藤原広嗣が祀られた神社

大分県豊後大野市清川町六種「馬背畑御霊社」

ある日、あてもなく祖母山周辺をドライブしていると、小高い山の上に立派な神社があるのを発見しました。

そのとき撮ったのがこの写真。杉の木立の下に小さな鳥居が見えませんか?

 

フラっと立ち寄って、そのご祀神を見た私は驚愕慄然!

なんとそこには、藤原広嗣が祀られていたのです。

その名も「馬背畑(ませはた)御霊社」

 

なんで、こんな山中に藤原広嗣が?

しかも一見、縁もゆかりも無い大分県豊後大野市に?

かすかな記憶をたぐってみましたが、私の脳裏には「反乱を起こして鎮圧された人」という情報しか出て来ません。

さっそく帰ってから、いろいろと調べてみることにしました。

 

藤原広嗣とは?

まず、藤原広嗣なる人物についてザッとおさらいです。

 

◆藤原広嗣(誕生不明~740年没)は、藤原式家出身のプリンスでした。

◆聖武天皇が東大寺を建立した天平時代に、めきめきと頭角を顕し、中央政界で出世街道を登り詰めます。

◆ところが、藤原氏の失脚をもくろむ勢力(橘諸兄ら?)により、あるスキャンダル(親族への誹謗とされる)を理由に、大宰府に左遷されます。つまりハメられたということです。

◆怒り心頭に達した藤原広嗣は、九州で反乱を起こします。

実際に戦闘の舞台となったのは、現在の福岡県東部(豊前地方)でしたが、九州一円の豪族たちが彼のもとに集結します。隼人もこれに加担しました。

◆彼の主張は、「吉備真備と僧正・玄昉を失脚させよ!」というもので、「これはクーデターではない」と弁明しています。

◆ところがこの主張は聞き入れられず、五島列島まで逃げたところで捕まり斬首されます。

 

当時の日本国の勢力図

さてさて、一体何が起こっていたのでしょうか?

このころの中央政界では、下記の2つの勢力が真っ向から対立していました。

 

<天武天皇派 親中国系・近代改革推進派>

藤原広嗣が糾弾した吉備真備とは、そう、中国の漢字をもとにひらがなを発明して、日本全国に普及させようとしたあの人物でした。

その祖先は、秦氏の一族である弓月の君で、岡山県真備町周辺を本拠地としていました。

だから吉備真備と呼ばれていたのですね。

 

この頃、まだ九州では豊国文字(カタカナの原型)が使われており、奈良では万葉仮名(音韻を漢字で表記したもの)が使われるという、まさにバラバラの状態でした。

だから、当時は先進国であった中国をお手本に、日本国の近代化を進めようというのが、彼らの主張でした。

 

また、玄昉とはいわゆる「祈祷師であり妖術使い」だったようで、吉備真備とともに、橘諸兄政権を裏から支えた立役者だったのです。

つまり、藤原広嗣が企図していたのはライバル・橘諸兄一派の弱体化であったことが分かります。

この勢力が擁立したのが聖武天皇(第45代、天武天皇のひ孫)です。

また数十年のちにはこの勢力から菅原道真という逸材も出てきます。

 

<天智天皇派 九州王朝系・仏教推進派> 

大分市にあった五重塔(豊後国分寺跡)
大分市にあった五重塔(豊後国分寺跡)

この勢力を背後から支えていたのは百済国でした。

仏教つながりで、お互いに仲の良かった九州王朝と百済国は、聖武天皇を説得して仏教を日本の国教とさせることに成功します。

だから日本全国に国分寺が建てられ、奈良には東大寺と大仏が置かれたのです。

ちなみに、この東大寺と東西ツインタワーの関係で大分県に置かれたのが豊後国分寺で、そこには東大寺五重塔とほぼ同じ規模・構造の五重塔があったのです。(写真参照)

 

この勢力の中心人物だった藤原広嗣が擁立して、再び天智天皇派から即位したのが光仁天皇(第49代、天智天皇の孫)でした。

⇒ちなみに、この光仁天皇は、私の住んでいる村に勅命で神社を建立させます。それが「上田原御手洗神社」なのですが、詳しく知りたい方はこちらから。

 

つまり、急激な中国化を快く思わなかった人たちの集まりだったということであり、その本拠地が大分県だったのです。

 

 

以上を分かりやすくまとめると、「大化の改新」から数百年たったのちも、まだ天武天皇派と天智天皇派の対立が続いていたということであり、日本国は真っ二つの勢力に分かれて血なまぐさい抗争が繰り返されていました。

 


藤原広嗣と大分県との関係

さてさて、話はもとに戻りますが、藤原広嗣を祀る馬背畑御霊社。

彼と大分県にも深い深いつながりがあったはずです。

 

それを解くキーワードが『鎮西探題』なのです。

最初に「藤原広嗣はスキャンダルを理由に大宰府に左遷された」と書きました。

でも、その頃の九州には「大宰府」とは別に、「鎮西探題」という行政機関があったのです。

それがあった場所が大分県大分市、現在の府内城のあたりでした。

ところが、通説ではこれが「大宰府」と混同されているようなのです。

 

なぜそれが分かったのかというと、下記の2人の人物のお話をせねばなりません。

 

◆まず源為朝。

彼は保元の乱(1156年)で活躍しましたが、このとき「鎮西八郎為朝」と呼ばれています。

当時の鎮西探題は大分県にあったことが、地元伝承や神社縁起などに残されています。

例えば私の通った大分雄城台高校、そのグランドの隅には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)から放った矢が貫いた石がご神体として祀られていました。

つまり、正史には「為朝は九州に追放された」としか書かれていませんが、ここ大分県には為朝の痕跡が多く残されているのです。

 

◆続いて大友能直。

豊後大友氏・初代の大友能直も「鎮西奉行職」として大分に赴任しています。

『能直公御一代記』には、下記の記述があります。

 

建久7年(1196年)1月11日、能直は「豊後国と豊前国の守護、兼、鎮西奉行」に任命され、同3月10日に約1800人のお伴を連れて、別府湾の浜脇に船で到着し、大分郡府内に館を構えた。

⇒詳しくはこちら

つまり、鎮西奉行としての赴任先が現在の大分市府内町あたりだったということです。

 

ところが、通説によると「鎮西探題」のあった場所は、福岡市の愛宕山であるとか、博多の祇園町であるとか、はなはだ曖昧になっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%8E%A2%E9%A1%8C

そもそも「大宰府」のすぐ近くに、わざわざ「鎮西探題」なる別の行政機関を置く必要があったのかどうか、すこぶる疑問です。

 

これは私の推測ですが、「大宰府は天武天皇一派の出先機関」であり、「鎮西探題は天智天皇一派の出先機関」であると考えればスッキりするのではないでしょうか?

 

以上の推論から導き出した、私の結論はこうです。

「藤原広嗣はスキャンダルを理由に鎮西探題(のあった大分県)に左遷された」

 

もちろん、藤原広嗣が生きた8世紀と、鎮西探題が正式に歴史の表舞台に登場する12世紀のあいだには、約400年間の隔たりがありますが、もともとここ大分県には、何か重要な軍事拠点があったのではないでしょうか?

 

そして、大分県に左遷された藤原広嗣は、ここで最大の支援者と出会うことになります。

それが『豊後大神氏』なのでした。

『平家物語』からも明らかなように、この豊後大神氏とその子孫である緒方氏を味方に付けられるかどうかが、戦局を大きく左右したのです。

この緒方氏を敵に回して滅んだのが平家であり、緒方氏をうまく懐柔して味方に付けたのが源氏であったと説明すれば、分かりやすいでしょうか?

 

九州のど真ん中の深い山中に、そんな強力な武士集団が居たとしても不思議ではありません。

なぜならここは、弥生時代にはウガヤフキアエズ王朝の本拠地があった場所だからです。

そして、藤原広嗣の祀られた馬背畑御霊社がある場所こそ、この緒方一族のバックヤード(戦略的補給基地)だったのです。

 

以上を総合すると、豊後大神氏が支援した藤原広嗣、その親類縁者たちは緒方氏にかくまわれて馬背畑地区でひっそりと暮らしたのではないでしょうか?

だからその子孫たちが、藤原広嗣の偉業を偲んで建てた神社が「馬背畑御霊社」。

私は、そう結論付けました。

 

するとやっぱり、続々と証拠が出てきます。

なんと、藤原広嗣の母は「蘇我石川麻呂の女」と書かれているではないですか!

以前から私が主張しているとおり「真名野長者こそ蘇我稲目である」という説が正しいならば、藤原広嗣も真名野長者こと蘇我一族の血筋を引いていることになります。

 


祖母山の神々に招かれた歴史的有名人

そういえば、以前から気になっていたのですが、ここ大分県(特に南の豊後地方)には、中央政界で失脚または敗戦して、逃げ込んできた有名人物があまりにも多いのです。

 

それも、戦乱のうち続く世の中で、形勢不利になったとき、態勢を建て直すために「いったんここでエネルギー補給する」というパターンが多いのは、単なる偶然ではないようです。

あるいは、彼らのなかにはある共通の「信仰」のようなものがあったのでしょうか?

それとも彼らはウガヤフキアエズ王朝の末裔たちだったのでしょうか?

 

例えば、下記の人物・・・・

 

◆第31代・用明天皇 (飛鳥時代)

兄の敏達天皇との政争で関西を追われ、大分の地にやってきて、真名野長者の娘と結婚しました。生まれた子供が聖徳太子であると伝わっています。

⇒詳しくは、こちら

 

◆真名野長者の奥方・玉津姫 (飛鳥時代)

奈良の都から真名野長者のもとに嫁いできた玉津姫ですが、生まれたときから顔にみにくいアザがあり、三輪大明神にお伺いを立てると「豊後の国におまえのいいなづけが居る」と告げられて、大分県の三重町までやってきます。

 

◆第39代・光仁天皇(平安時代)

皇位継承争いが打ち続くなか、62歳でやっと天皇に即位した光仁天皇は、なぜかその翌年、豊後の国にやってきます。そこで夢のお告げにより建立させたのが、三重町の「上田原御手洗神社」なのですが、その理由は一切伝わっていません。

⇒詳しくは、こちら

 

◆9人の女官(皇女)たち (平安時代)

三重町の内山で集団自殺して、「宇知多神社」に祀られます。その理由は詳しく伝わっていませんが、この神社には菊花のご紋章を掲げることが許されています。

⇒詳しくは、こちら

 

源為朝(平安時代)

上記のとおり、大分県で「鎮西八郎為朝」として多くの伝説を残しています。

 

平清盛とその一族(源平時代)

福原を追われた平家一門は、宇佐神宮を目指して落ち延びてきますが、緒方三郎惟栄の妨害に会い、大宰府に行き先を変更するも、ここも攻められて壇ノ浦で滅亡します。

⇒『平家物語』より

 

源義経(源平時代)

兄の源頼朝により迫害された義経は、西国九州に緒方三郎惟栄を頼って亡命しようとしますが、何らかの理由により阻止され、奥州平泉に落ち先を変更します。

この義経を迎えるために建てられたのが、竹田市の「岡城」であると伝わっています。

 

大友能直(鎌倉時代)

実の父である源頼朝から豊後国の国司を命じられてやってきますが、その後400年間にわたり代々その子孫がこの地で繁栄します。ちなみに末代がキリシタン大名とされる第21代当主・大友宗麟です。

もともと相模国出身の大友氏は、最初は緒方一族と対立して「神角寺山合戦」を起こしていますが、その後和睦が整いました。

なお、初代の能直が地元の言い伝えに触発されて書いた神話が『ウエツフミ』です。

⇒詳しくは、こちら

 

足利尊氏(室町時代)

摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫した足利尊氏は、大分県まで落ち延びて豊後大野市の「矢形神社」で戦勝祈願をします。

⇒詳しくは、こちら

 

一条兼定 (安土桃山時代)

土佐国の国司でしたが、長宗我部氏により領土を奪われ、大友宗麟を頼って臼杵にやってきます。その後、態勢を建て直して奪還を図りますが失敗して滅亡。

 

豊臣秀吉の子孫の木下氏 (安土桃山時代)

豊臣秀吉の孫の「国松」は、実は生き延びて豊後国の初代・日出(ひじ)藩主・木下延俊の四男としてかくまわれていたという伝説があります。その真偽は定かではありませんが、そもそも木下延俊自身が、秀吉の正室おね(北政所)の甥にあたり、小早川秀秋(羽柴秀俊)の兄でもあります。つまり日出藩は豊臣家の九州拠点として発足しているのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BB%B6%E4%BF%8A

 

松平忠直 (江戸時代)

徳川家康の孫で、真田幸村を撃つなどの手柄を上げましたが、数々の不祥事を起こし、豊後国で隠居を命じられ、現在の滝尾のあたりで亡くなりました。のちに菊池寛が『忠直卿行状記』を書いています。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html

 

西郷隆盛(明治時代)

正確には本人は大分県には足を踏み入れていませんが、西南戦争の末期、大分・宮崎の県境付近の「可愛岳」を目指して落ち延びて来ます。ここで降伏を決意するのですが、なぜかその直後、故郷・鹿児島の城山に帰って自害します。

また、部下の野村忍介隊は、阿蘇から竹田に入り、三重町~佐伯へと迷走したあと重岡で止めを刺されます。

⇒詳しくは、こちら

 

どうですか?なぜこれだけ多くの有名人が、大分を目指して落ち延びて来たのでしょうか?

多分、日本国発祥の秘密がここにあったということであり、豊かな農産物、豊富な鉱物資源、無敵の軍事力と全ての重要な要素が、ここに集中していたということではないでしょうか?

いうなれば、ここは藤原広嗣にとっても“エネルギー補給基地”だったのかもしれません。

そして、彼も祖母山の神々に招かれたひとりだった・・・・?


結び

最後に、『万葉集』には「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子に贈る歌一首」と題された和歌が残されています。

 

<藤原朝臣広嗣、桜の花を娘子に贈る歌一首>

この花の一枝のうちに百種の言そ隠れるおほろかにすな(万8-1456)

<娘子の和ふる歌一首>

この花の一枝のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや(万8-1457)

 

通釈では、これは恋愛の歌だとされていますが、私にはどうしてもそうとは思えないのです。

そこには色気のみじんも感じられません。

私流の解釈は、下記のとおりとなります。

 

<藤原広嗣が、桜の花とともに我が娘に宛てた辞世の句>

この花の一枝のうちには、伝えたくても伝えられなかった多くの言葉が込められているので、(娘よ)軽々しく私の言動を判断するではないぞ

<娘が答えた返歌一首>

この花の一枝のうちに込められた、多くの言葉を支えきれずに、(お父さん)あなたはとうとう折れてしまったのですね