ストーンヘンジは縄文人が造った?

先日、NHKで「奇跡の巨石文明!ストーンヘンジ七不思議」という番組が放映されました。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92803/2803188/index.html

この番組を見ているうちに、「ストーンヘンジを造ったのは縄文人ではないか?」と考えるようになりました。

決定的な証拠はありませんが、宗教系の人たちも暗示しているとおり、“まんざらでもない仮説”としてここにご紹介しておきます。

 


ストーンヘンジを造った古代ブリトン人とは?

この番組では、まずストーンヘンジが建設された時期を、紀元前2500年頃、今から約4500年前と推定しています。

それは周辺に埋葬されていた人骨からの年代測定で判明しました。

西洋ではまだ新石器時代でしたが、日本では縄文時代の中期にあたります。

その頃のブリテン島に住んでいたのは、「ブリトン人」という人たちでした。

【画像出典】https://www.japanjournals.com/feature/holiday/4981-stonehenge.html

 

このブリトン人たちの特徴をひとことで要約すると、

 

◆ブリトン人とは、岩石加工の達人であり、ストーンヘンジにはエンタシス構造(パルテノンや法隆寺にも採用されている)や、岩石同士のほぞ継ぎなど、当時の超ハイテク技術が駆使されている。

 

◆彼らは黒曜石を掘って刃物などに加工していた。

⇒縄文人が黒曜石を珍重していたことはご存知のとおり。

 

◆彼らは農耕民族であり、小麦を石臼で挽いた痕跡などが発見されている。

⇒栽培していたのか?単に採取していたのか?については言及されていない。

 

◆住居跡の発掘から、彼らには階級社会は存在せず、平等のフラットな社会構造だった。

⇒つまり全ての住居がほぼ同じ規模、同じ設備であり、そこに貧富の差は確認されなかった。

 

◆彼らの造ったストーンヘンジは、巨大なお墓であり、同時に“冬至の日の太陽を崇拝する施設”だったと考えられる。

 

このストーンヘンジを造ったブリトン人たちのDNA解析も進んでいます。

ちなみに、彼らの遺骨から採取されたDNAで復元された女性像が、添付の画像なのです。

 

その顔を見ていると、“青い目と白い肌に金髪のイギリス人”というイメージにはほど遠く、褐色の肌に黒い髪を持つ、どちらかというとアジア系の農民を連想してしまいます。

もしかしたらこの女性こそが、縄文人だったのかもしれません。

(これは番組内容とは関係なく、National Geograficが掲載していたもの)

【出典】https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/013000070/

 

ちなみに、こんなサイトもあります。

【参考】https://maash.jp/archives/31186

 

イギリスの先住民が有色人種であったという事実は、アングロサクソンにとってはよほどショッキングな事件だったのでしょうか?

このことは長い間公表されてこなかったのです。

 


ある日突然居なくなったブリトン人たち

ところが、ここに歓迎されざる侵略者がやってきます。

彼らは「ビーカー人」と呼ばれる好戦的な狩猟民族で、富の集中と王様の存在を前提とした異教徒だったようです。

 

ちなみに、ビーカー人の名前は、彼らが愛用していたビーカー型の土器から来ていますが、どういう訳か、これが弥生土器とそっくりなのです。

【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%98%E7%8A%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%96%87%E5%8C%96

 

金属加工(主に青銅器)を得意としていたビーカー人たちが、その殺傷能力の絶大な金属武器により、農耕民族であるブリトン人を滅ぼしてゆく様は、まるで鉄器を携えた弥生人が、縄文人を駆逐してゆくシーンとピッタリ重なってくるのです。

ただし、両者のあいだには約1000年の時間的なギャップがありますが・・・・

 

ちなみに、このビーカー人をDNAから復元した写真がこちら。

ブリトン人とは明らかに違いますよねえ。

 

このビーカー人がやってきたことで、紀元前2600年以降は、ブリテン島から古代ブリトン人が居なくなってしまいます。

番組では、ビーカー人たちが持ち込んだウイルスにより、疫病が蔓延してブリトン人が滅んだのではないかと説明していましたが、この部分もまた、崇神天皇がやってきたことで疫病が蔓延して、人口が半分になってしまった弥生時代の日本と重なってくるのです。

 

このビーカー人のあとからやってきたのがケルト人であり、さらにローマ人へと続きます。

つまり、ブリテン島ではその住人が何度も入れ替わっているということであり、古代の人たちは頻繁に移住して住所を変えていたということです。

 

そもそも人類が一カ所に定住するようになったのは、農業が発達してから以降のことです。

日本でいえば、弥生時代になってから。

なぜなら先祖伝来の田畑を担いで引っ越すことは、物理的に不可能だったからです。

 


日本国内にもあるぞ、ブリトン人の痕跡

もしも、ブリテン島を追われた古代ブリトン人が、日本に里帰りしたのだとしたら?日本国内にもその痕跡が残っているはずです。

 

まず、ストーンヘンジとは一基だけではなく、イギリス全土に約1000基ほど確認されているのですが、それらに共通する特徴は、下記の3点に集約できます。

 

(1) 彼らの「祭儀施設」は、丸く環状に石を敷き詰めた環状列石(ストーンサークル)である。

日本にも同じものがありませんか?

有名なのは秋田県の「大湯環状列石」ですが、大分県の宇佐にある米神山の「佐田京石」や、阿蘇の外輪山にある「押戸の石」など、数々のストーンサークルが発見されています。

【大湯環状列石】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B9%AF%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3

【佐田京石】

https://blog.goo.ne.jp/nimojero/e/8e99956300d8f7aec8625bd5674eb0b1

【押戸の石】

http://www.oshitoishi.com/index.html

(2) 彼らの「お墓」は、石の柱にテーブルのようなものを乗せた“支石墓(ドルメン)”である。

調べてみるとこの“支石墓(ドルメン)”は、なぜか縄文時代晩期の長崎県に集中しているらしいのです。

つまりここが里帰りブリトン人たちの帰港地だった?

【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E7%9F%B3%E5%A2%93

 

そういえば、『ウエツフミ』は長崎に関しては驚くほどの沈黙を保っており、ここだけ国名さえ無かったのですが、もしかしたら弥生時代にはここは異民族の居住地だったのかもしれません。

(写真左はイギリスの支石墓、写真右は福岡県糸島半島の長野宮ノ前支石墓)

⇒ちなみに、こちらのサイトによると、支石墓は北九州全体に多く発見されているが、なぜか写真がほとんど公表されていない。

【参考】http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/sito.html

 

(3) 彼らの「住居」は、丸く積み上げた石壁の上に、わらぶき屋根をかぶせたものである。

写真をご覧ください。石の壁か、土の壁かの違いはありますが、まるで竪穴式住居そのものではありませんか?

さらに(写真が見つからないのですが)、番組では海岸沿いの半地下式住居跡も紹介されていました。

つまり、ブリトン人の家と、縄文人の家に共通するのは、堅固な壁構造を中心とした「土足で踏み込める床に、直接炉を掘る」という生活様式であり、高床式住居を基本としていた弥生人の家(炉は屋外にあった)とは明らかに異なるということです。

ブリトン人はストーンヘンジを何に使ったのか?

番組では、彼らの造ったストーンヘンジは、冬至の日の太陽が沈む時間に、石の間のスリットから日光が差し込む構造になっており、イギリス全土から同族たちがここに集結して一大催事が行われていたと説明していました。

 

一方で、その周辺の環状列石の下からは人骨が発見されています。

これは一体、何を意味しているのでしょうか?

 

実際に紀元前2500年頃には、地球を氷河期が襲っていたことが分かっています。

徐々に寒冷化が進んで小麦などの作物が凶作となりはじめたこの頃、伝染病も蔓延して、飢えと寒さと病気で亡くなる人が相次いでいたのでしょう。

 

私の推測ですが、多分彼らは「これは太陽が弱っているせいだ!」と考えたのではないでしょうか?

 

ご存知のように太陽は、ちょうど1年周期で生と死を繰り返します。

秋になって徐々に弱り始めた太陽は、冬至の日に死期を迎え、翌日からまた新しい太陽が昇って、徐々にその勢力を盛り返し始めるのです。

これこそが、全人類に共通する「新年を祝う儀式」つまりお正月のルーツなのです。

 

ちなみに私の田舎でも、冬至の日の太陽を村人全員が集まって拝む「お日待ち」という神事が現在でも伝わっています。

 

彼らブリトン人にとって、冬至の日とは「太陽の復活祭」を意味していたのでしょう。

 

しかも太陽自身が病気となってしまったら、ここに大勢の人たちの魂を注ぎ込んで、太陽にエネルギーを送るしかありません。

もしかしたら、何人かの選ばれた人たちが生贄となり、霊界で太陽と同化して、太陽を元気づける役目についたのかもしれません。

 

そのために作られた巨大設備、それがストーンヘンジだったのです。

 


日本の神話とストーンヘンジとの関係

さてさて、私のこの仮説がまんざらでもないことは、日本の神話が証明してくれます。

 

特に、祖母山周辺に残された「お神楽」、そこには記紀にさえ書かれていなかった意外な事実が伝わっているのです。

 

大分県豊後大野市に伝わる「御嶽神楽」のなかに、第31番「地割(ぢわり)」という演目があります。

 

ここでは、ニニギの命が天孫降臨したとき、迎えに出た猿田彦とアメノウズメとの間で押し問答となるシーンがイキイキと再現されています。

 

【出典】http://www7a.biglobe.ne.jp/~etou/0504kagura.html

 このなかに、大変重要なセリフがあるのです!

 

◆猿田彦とは、縄文人が信仰していたフナトの神(またはクナトの神)のことである。

◆猿田彦は、まだ天地が開けず混沌としていたとき、船で世界中を渡り歩いて、橋などの構造物や士農工商などの社会秩序を造った。

◆その証拠に、東西南北4つの方向に「段の柱」を建ててきた。

⇒このことは、以前にも書いていますので、詳しくはこちらから。

 

そうです、ここにあるストーンヘンジこそ、東の方角に建てられた「段の柱」なのではないでしょうか?

 

もし私の推測が正しいならば、「段の柱」はどこかにあと3本あるはずです。

 

ブリテン島を追われた(あるいは放棄した)猿田彦の率いる縄文人の一団が、日本に里帰りして、長崎あたりに王国を築いたとしても不自然ではありません。

この一団は、明らかにニニギの命が率いてきた一団(弥生人)とは、天地創造に関する世界観が違っていました。

だからこそ最初は押し問答となったのです。

 

私のこの仮説を妨げている、たったひとつの一般常識があります。

それは、「紀元前2500年当時、世界中を航海する船を造れる技術がない」という固定概念です。

 

このことも、いずれ徐々に証明されてゆくでしょう。

人類の科学はまだ未発達であり、神の領域には及んでいないからです。

 

もしも、私のこの仮説が正しいとすると、日本にやってきたのは「失われたユダヤの支族」ではなく、「失われたブリトン人」であることになります。

 


その後、新たな事実を追加し、続編『ストーンヘンジは仏教徒が造った?』を発表しましたので、ぜひあわせてお読みください。こちらから。