水銀と海部氏と椎根津彦との深い関係
神武東征に際して、その水先案内人を務めたとされる椎根津彦(シイネツヒコ)ですが、その経歴については深く語られることはありませんでした。
つまり、出自不明の謎の人物であるということ。
ところが、大分市の丹生地区(大野川と丹生川に挟まれた高台)の周辺には、椎根津彦一族の痕跡が多く残されているのです。
特に、このあたりは「海部氏」の本拠地として有力視されており、水銀(辰砂、丹)の産地としても有名な土地でした。
海洋民族と水銀?
一見何の関係もなさそうなこの2つの要因が、実は「神武東征」と深く関わっていたとしたら?
さてさて、何からお話ししてゆきましょう?
椎根津彦の本拠地は大分市の丹生川沿岸
まず、「速吸門で釣りをしながら神武天皇を待っていた」とされる椎根津彦ですが、神武天皇は見ず知らずのこの人物に、水先案内という重要なお役目を託したのでしょうか?
「第一印象だけで決めました?」
そんなはずはありませんよねえ。
『ウエツフミ』でも、「自分は国のハセダキのカミである」と自己紹介しています。
ハセダキは、大きな村または町のことで、カミはそこの族長。
つまり、丹生地区一帯を取り仕切る大豪族であったということ。
一方、神武天皇のモデルとされるヒダカサヌは、『ウエツフミ』の記述によれば、祖母山周辺を本拠地としていた、いわば『山の民』であり、膨大な鉱物資源を所有していました。
特に、青銅器の製造に不可欠な銅と錫、さらに金や銀までも、この「神の山」の周辺からはザクザクと産出していたのです。
だから、天孫降臨の地としてこの山が選ばれたのだと『ウエツフミ』にはあります。
⇒祖母山の鉱物資源に関する過去の記事は、こちら。
つまり、鉱物資源を有する「山の民」と、水銀と航海術を有する「海の民」が、たまたまご近所同士で住んでいたということになります。
お互いに知らないはずはありませんよねえ。
多分この二人、一緒に全国を制覇する野望を共有していたのではないでしょうか?
その証拠として、奈良の地に東遷したヒダカサヌは、さっそく椎根津彦を「ヤマトの国のタケル」つまり現在流にいえば初代・奈良県知事に大抜擢します。
大分市丹生地区の地勢
まず『丹生』という地名ですが、これは水銀が取れる鉱物資源「丹(に)」から来ており、「丹という赤い砂が自然に生じる土地」だという意味です。
その赤い砂が河原で多く取れたので「丹生川」となったのでしょう。
さらに現在は、大在海岸という砂浜が北に隣接していますが、弥生時代にはここは陸が急に海に落ち込むような地形となっており(つまり海岸段丘)、その丘を切り裂くように走る「丹生川」の河口は、天然の良港だったに違いありません。
つまり、船を隠しやすい谷あいの峡谷であり、かなり大きな船がそのまま内陸まで入って来れたと考えられます。
だから海部族の母港としてここが選ばれたのです。
ここは、速吸門(現在の速吸の瀬戸)からも近く、瀬戸内海に出てゆくには最高のローケーションでした。
ここを母港として、海部族が全国各地の豪族と交易を行っていたとしても不思議ではありません。
だから神武天皇も「おまえは海路をよく知っているから」という理由で、椎根津彦を水先案内人に任命したのです。
この丹生川の河口にあった港が「丹生津(にうつ)」であり、その豪族が丹生津彦、その奥方が丹生津姫(丹生津姫神社のご祀神)、つまり丹生津彦は椎根津彦の別名であったと考えられますが、まだ決定的な証拠が見つかっていません。
⇒私の過去の記事はこちらから。
さらに、大野川東岸と佐賀関半島を結ぶ地域、つまり丹生川の両岸の丘陵地帯からは、多くの古墳が見つかっているのです。
なかでも、最大なのが『亀塚古墳』。
https://www.wikiwand.com/ja/%E4%BA%80%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3#
この古墳と椎根津彦との関連性はまだ見つかっていませんが、いずれにせよこのあたりにはとてつもなく大きな勢力・海部氏が存在していたということです。
さらに、お隣の「臼杵神社」にも海部氏の大きな古墳があり、このあたり一帯が海部氏の本拠地であったことは間違いないようです。
⇒臼杵神社には今上天皇も行幸されている。
だから以前は、大分県の臼杵から津久見あたりを「北海部郡」、佐伯から蒲江あたりを「南海部郡」と呼んでいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%83%A8%E9%83%A1
ちなみに、ナガスネ彦との戦いに勝利して、大分に凱旋帰国したヒダカサヌは、まず「速吸の丹生の水門(みなと=港)」に寄港します。
その「サナハラ」という場所に大宴会場が建てられ、「凱旋帰国パーティー」が開催されました。
以前、この記述を読んだときは意味が分からなかったのですが、このパーティーの主催者こそ椎根津彦だったのです。
なぜなら、椎根津彦のことを「サオカキのカミ」つまり「棹を漕く頭」と表現していたからです。
神武天皇は喜んで、この場所を「サガ」と命名したと書かれています。
つまり、これが現在の佐野地区(丹生川の東岸)のことです。
サガ⇒サガヌ(佐賀野)⇒サヌ⇒佐野
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=39&sno=16
⇒「神武天皇の凱旋帰国ルート」に関する記事は、こちら。
水銀は何に使われたのか?
その椎根津彦が本拠地としていた場所からは、水銀が大量に取れました。
水銀というものは大変不可思議な元素で、さまざまな用途で重要な役割を果たしています。
大きく分類すると下記の3つ。
(1)金属を精錬する際の触媒として
触媒という表現はふさわしくないかもしれませんが、砂金と朱砂を一緒に混ぜると、水銀が金を吸着してしまうので、これを熱すると水銀だけが蒸発して、あとに純金が残るという現象を利用して、弥生時代には金の精錬(金の純度を上げること)が行なわれていたのです。
つまり、純金を得るためには、水銀が不可欠であったということ。
【参考】https://www.ganas.or.jp/20131017vene/
(2)健康長寿の妙薬として
漢方の世界では、水銀は万病に効く妙薬です。
特記すべきは、【梅毒】に対する特効薬であったという事実。
ちなみに、奈良のナガスネ彦と戦っていたヒダカサヌも、苦戦して大病を患い、夢のお告げで「天の香具山の埴土」を探しにゆきますが、もしかしたらこのとき彼は梅毒に感染していたのかも???
しかも、その香具山から埴土を取って来たのが、こともあろうか椎根津彦だったのです。
⇒ちなみに、故・古田武彦先生は「天の香具山」は由布岳であると主張している。
なぜなら、万葉集には天の香具山から煙(湯煙?)やカモメが見えたという歌が残されているからである。これが「多元的国家論」の原点。
(3)呪術の際の魔法の材料として
中国から発した神仙思想をもった人たちを「方士」と呼びますが、なかでも有名なのがあの徐福です。その伝統を引き継いだのが弘法大師。
西洋では黒魔術と呼ばれ、錬金術師たちが水銀を使ってなにやら超常現象を起こしていたようなのですが、その後に起こった「魔女狩り」のせいで詳しくは伝わっていません。
どうやら、死者を蘇生させたり、死体を長持ちさせるためにも水銀が使われていたようなのです。
のちの世になって、弘法大師の一族が水銀を探して全国を遊行しています。
何のために水銀を探していたのかは不明ですが、多分宗教的な理由というよりは経済的な利益が優先だったのでしょう。
水銀が発見された場所には「笏」が突き立てられ、一般人は立ち入り禁止となります。
つまり弘法大師の聖域だから入るなという意味でしょう。
これがお遍路さんと霊場の由来。
そういえば、四国八十八カ所霊場とは、“水銀が産出する地域の封印が目的だった”とする説もあります。
愛媛県にある「別子銅山」は、住友一族が所有していましたが、のちに住友家は銅山から得られた莫大な資金を使って、四国中の山林を買い占めています。
つまり、銅山と水銀と木材の全てを独占することによって、住友家は大商人へと成長してゆくのです。
⇒これは、住友林業の方から直接聞いた話。
もう一度繰り返します。
鉱山を所有していた山の民である神武天皇、水銀を所有していた海の民である椎根津彦。
この二人が出会ったからこそ、全国制覇をも視野に入れられるほど強大な勢力が大分県に誕生したのです。
要するに「王権神授説」ではなく「王権金授説」であり、資金力の根源である鉱物資源は、農産物以上に重要な“王の証(あかし)”だったのかもしれません。
丹生地区から水銀が産出したという証拠『丹生神社』
以前、私は「丹生」という地名と『ウエツフミ』の記述だけから連想して、ここに水銀があったなどと主張していたのですが、お恥ずかしい限りです。
たまたま丹生地区を車で走行しているときに『丹生神社』という大きなお社を見つけてしまいました。
その時は急いでいたので通り過ぎたものの、ここが気になって気になって、先日初めて参拝してみました。
するとやっぱり出てきました!
なんと、丹生神社のご神体は水銀(を含む岩石)であるとされているのです。
一般に、丹生神社のご祀神は【ミズハノメ】という水の神様だと考えられています。
水と水銀?
似ているようで全くの別物であり、多くの人がいろいろな仮説を展開しています。
むしろ大混乱と呼んだほうがよろしいかと・・・・
それもそのはず、この水銀にいちはやく目を付けたのが秦氏と呼ばれる渡来人でした。
彼らは、この水銀資源を独占するため、その場所を神社とすることを思いつきました。
弘法大師の霊場と全く同じ理論ですよね。
さらに、そこに水銀があることを悟られないようにするため、当時は有名な神様であった【ミズハノメ】を担ぎ出してきたのです。
お稲荷様を自分たちの祖先である秦のイナリと入れ替えたり、宇佐八幡を自分たちの信仰する八幡神と入れ替えてしまった彼らですから、こんなことは朝メシ前。
そういえば、この丹生神社にも裏山に入って行く細い脇道があります。
こここそが、水銀採掘場の跡だったんでしょうね。
「ミズハノメの神域だから立ち入り禁止」ということで村人を排除して、せっせと水銀を掘っていたのではないでしょうか?
椎根津彦の正体?
もし、椎根津彦が水銀に関する深いノウハウと採掘権を独占していたとすると、椎根津彦こそ秦氏、あるいはフェニキア人だということになります。
何も知らない純朴なヒダカサヌは、ただ東征するための旗印として利用された?
つまり、これが本当の『同舟異夢』???
『亀塚古墳』に埋葬されている人物が、もともとの地元豪族であり日本人のDNAを持っていたのか?あとからやってきた渡来人であったのか?よく分かっていませんが、「前方後円墳がヤマト王政の関係者だけに許された特別な形式である」とする最新の学説によると、後者の可能性が高くなるんでしょうね。
私は、丹後半島を本拠地とした『丹後海部氏』や、博多湾を本拠地とした『安曇氏』と、この椎根津彦一族の『豊後海部氏』とは、全くの別物である可能性が高いと考えています。
つまり、前者は渡来系海洋民族、後者は土着系海洋民族で、その違いは「船の作り方」に象徴されるのではないでしょうか?
『亀塚古墳』から出土した舟形埴輪は、『ウエツフミ』の記述にもある「ニギハヤヒが伝授した百手船(ももてふね)」とそっくりです。
⇒私の過去記事は、こちら。
舳先にワニの口のような形をした取水口が取りつけられているのが特徴です。
こんなユニークな造形は、中東地区には見られないのではないでしょうか?
木工の達人であった日本人だからこそ出来た器用な造作は、木の生えない土地に育った民族には、到底真似できないものです。
いずれにせよ、ヒダカサヌと椎根津彦が描いた天下統一の野望は、のちにやってきた人たちによりみごとにかき消されてしまいました。
いまは『ウエツフミ』という古文書にその断片を残すのみとなってしまいましたが、いやいや大分県人恐るべし。
「千年の孤独」どころか「二千年の沈黙」を守り続けてきたのですから。
きっとどこかの民家から、また新たな証拠が突然発見される日がやって来るのでしょう!
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