今日はお天気が良いので、いつもの場所に湧水を汲みに行きました。
するとどこからか白い犬が近寄ってきて、ペロペロと私の手をなめながら、「山へ行こう、山へ行こう」と誘うのです。
仕方がないので、普段から気になっていた深い山へと入ってみることにしました。
そこで、見つけたのが写真の看板です。
そこには、「轟(とどろ)銀山跡」と書かれていました。
飛鳥時代に、一代で莫大な財を成して、娘を用明天皇に嫁がせたという真名野長者。
大分県の三重町に伝わる伝説では、彼は金を発見したことになっているのです。
私は、ずーっとその場所を探し続けていたのですが、もしかしたらここかもしれません。
「そもそも三重町に金が産出するなんて話は聞いたことがない」
「作り話なんじゃないの?」
そう批判されてきた私は、すっかり自信を無くしかけていました。
なかには、「真名野長者は別府の人で、鶴見岳の金山で金持ちになった」などと奇想天外な説を主張する人まで出てきました。
「銀もあり得るか?そうだ、銀かもしれない」
山道をさすらいながら、私の脳裏には当時の様子が走馬灯のように廻りはじめました。
そういえば、先日テレビで「ヨーロッパでは、金よりも銀のほうが希少だった」という話を耳にしました。
だから今でも、西洋人の銀食器へのこだわりは、半端なものではありません。
ジャンバルジャンが盗んだのも銀の燭台でした。
しかも、鉱物資源は、ただ持っているだけではお金になりません。
それを高く買ってくれる人がいて、はじめて成金になれるのです。
それが、百済人だったのかもしれません。
大陸では希少な銀に目をつけた百済商人たちは、せっせと真名野長者のもとに通い、銀を売ってもらったのかもしれません。
その対価が、珍しい仏像だったり、金の延べ棒との破格なレートによる交換だったのかもしれません。
今みたいに「国際通貨決済機構」なんてものは存在しませんから、貿易の基本は物々交換です。
明治維新以前には、大量の銀が海外に流出したといいます。
ふと、気づくと道に迷ってしまっていました。
なんと、車を止めた場所から数十メートルの所で、脇道にそれていたのです。
営林署員の息子がなんたることか!
危ない、あぶない。
帰ってから、さっそく「轟銀山」で検索してみました。
すると、たったひとつだけ、江戸時代にこの場所から銀が発見されたという記録が出てきました。
https://blogs.yahoo.co.jp/qxkpg265/72069191.html
やっぱりあったんですね。
でも、地元の人さえ全く知らないほどの、極秘中の極秘だったのでしょう。
そうでなければ、心無い山師たちが殺到して、たちまち荒らされてしまいます。
それを見張るのが、私の父の仕事でした。
だから、私だけにこっそり教えてくれたんですね「ここに鉱山があったよ」ってね。
これで、真名野長者の財力の秘密が分かりました。
あとは、真名野長者が蘇我稲目であったことを証明するだけです。
だから、長者の孫が聖徳太子だったんですね。
さらにレポートは続きますので、お楽しみに。
なお、この文章を読んでいただいた方に警告です。
決して、一人で現地に行こうとしないで下さい。遭難しますよ。
途中から車道が荒れ果てて、走行不能となります。
引っ返そうにも道が細くて、バックするしかありません。
営林署員の息子で、山道には慣れている私でさえ迷ったくらいですから、きっと後悔しますよ。
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