この記事は、前回の『真名野長者の後継ぎが百合若大臣だった!』の続きです。
まだ読んでいない方は、こちらからどうぞ。
さてさて、百合若大臣の偉業を後世に伝える『百合若説教』という記述ですが、これを世間に広めた民俗学者・山口麻太郎氏は、それが実話であった可能性をみずから検証しています。
今回は、同氏の行った検証作業に加え、私のささやかな研究もプラスして、百合若大臣の実像に迫ります。
もしこれが実話であったとしたならば、日本史は大きく書き換えられる可能性があるからです。
柞原神社に関する記述
まず、百合若大臣と柞原神社(大分県一の宮)との関係について『百合若説教』にはどう書かれていたのでしょうか?
原文を引用しておきます。
御年移らせ給ひては、八十八歳と申(す)八月十五日、申の一刻と申(す)に、臨終しづかに御ほふぎょ(崩御)召(さ)れて(候か)
神と現れ給ふには、九州豊後の国、十一郡の国主の御神
由生原(ゆすはら)八幡大神宮と現はれ給ふそ
つまり、百合若大臣が88歳で亡くなった後には、柞原八幡として至言したと書かれています。
ただし、以前にも書きましたが、百合若大臣と柞原八幡をつなぐ痕跡は、もうどこにも残っていないようです。
百合若大臣の系図
百合若大臣が活躍した時期について、『真名野長者伝説』から導き出した私の結論は7世紀ごろ。
ちょうど聖徳太子が活躍していた時代と重なります。
無理もありません、聖徳太子と百合若大臣は、義理の兄弟、または伯父と甥の関係になるからです。
だから、この人物こそ蘇我馬子であると、私は主張しているのです。
大和王朝に対立して、九州王朝が擁立した用明天皇、その天皇の大臣(おおおみ)として活躍した蘇我馬子は、幼少期を百合金政(韓国語表記で尹利金政)と名乗って大分で生まれ育った可能性が浮上してきました。
そして、その父親または祖父が真名野長者こと金満、日本書紀が伝える蘇我稲目のことだったのです。
以上を家系図にすると、下記の画像のとおりとなります。
ただし、百合若大臣が真名野長者の後継ぎだったことは事実ですが、それが息子だったのか?孫だったのか?さらに実子だったのか?養子だったのか?については、証拠不十分で検証できていません。
山口麻太郎氏の行った検証作業
果たして『百合若伝説』が伝える内容は真実だったのでしょうか?
それとも単なるフィクション?
山口氏の行った検証作業は、同氏の著作である『百合若説教(昭和9年発行、一誠社)』の巻末に書かれています。
ここに要約して引用しますが、下記のとおり多くの証拠が見つかっています。
(1)昭和6年12月に柞原八幡を訪れて現地を調査
このとき案内したのが、地元の市場直次郎氏と書かれているが、この人物については不詳。
【証拠1】近所の古老が、「ここには百合若様という神様が居られる」と証言している。
【証拠2】柞原八幡の拝殿の左右の長押のうえに神棚があり、どちらかが百合若様で、他方は武内宿禰である。
(2)大分県に残る『豊府古蹟研究 第二冊』に、「百合若大臣塚」に関する記述がある。
<原文>http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096509
【証拠3】万寿寺の記録に下記の一文がある。(筆者意訳)
寛永12年(1616)に、百合若塚の松が大風で倒れ、ときの府内城主・日根野吉明の命令により3本の松を植えさせたところ、偶然にも石棺が出てきた。
朱ツメ?のなかから、鉄製の刀と弓が出てきたので、由原山(現・柞原八幡)に奉納した。このとき、領主の命令で経緯を記した石碑が建てられ、万寿寺で供養が行われた。
【証拠4】その場所とは、大分市元町の当時・大分高等寄宿舎があった東の柵外の小丘であるが、万寿寺はその後、金池町に移転した。
【証拠5】その他、天野信景の随筆『鹽尻』や、『雉城雑誌』にも同様の記述がある。
【証拠6】元町の地元住民には「百合若大臣さま」と称して、この塚を参詣する者が多い。
(3)現在の万寿寺(金池町に移転後)の境内に残る「百合若塚」は、明治39年頃に新築されたもので、その計画書も残されている。
【証拠7】その参詣者たちは、「この神様はおこりという病気によく利く」と証言しているが、これは壱岐のイチジョウが伝える伝承に類似している。
さらに、これは私自身が地元の方から直接聞いた話しですが、もともと「万寿寺」は、現在の「HIヒロセ元町店」の店舗がある北側あたりに広大な敷地を構えていました。
とても大きなお寺だったのですが、今は金池町に移転してひっそりと残されています。
おそらくここが、百合若大臣の菩提寺だったのでしょう。
そして、その脇には大きな池がありこれが「菰が池」と呼ばれていました。
現在の「帆秋精神病院」が移転した場所にあたります。
そこに輝日御前(百合若大臣の奥方)の身代わりとして身を沈めたのが門脇の娘であり、いまでも万寿寺で供養が行われています。
さらに、万寿寺跡の南西側(現在の大分芸術短期大学の南東側)にある高台、地名で言えば上野東となりますが、ここに百合若大臣が祀られた古墳【百合若塚】があるのです。
だからこのあたり一帯は、百合若大臣の古い国府があった場所という意味で、『古国府(ふるごう)』と呼ばれています。
百合若大臣の本拠地
なぜ長崎県の壱岐の島と大分県に、全く同じ百合若大臣の伝承が伝わっているのでしょうか?
その理由は『百合若説教』の記述のなかに残されています。
「壱岐と対馬は、百合若大臣の領地であった」と・・・・・
ここで混乱してきた方も多いかと思いますので、真名野長者と百合若大臣の親子が活躍の舞台とした場所を、時系列順にまとめておきます。
◆真名野長者誕生の地----大分県豊後大野市三重町玉田の里
いまでもJR豊肥線の踏切の脇に、ひっそりと「真名野長者生誕の地」という看板が立っています。
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◆真名野長者がお金持ちになって建てたお屋敷----大分県豊後大野市三重町内田
これが現在の「有智山 蓮城寺」のある場所です。
伝説では「(長者の)大内裏があったのでここを内山と呼ぶ」と伝えています。
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◆娘の般若姫が用明天皇と結婚することになったので、新たに建てられた新居
これが、現在の「深田の石仏」がある臼杵の満月寺なのです。
おそらく、用明天皇はここで即位し、態勢を建て直してから大和に返り咲いたのではないか?と私は推測しています。
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◆百合若大臣のお屋敷
これが、現在の大分市元町から上野東周辺だったのです。
だから、亡くなった後もここに「百合若塚」という古墳が造られました。
つまり、息子の代になってからは、ほとんど大分市周辺を拠点としていたということです。
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◆壱岐・対馬出兵
百合若大臣は、壱岐・対馬に攻めてきた外国人を追い払うため出兵します。
みごとにその大役を果たしたので、天皇(おそらく欽明天皇または用明天皇)から、壱岐・対馬を領土として賜ります。
つまり豊後国の飛び地がここにあったということであり、だからここに『百合若説教』が伝えられたのです。
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◆百合若大臣の奈良拠点
用明天皇から大将軍に任命された百合若大臣は(オオオミに任命された蘇我馬子は)、九州を離れ奈良に移住します。それが現在の明日香村なのです。
つまり、この頃から真名野長者一族の活動拠点は奈良に移っていったものと考えられます。
結び
さてさて、なぜこれだけ多くの痕跡を残しながらも、百合若大臣という人物は歴史の闇に葬られたのでしょうか?
もしも、「百合若大臣こそ蘇我馬子である」という私の仮説が正しいとするならば、その答えは明白でしょう。
7世紀に天皇の地位さえも脅かすほどの栄華を極めた蘇我氏、その出身地である大分県は大和朝廷側にとっては、「二度と復活して欲しくないやっかいな土地」だったに違いありません。
そして、大化の改新により完全に政権を握った大和王朝側の勢力は、『古事記』『日本書紀』の編纂に着手して、九州王朝側の勢力を完全に封印してしまったのではないでしょうか。
真相は闇の中にあるとはいえ、地元の伝承は間違いなく真実を伝えています。
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