『百合若説教』が伝える衝撃の真実
大分県などを中心に全国に伝わる『真名野長者伝説』ですが、その本拠地・豊後大野市ではこう伝わっているのです。
真名野長者には一人娘しか居なかった。
その娘・般若姫は、夫の用明天皇に会いに行く途中、嵐のため遭難して亡くなった。
跡取りが途絶えたので、欽明天皇の計らいで伊利金政を養子にした。
この伊利金政なる人物こそ、実は「百合若大臣」だったのです。
その証拠は、意外な場所から出てきました。
壱岐の島なのです。
そう長崎県の・・・・
さらに対馬にも全く同じ伝承が伝わっています。
それが『百合若説教』と呼ばれるものなのです。
【写真説明】壱岐の人たちは現在でも百合若伝説を大切に守り伝えており、それが銅像や凧(タコ)、さらに焼酎にまでなっている。
みなさんは、『百合若大臣』をご存知でしょうか?
多分、初耳だと思います。
あるいは、名前だけは聞いたことがある?
大分県出身で古代史を調べている私でさえ、恥ずかしながら知らなかったのですから。
といおうか、単なるおとぎ話だと思って無視していました。
この百合若大臣こそ、真名野長者の跡取り息子であり、本名を百合金政といい、のちに大将軍となって都に移住したというのです。
この「百合」が、間違えて「伊利」と伝わっていたのですね。
あるいは意図的に変えられたのでしょうか?
その答えは、最後に書きます。
百合若説教とは?
壱岐の島では、「イチジョウ」という巫女が、「天台ヤボサ」という神様を降ろして行う、不思議な神事が残っています。
このときに唱えられる祝詞またはお経が『百合若説教』なのです。
それは意味不明の呪文ではなく、かなり正確な口述の記録であり、一言でいえば、柞原八幡宮のご由緒と百合若大臣の伝記を庶民に伝えるための「歴史教育コンテンツ」だったのです。
【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E7%B5%8C%E7%AF%80
そのストーリを解説するまえに、まず「イチジョウ」と「天台ヤボサ」のなぞ解きをしておきましょう。
これを世に紹介した折口信夫先生をはじめ多くの先生たちが、その意味を解読しようとして大混乱しています。
例えば・・・・
http://kamnavi.jp/log/yabusa.htm
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-5048.html
なぜなら、多分『真名野長者伝説』を読んでいないからです。
【イチジョウ】とは、もちろん「一条」のことであり、どこかの都の中にあった場所を示しています。
もちろん京都の「平安京」ではありません。
ちなみに、「東の御所が朝日長者の屋敷」「二条が真名野長者の屋敷」「六条が天皇の大内裏」であったと書かれていますので、「一条は神様を祀る神殿」であったことが分かります。
そこに籠った巫女のことを「一条様」と呼んでいたのでしょう。
【天台ヤボサ】とは、天台はもちろん「天台宗」の天台であり、問題は「ヤボサ」ですが、これは九州人じゃないと分からないと思います。
「田の神様」をタノカンサと呼ぶように、ヤボサは「山法師様」または「山坊様」であり、山に籠って修行したボンサンのことです。
その正体は、あの山王様だったのです。
豊後大野市に伝わる『真名野長者伝説』にその由来が詳しく書かれています。
真名野長者は、この神様を熱心に信仰していたので、一代で大金持ちになり、息子の百合若を授かります。
ちなみに、真名野長者のゆかりの地である三重町の蓮城寺と臼杵の深田の里には、どちらも「日吉神社」が鎮座しています。
天台宗と山王様の関係ですが、もともと比叡山には山王様が祀られており、最澄の時代には仏教を積極的に導入した神様として「山王信仰」がまだ残っていましたが(山王神道と神仏習合)、のちに大物主という謎の神様に塗り替えられます。
多分その理由は、山王様が天皇家と直接結びつかない、インド・中国・日本を股にかけたインターナショナルな神様だったからです。
だからこそ仏教の導入に積極的だったのです。
話しがそれたついでにもうひとつ書いておきますが、このイチジョウが追い払う悪霊である「コンカイ」とは、田んぼの稲を食い荒らす害虫として『真名野長者伝説』に登場します。
念のためもう一度くり返しますが、「天台ヤボサ」とは天台信仰を広めた山法師様こと「山王権現」だったのです。
現在の柞原八幡とそのご由緒
『百合若説教』には、百合若大臣が88歳で亡くなったあと『柞原八幡宮』に祀られたと書かれています。
そう、現在の大分県の一の宮である、あの柞原八幡様(大分県大分市大字八幡987)です。
それでは、現在の柞原八幡宮には、この『百合若説教』は伝わっているのでしょうか?
神官さんに直接お会いして確認しましたが、「そのような文献も神事も残っていない。百合若大臣については初耳である」とのことです。
無理もありません。
現在の柞原八幡が創建されたのは「平安時代」のことですから、真名野長者や百合若大臣が活躍した6世紀の「飛鳥時代」から、すでに300年が経過したあとのこと。
つまり、真名野長者一族が完全に滅ぼされた後に、柞原八幡がここに創建されているのです。
天長4年(827年)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836年)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営した。
さっそく現地を訪問して調査してみると下記の事実が分かりました。
◆現在の神殿は正確に北を向いて建てられています。
北方向には宇佐神宮があるため、
「なるほど、宇佐神宮に鎮座する八幡神を拝むための神殿だったんだ」と納得して帰りました。
◆ところが、帰って地図を見てみると、なんと参道が本殿に対してほんの少し西側に傾いていることが分かりました。(下図参照)
つまり、現在の神殿は宇佐神宮の方角を向いていないのです。
新しい参道(勅使道と呼ばれる)は、Y字型に分岐して、現在の本殿に不自然につなげられています。
つまり、この旧参道をまっすぐ伸ばした先にあるのが宇佐神宮。
すると、もともと古い神殿は、現在の社務所のあるあたりに建てられていたんだろうなと推測できます。
◆さらに、第2駐車場のすぐ裏手には「高崎山登山口」の看板がありました。
この看板に、私の霊感がビリビリと反応しました。
「そうか、ここはもともと高崎山を拝むための下宮だったんだ。その山頂に祀られていたのは、もちろん猿を使いにしていた山王様に違いない」と・・・・。
もちろん根拠の無いことなので、この部分はあくまでも推測ですが、私が言いたいのは「何者かが真名野長者と百合若大臣を抹消しようとした痕跡がある」ということです。
百合若説教のあらすじ
それでは、いよいよ百合若伝説の内容に入ってゆきましょう。
この伝説には、多くの異説があるので、ここでは山口麻太郎氏の『百合若説教(一誠社)』の記述を参照します。
とても長くて複雑なお話なので、今回の私の主張に関係のある部分だけを抽出します。
◆真名野長者は左大臣、朝日長者は右大臣であり、ともに天皇家を支えていました。
◆真名野長者は身分は低いが大金持ち、朝日長者はプライドは高いが貧乏で、二人はライバルとして、お互いに対抗意識を燃やしていました。
◆朝日長者には12人の子供がありましたが、真名野長者には子供が無かったので「そんなに財産を残しても相続する子が無ければ意味がない」とからかわれます。
◆これをくやしがった真名野長者は、観音様にお願いして、百合若という子供を授かります。
◆百合若は武道の達人だったので、あるとき天皇から「攻め寄せてきた蒙古人(むくり)を退治せよ」と命ぜられます。
◆そのため、壱岐・対馬まで出兵して大活躍しますが、これをねたんだ別府太郎・次郎の兄弟から無人島「玄海が島」に置き去りにさてしまいます。
◆これを心配した奥方の輝日御前は、鷹の「緑丸」を飛ばして手紙を届け、別府兄弟が反乱を起こしたことを報告します。
※この鷹が玄海島で「小鷹大明神」として祀らていれる。
◆輝日御前は大変な美人だったので、別府太郎が言い寄りますが、門脇の娘が身代わりになって池に身を沈め、死んだことにして隠れます。
※この池が「菰ケ池」であり大分市上野丘東に石塔が残されている。また門脇の娘は、金池町の「万寿寺」で供養されている。
◆漁師の船に助けられて帰国した百合若大臣は、みごと別府兄弟を射殺して成敗します。
※その兄弟の墓が別府市内の実相寺の東山麓にある。
http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bs01102.pdf?file_id=2288
◆百合若大臣は、その功績により天皇より征夷大将軍(または大将軍)に任命されますが、豊後の国を離れて都に移住します。
※このとき、壱岐・対馬が百合若大臣の領地となったため、この場所に『百合若説教』が伝わったことが分かる。
◆百合若大臣は、88歳で亡くなり、豊後の国の柞原八幡大明神となります。
その妻・輝日御前は、肥前の国の川上淀姫大明神(あるいは宇佐八幡神の摂社)となります。
※大分市上野東には百合若大臣の墓とされる「大臣塚古墳」がある。
http://mishirandecoco.ciao.jp/pro3.html
この伝説がベースとなって、『幸若舞』という歌舞伎の原型のような伝統芸能も残されています。
なお、『幸若舞』は重要無形民俗文化財として、現在でも福岡県みやま市の大江天満神社に伝わっており、下記にその全文が掲載されています。
http://takeuchiteruo.seesaa.net/article/462762524.html
また、近松門左衛門の浄瑠璃にも『百合若大臣野守鏡』がありますが、こちらの主人公は「筑紫の国の旗頭、太宰の太郎和田丸(のちに百合若と改名)」に書き換えられています。
私の仮説
さてさて、もうお分かりでしょう。
大分県に残された『真名野長者伝説』『朝日長者伝説』『百合若大臣伝説』。
この3つをすべて繋ぎ合わせると、古代史の真相が見えてくるのです。
そもそも、百合若大臣という人物が実在して、しかも大将軍になったのだとしたら、なぜ正史である『古事記』『日本書紀』は、この人物を無視したのでしょうか?
実は、無視しては居なかったのです。
別の名前に書きなおしてしまったのです。
そう、かつては天皇家と並ぶ権力を誇りながらも、忽然と歴史から姿を消したあの一族。
それが、『蘇我氏』だったのです。
ここから導き出した私の結論は、下記のとおりです。
◆真名野長者とは、蘇我稲目のことである。
◆百合若大臣とは、蘇我馬子のことである。
◆朝日大臣とは、物部守屋のことである。
◆真名野長者の長女・般若姫(百合若の姉妹)は、用明天皇に嫁いで、生まれた子供が聖徳太子である。
これを証明するには、正史とされる『古事記』『日本書紀』と、3つの伝説を対比して、類似点を見つけ出せばよい訳です。
私は、この作業をすでに行っていますので、詳細は下記からどうぞ。
古代史の再構築
私のこの仮説は、無謀な推論ではありません。
そこには数々の証拠があるのです。
(1)真名野長者(西暦508年生)と、蘇我稲目(西暦506年生)は、ほぼ同時代の人物である。
(2)真名野長者の奥方は、都から嫁いできた玉津姫だが、久我大臣の娘と伝わっている【伝説】
⇒ここでも「一字変換攻撃」により真実がもみ消させた痕跡がある。真名野長者は孤児だったので、蘇我大臣の入り婿となって、蘇我稲目と名乗ってもおかしくはない。
(3)真名野長者は、仏教導入に積極的だったので、物部尾輿がこれに怒り、豊後を侵攻したと伝わる(549年)【伝説】
⇒正史では、物部尾輿が攻めたのは、蘇我稲目の屋敷である。もし、真名野長者と蘇我稲目が同一人物ではないとすると、物部尾輿は、同時に2人の人物と戦っていたことになるが、何のために莫大な犠牲が払われたのか?
(4)尾輿の子供の物部守屋も、577年に臼杵の満月寺を攻撃したと伝わっている【伝説】
⇒物部氏が九重高原を本拠地とした朝日長者のことであると仮定すると、何度も豊後に侵攻するのは容易である。つまりご近所さん同士の宗教をめぐるいさかいだった。
(5)物部氏は早くから都に進出していたので、「東の物部氏、西の蘇我氏」と並び称されたと、百合若伝説は伝えている。
⇒だから、用明天皇が大分に潜んでいることを欽明天皇に報告したのも朝日長者である【伝説】
⇒一方、蘇我氏が都に進出したのは、息子の百合若大臣こと蘇我馬子が、大将軍になってからである。
(6)用明天皇は、即位すると蘇我馬子を大臣(おおおみ)とし、物部守屋を大連(おおむらじ)とした【正史】
⇒つまり、百合若が大臣となり、朝日長者が大連となった。
⇒ちなみに、用明天皇と百合若大臣は義兄弟であるので【伝説】、天皇は彼に絶大な信用を置いた。
まだまだ証拠は数えきれないほどありますが、このくらいにしておきます。
皆さんのほうが大混乱してきたでしょうから。
無理もありません。
正史の作者たちは、蘇我一族の功績を無きものにしようと、必死に、しかも功名に歴史をねつ造しているのです。
それは、なぜなのでしょうか?
その答えはかんたんです。
この頃は、まだ「ヤマト王政」と「九州王朝」の2つの勢力が併存しており、お互いに血なまぐさい抗争を繰り返していたからです。
のちに、「大化の改新」により主導権を握ったヤマト王政側からみれば、九州王朝は「2度と復活して欲しくないやっかいもの」なのでした。
それを年表にしたものを、下記に添付します。
この説明を始めると、話が終わらなくなりますので、また別の機会に改めます。
結びにかえて
私は、単なる古代史好きの素人であるため、ここまでしか解明できませんでした。
解明というよりは、推測と呼んだほうが近いかもしれません。
あとは、後輩諸君の研究成果に期待したいと思います。
もしもこのことが証明されれば、日本の古代史が大きく覆されるからです。
最後に聖徳太子の辞世の句を記しておきます。
財物は滅び易くして永く保つべからず。
ただ三宝の法は絶えずして永く伝うべし。
現在でも大分県に伝わる『百合若伝説』
コメントをお書きください