蘇我氏が滅ぼされた理由

その理由は、なんと『先代旧事本紀 大成教』のなかで、推古天皇自身が書いた『神代皇代大成教序』に、切々と綴られていました。

 

先日、NHKKの歴史秘話ヒストリアで放映された『発見 蘇我入鹿の棺(ひつぎ) よみがえる“大化改新”』では、このあたりの経緯がみごとに再現されていました。

 

では、そこには一体、何が書かれていたのでしょうか?
駆け足で、その内容を見てみましょう。

 


『神代皇代大成教序』より抜粋(筆者訳)

---------------------------------------------------------------------------

聖徳太子が発案した日本初の歴史書『先代旧事本紀』、それをまとめあげるために6人の編集委員が選ばれます。
その編集会議の席上で、蘇我馬子自身が、この大事業への取り組み姿勢を淡々と述べ始めます。
その演説内容は概ね下記のようなものでした。

---------------------------------------------------------------------------

 

「崇峻天皇の時代に、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま=渡来人)が天皇を暗殺しました。今思えば、これは私の責任でございます。」と言い出した蘇我馬子が、自分の責任の根拠を「六つの罪」として自己批判しています。

 

1. 天皇の寵愛に奢り高ぶって、自分の勢いが天皇を上回ってしまったこと。
2. 目上の天皇が、目下の自分の横暴を憎むのは当然の成り行きとはいえ、罪も無い自分が罪人にさせられたことに怒ってしまったこと。
3. 盗人の直駒が、かたわらで天皇を誹謗中傷して、自分を慰めてくれたのを黙認したこと。
4. 大臣の職にありながら、直駒の陰謀に気づかなかったこと。
5. 臣下の分際で、天皇を制止して、みだりに助言したこと。
6. ついには、奢り高ぶって天皇に嫌われてしまったこと。

 

これら六つの罪により、ついに天皇が暗殺されてしまったことを認め、直駒の責任ではなく、自分の責任であると謝罪しています。
さらに「天皇が自分のことを憎むあまり、ついに顔を向けて笑ってくれなかったことを、(私が愚かでしたので)疑ってしまいました。」と自白したうえで
「今やっと天皇のお気持ちが分かりました。このように歴史編集委員に任命されたことは私にとって至福の至りでございます。」
だから、「私が崇峻天皇を殺したと歴史書に記してみんなに知らせましょう。それにより誤った歴史を正して、後代の人たちを戒めることができるからです。」
と、結んでいます。

 


これをどう解釈するか?

さてさて、この馬子の演説をみなさんはどう捉えますか?
 一見、しおらしく反省して自己批判しているように見えますが、そのまま受け取っては、宮中セレブたちの世界では生き残れませんよ!
つまり、これは「タテマエ」だということです。

 

それでは、蘇我馬子のホンネは何だったでしょうか?
つまり、「オレの言うことを聞かないと、また死人が出るよ」と、恫喝しているのです。
 多分、聖徳太子に対して・・・・
「おまえは本当のことを書いて、オレを窮地に陥れるつもりか?」と、みごとに開き直るその態度には、闇の帝王としての凄みさえ感じられます。

 

 案の定、この編集会議は大混乱となり、ついに完成する前に聖徳太子自身も亡くなってしまいます。
 多分、暗殺されたのでしょうね。

 

 「ヒストリア」が指摘しているように、もしも蘇我入鹿・蝦夷親子の墓がピラミッド型をしていたのなら、蘇我氏とは大陸からやってきた秦の始皇帝たちの子孫だということです。


 渡来人だからこそ出来た、渡来人勢力のとりまとめとその活用、それが蘇我氏のパワーの根源でした。

そして、自分たちの擁立した崇峻天皇や、皇室のプリンス・聖徳太子までも平気で暗殺してしまう残忍さに、ついに堪忍袋の尾が切れたのは、じっと耐え続けてきた日本人たちでした。

 

 神功皇后以来、数百年間も続いてきた渡来人による日本国の支配、それが「古墳時代」という暗黒時代であり、それに終止符を打ったのが「大化の改新」ということになります。