弟と、ニギハヤが混同されているのでしょうか?

あるいは、海彦の子孫を自称している「隼人」が、故意に歴史を混乱させているのでは?と、疑ってみたこともありました。
詳しくは、こちら

さんざん悩んだ挙句、私はあるひとつの結論に至りました。

それは、バックアップシステムとしての「裏天皇家」実在説です。

 

さて、いよいよ核心に近づいてきたようですが、長くなりますので、次回のお楽しみに・・・・

 


コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    榊 恵美子 (水曜日, 24 2月 2016 09:30)

    縁あって 貴方様の文を読ませて頂きました。
    とても納得の行く話で興味を持ちました。
    これだけ調べるには相当な時間が掛かっていらしゃるでしょうし、能力の高さにも感心致しました。
    感謝しながら これからも読ませて頂きます。
    有難うございます。