縄文人の王様・猿田彦と弥生人の王様・ニニギはここで出会った!

大分県豊後大野市緒方町大石地区にある「大石遺跡」

これまでのお神楽に関する研究から、猿田彦とは縄文人が信仰していた「フナトの神(またはクナトの神)」であることが分かってきました。

⇒詳しくはこちら

 

ここから、記紀が伝える『天孫降臨伝説』の全貌が、おぼろげながら見えてきました。

 

それは、縄文人の王様・猿田彦と弥生人の王様・ニニギが出会うことにより実現した、わが国初の「縄文=弥生連合国家」の誕生秘話だったのです。

 

祖母山に天孫降臨したニニギの一行は、「ヤチマタノチマタ」まで下りてきたところで、猿田彦一族に遭遇します。

 

この場所をずっと探し続けていた私は、ある日ふとしたことから大きなヒントを手に入れることになるのです。

 


ヤチマタノチマタとは何処なのか?

猿田彦がニニギの一行を待ち構えていた場所、それがヤチマタノチマタなのですが、実は抽象的な仮想空間ではなく、具体的な地名でした。

 

そもそも豊国文字で表記されていた「ヤチマタノチマタ」を、あえて漢字に変換すると「八千又の巷」が最も近くなります。

くれぐれも、記紀の作者たちによる「変な当て字攻撃」に騙されないようにしてください。

 

「ヤチマタ」とは、道路が何本も交差する交通の要衝。

⇒国歌「君が代」の「やちよ」も漢字に変換すると「八千世」であり、「ヤチ」とは「とても数えられないほど多い」という意味です。

 

「チマタ」とは、文字通り人通りの多いにぎやかな場所を意味します。

⇒今でも、都会の繁華街のことを「ちまた」と言いますよねえ?

 

それでは、ニニギの命が天孫降臨してきた紀元前800年当時に(あくまでもウエツフミの記述による)、にぎやかな大都会で、道路が何本も交差する交通の要衝(今でいうゲートウェイ)とは、一体どこのことだったのでしょうか?

 

それが豊後大野市の三重町あたりだったのです。

 

なぜならこのあたりからは、石器時代から古墳時代に至るまで、さまざまな時代の古代遺跡が数多く発見されています。

【参考】http://www.bungo-ohno.jp/docs/2015022000424/file_contents/maibun1.pdf

 

つまり、のちに政治文化の中心が関西に移るまでは、このあたりが古代の中心都市であったということです。

 


大石遺跡にある謎の円形集会場と稲作の痕跡

そんな星の数ほどある遺跡群のなかでも、私が最も注目しているのが、「大石遺跡」(大分県豊後大野市緒方町大石地区)なのです。

【参考】https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21509

 

ここは、祖母傾連山の北の裾野に広がる肥沃な台地であり、深い深い森のなかに突然顕れる広大な「高地性集落」であり、まるで「桃源郷」のような神聖な土地なのです。

 

この遺跡は、他の遺跡とは明らかに異なっています。

 

その特徴をひとことで要約すると・・・・

◆紀元前800年ごろの、縄文時代晩期の遺跡であること。

◆縄文人が農業、特に稲作を行っていた証拠が発見されたこと。

⇒別府大学の論文はこちら

◆石で作られた円形集会場(直径9m×深さ3mの石積4段の丸い穴)が発見されていること。

⇒下記のブログによると、50人は収容できるそうです。しかも中央はステージになっています。

【参考】https://blogs.yahoo.co.jp/kyoseki_hyuga/9554553.html

 

この3点だけでも、とんでもない大発見なのですが、なぜか学会は沈黙を守り続け、円形集会場に至っては、最近埋め戻されて、誰も見れないようになってしまいました。

 

しかも、この近くの天神原遺跡からは、日本に数体しか無いといわれる「土偶」も出土しています。

⇒どういう訳か、この土偶も行方不明?

 

私を呼んだのは猿田彦?

そもそも私がここを発見したのは数年前、オヤジと一緒にあてもなくドライブしているときにたまたま通りかかって、この円形集会場が露出しているのを偶然目にしたときです。

 

「なんと気持ちがよくて、格調の高い土地だろうか!」

そう感じた私は、「ここにはきっと何かがある」とにらみ続けていました。

 

あれから数年、「埋め戻された」という悲報を受け取った私は、再びここを訪れて、ほかの痕跡を探しました。

なんだかやるせない怒りがふつふつと込み上げてきて、「絶対に証拠を見つけてやる!」と、憤っていたのです。

 

そして、やっと見つけたのが小さな神社でした。

 

それが、近くの牛ケ迫という集落にある「豊明社」または「豊明八幡社」。

【地図】https://goo.gl/maps/7SFmQi8Ndtv

 

なんの特徴も無い、山村によくある平凡な神社なのですが、異常に長いまっすぐな参道は、ここがかつては大神宮であったことを物語っています。

 

「そもそもトヨアケって誰?」と、そのことだけが頭から離れなくなりました。

 

たまたま門前の民家から出てきたおばあさんにここのご祀神を訪ねると、

「さあなあ? 私もここに嫁いできただけで、みんな死んでしもうたからよう分からん。今は鹿とイノシシしかおらん。なんか宇佐神宮に関係のある神様らしいで。」

という、すげないお答えでした。

 

「この神社が八幡神に塗り替えられたのは明治時代のことだろ?そんなことを説明してもこのおばあさんにはトンチンカンだろうな・・・・!?」

そう思った私は、車をUターンさせて、そうそうに引き返そうと思ったのですが、なんと車がある石碑にひっかかって、立ち往生してしまいました。

 

 

その石碑を見たとたん、全身に戦慄が走りました。

なんと、そこには「猿田彦大神」と彫られているではないですか!

 

⇒掲載写真参照

 

そういえばこの石碑、平凡そうに見えて、実は微妙な難しい曲線で彫られています。

つまりタダモノではないということ。

 

それはかつて、猿田彦が世界中を航海したときに使用したという船のカタチを表しているのでしょうか?

 

「そうか、私を呼んだのは猿田彦だったのか!そして、ここがかつては猿田彦を王様と仰いだ縄文人たちの大宮だったんだ!」

そう納得した私の脳裏に、当時の様子がまるで動画のように再現され始めました。


天孫降臨伝説の実像

それは、紀元前800年ごろのこと。

宮崎県の高千穂地方を本拠地としていた天照大神の子孫たちは、ここから全国展開を目指します。

 

彼らは海洋民族の弥生人であり、「稲作」の中でも特に「水稲(水田で作られる稲)」を主食としていました。

⇒ウエツフミでは、この水稲を炊いたものを「イイ(飯)」と呼んでいる。

そして、彼らのお祭りが現在の「高千穂神楽」なのです。

 

ここでは、この人たちのことを便宜上【高千穂族】と呼ぶことにします。

 

この「全国遠征隊」の隊長に選ばれたのが、天照大神の孫であるニニギの命でした。

 

彼は、全国キャラバンのスタートにあたって、まず【出雲族】の王様であった大国主に相談して、協力と助言を仰ぎます。

 

知恵者の大国主が提案したのは、祖母山を越えた反対側、その北側斜面に展開していた【猿田彦族】との同盟関係の締結でした。

 

なぜなら、【高千穂族】と【猿田彦族】とは、一番近い距離にありながらも、険しい祖母山・傾山が交流を阻んで、お互いに一度も顔を合わせたことが無かったからです。

 

ちなみに、【猿田彦族】とは縄文人であり、この頃は「稲作」の中でも特に「陸稲(おかぼ=畑で作られる稲)」を主食としていました。

⇒ウエツフミでは、この陸稲を炊いたものを「コワ」と呼んで、「イイ」とは区別している。現在の「おこわ」の語源。

そして、彼らのお祭りが現在の「獅子舞」なのです。

 

だから、大石遺跡から稲作の痕跡が出土しているのです。

 

また、林業やシイタケ栽培、炭焼きなどの「山の暮らし」を得意としていた彼らは、オオヤマツミ(山の神)の子孫であると記されています。

 

険しい祖母山を越えて、北側斜面を下ってきたニニギの命の一行は、ようやく「ヤチマタノチマタ」と呼ばれていた、豊後大野市の三重町あたりに到着します。

ここは、交通の要衝であり、北の宇佐地方、南の高千穂地方、東の海岸部の佐伯や臼杵、西の阿蘇地方、どこに行くにもここを通らなければならないゲートウェイだったのです。

 

ここで、【猿田彦族】の王様である猿田彦が待ち構えていました。

 

最初は、文化も風体も全く異なる2つの部族は、お互いにいがみあいを始めました。

 

このいさかいを解決したのが、【高千穂族】のアメノウズメの命でした。

すぐれた交渉力を発揮したアメノウズメは、みごと【猿田彦族】との平和条約の締結に成功します。

⇒その経緯が御嶽流神楽の「地割(ちわり)」に残されている。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~etou/0504kagura.html

 

それどころか、アメノウズメの美貌に一目ぼれした猿田彦は、ニニギにお願いしてアメノウズメを自分のお妃にもらい受けます。

⇒ウエツフミによるが、この部分を記紀の作者は削除。

 

ここに、両部族の固いきづなが確立されたのです。

 

以降、猿田彦とアメノウズメの夫婦神は、ニニギの全国遠征キャラバンの先頭に立って、全国各地を開拓してゆきます。

 

そして、一番最初に建設された都が、現在の大分市稙田地区にあった「オオキタの宮」だったのです。

 

ここで、縄文文化と弥生文化とが融合して、全く新しい日本国が誕生します。

 

ところがこのあと、【高千穂族】の皇太子である「海幸彦」がニニギの命のあとを継いで天皇に即位しようとしますが、ここに【猿田彦族】の皇太子である「山幸彦」が反乱を起こします。

 

結局この反乱は、【高千穂族】がその皇女の「豊玉姫」を、【猿田彦族】の皇太子である「山幸彦」のお妃に差し出すことで解決します。

しかも、天皇の地位を【猿田彦族】に譲り渡します。

つまり、政略結婚が行われたという訳です。

⇒これが海幸彦山幸彦伝説の真相。

 

そして、弥生人と縄文人の両方の血を引く「ウガヤフキアエズの命」が誕生し、約1000年の長きに渡って、日本国は繁栄と安泰の時代を迎えるのです。

⇒この時代を記したのが大分県から発見された『ウエツフミ』。

 

この輝かしい時代を、後世の人たちは「弥生時代」と呼びました。

 

そして、このあとさらに数百年後、【猿田彦族】の血を引く聖徳太子が大分県に顕れ、仏教により日本全国を統一しようとします。

⇒詳しくはこちら

 


結び

さてさて、以上は私の脳裏に降りてきたフィクションなのかもしれません。

でも、この仮説により、ウエツフミの記述や山王伝説(猿田彦族の縁起)が、みごとに説明できます。

 

そして、この経緯をひたすらに隠そうとする人たちは、「万世一系」にこだわるあまり、日本国がもともと多民族による連合国家であったという事実には触れたくないようなのです。

その意味で古田武彦先生の「多元的国家論」は、まさに的を得ていたということです。

 

日本国の建国とは、他民族同士による相互理解と和解への長い長い道のりだったのかもしれません。