出雲国と越の国との不都合な関係

ニニギ以前の古代史のまとめ

現在では「万世一系の天皇が日本全国を支配した」という説が主流になっていますが、はたしてそれは正しいのでしょうか?

すべての八百万の神々が、イザナギ・イザナミの子孫であるという妄想。

それは『古事記』『日本書紀』が造り上げた「あるべき理想の国家像」だったのかもしれません。

 

今回は、最も謎の多いとされる「出雲国」と「越の国」との関係を深く掘り下げてみます。

ここが分かれば、古代史はもっと現実味を帯びた「生々しい人間たちの歴史」として鮮明に蘇ってくるからです。

 

ところが、私の研究する『ウエツフミ』にはほとんど手掛かりがありません。

おそらく、日向族の正史だと思われるこの古文書は、ニニギ以前の歴史についてはサラリとスルーしています。

つまり、「九州にウガヤフキアエズという大王が登場する以前のことはよく分からない」ということなのでしょう。

 

そこで、今回参考にしたのが、偽書とされる下記の『古史古伝』です。

『宮下文書』・・・・徐福自身が書いた『十二史談』をベースに、その子孫である秦氏がまとめた古代史。

『竹内文書』・・・・武内宿祢の子孫たちがまとめたとされる古代史。

『九鬼文書』・・・・中臣氏の末裔・九鬼(くかみ)家に伝わる古文書。

『飛騨の口碑』・・・・飛騨地方に口述で伝えられた古代史。

『先代旧事本紀』・・・・聖徳太子が編集に着手して、その後物部氏が完成させたと思われる古代史。

※なお、『ホツマツタエ』『カムカタナ』などについては、私はまだ読んでいませんので、詳しい方はぜひ情報をお寄せください。

 

これらの古史古伝には、ある共通点があります。

それは、時代ごとに並べられた歴代天皇、つまり神々の名前とその順序がほぼ一致しているという点です。

ただし、その活躍していた舞台、特に高天之原のあった場所については、大きな差異があります。

私の直感ですが、高天之原は時代とともに、そのときの大王とともに、転々と場所を変えていったのではないでしょうか?

 

さて、前置きが長くなりましたが、複数の古史古伝をもとにその最大公約数を抽出してゆくと、下記のような古代史が出来上がります。

これは、あくまでも私が創作したひとつの【仮説】ですので、ご意見や異説をお持ちの方は、ぜひお知らせください。

 


ニニギ以前の古代史 (まとめ)

イザナギが建国した越の国

◆最初に日本国に誕生した国家と呼べるようなもの、それはイザナギが統一した【越の国】でした。

⇒『宮下文書』による。

◆高天之原(大王の居る都)があった場所は、おそらく糸魚川沿岸のヒスイの産出する場所だったと思われますが、詳細不明。

◆ここを中心に、広く北陸・上越・信越地方の日本海側を支配下に治めて、君臨したのがイザナギ大王でした。

 


白山姫と呼ばれたイザナミ

◆イザナギ大王に嫁いできた皇后は、イザナミという名前で、おそらく石川県の白山の出身です。

だから別名を白山姫といいます。

◆二人は仲良く越の国の領土拡大に努めていましたが、南の乗鞍岳あたりの火山を拠点とする豪族・カグツチを攻めているときに、イザナミはヤケドが原因で戦死してしまい、白山に祀られます。

◆二人の間にできた本当の子供は、下記の三人でした。

長男・蛭子(ヒルコまたはエビス⇒恵比寿)

長女・天照大御神(アマテラス)

次男・月読命(ツキヨミ)

◆スサノオは出雲の国の大王であり、イザナギ・イザナミの子供ではありませんでした。

⇒『宮下文書』は、スサノオの別名を多加王と伝え、タカミムスビのひ孫であるとする。

 


アマテラス女王の即位

◆イザナギ大王は、その後継者として長女のアマテラスを選びます。

◆本来ならば、長男の蛭子(ヒルコ)が選ばれるべきなのですが、彼には身体障害があったため、当時はエミの国と呼ばれていた北海道を統治することになりました。のちに恵比寿様と呼ばれるようになります。

⇒『ウエツフミ』による。

◆アマテラス女王は高天之原を遷都しますが、その場所は、富山県にあったとする『竹内文書』、飛騨高山にあったとする『飛騨の口碑』、富士河口湖にあったとする『宮下文書』、高千穂にあったとする『ウエツフミ』など、見解が大きく分かれています。

⇒私見では、高天之原は依然として越の国の領内にあったものと思われる。

⇒ただし、アマテラスは歴史を越え、地域を越えて「太陽神」として信仰されてきたので、実在した人物とはリンクしておらず、何人も登場した可能性が大きい。

 


ツキヨミの反乱

◆次男のツキヨミには、阿波の国(現在の徳島県)が与えられましたが、ここで大事件が発生します。

◆当時、弥生式農業が最も進んでいたのが、オオケツ国と呼ばれていた徳島県でした。

アマテラス女王は、弟に農業を学ばせたくて、徳島県のオオケツ姫のもとに修行に出したのですが、なんとツキヨミはオオケツ姫を殺害してしまいます。

つまり犯人はスサノオではなかったことになります。

⇒『先代旧事本紀』による。

◆彼は、徳島県を本拠地にして高天之原に反乱を起こします。

本来ならば、男系の自分が大王を継ぐべきだと考えていたのでしょう。

◆ところが、この反乱は平定されて、ツキヨミは朝鮮半島に流され、伽耶国(のちの任那)の創始者となりますが、日本の歴史からは姿を消します。(藤島説)

 


スサノオの侵攻

◆一方、出雲国の大王・スサノオも、越の国を目指して侵攻してきます。

『古事記』『日本書紀』により「ヤマタノオロチ」と表現された一族とは、越の国のことだったのです。

◆越の国に居たアマテラス女王は、壊滅的な打撃を受け、天之岩戸に籠って難を逃れます。

◆その後、両国は和睦を結ぶこととなり、「ウケヒ」と呼ばれた相互不可侵条約が締結されました。

◆ここに、アマテラス女王とスサノオ大王は政略結婚することになり、二人の間に三女(宗像三女神)と五男が誕生します。

⇒『九鬼文書』では、現在の天皇家はスサノオの子孫であると伝えている。

◆のちにスサノオは、日本国から追放され、朝鮮半島に居たツキヨミを頼って亡命しますが、すでにツキヨミはインドに渡った後でした。

ここでスサノオは、檀君(朝鮮王朝の始祖)と呼ばれます。

⇒『九鬼文書』による。

 


大国主の反乱

◆その後、出雲国を統治することになった大国主(オオクニヌシ)は、再び越の国に侵攻して、アマテラス女王の子孫たちを一掃します。

⇒『ウエツフミ』による。

◆大国主の出自については、越の国が派遣した代官であるとする説があります。

つまり、大国主は出雲族ではなく、本国に対して反旗を翻した越人であることになります。

⇒『飛騨の口碑』『宮下文書』など。

◆この大国主の配下にあって、出雲国を支えた忠臣がスクナヒコナ(スクナムジ)、タケミナカタやコトシロヌシなのです。

◆このとき、大国主が戦っていた相手とは、オシホミミ(ニニギの父で偵察しただけで引き返す)、アメノホヒ(のちに出雲大社の宮司=大国主の慰霊役に就任)、アメワカヒコ(出雲族のハニートラップに引っ掛かり不帰)、フツヌシ(大国主に「イナサ」と国譲りを迫る)、タケミカヅチ(強豪タケミナカタに止めをさす)などでしたが、いずれも越の国の人間と思われます。(藤島説)

◆ところがその後、出雲国を大飢饉が襲い、急激に国力が衰退してゆきます。

⇒『ウエツフミ』による。

 


ニニギの亡命

◆出雲国との戦いにより国内が荒れ果てていた越の国は、危機を感じて、そのプリンスであった幼少のニニギを九州に亡命させます。(藤島説)

◆当時の九州は、福岡を中心とする北九州が豊玉彦の領土、大分・宮崎を中心とする南九州が猿田彦の領土であったと、『宮下文書』は伝えています。

⇒なお『飛騨の口碑』では、もうひとつの勢力があり、三つ巴で争っていたと伝えるが特定できず。(隼人のことか?)

⇒さらに『宮下文書』では、外国人が九州に攻めてきたので、ニニギが富士山から遠征して迎え撃ったと伝えているが、実は侵略軍こそ自分たち秦氏のことで、ここから主客逆転して自分たちがニニギ勢力となった痕跡が見える。(あくまでも私見)

 


ニニギによる国家統一

◆猿田彦一族とは、インドからやって来たシオツチを始祖とする、仏教系の渡来人でした。

◆ニニギは猿田彦一族を味方に付けて、日向王朝の創始者となります。

⇒これが本当の『天孫降臨伝説』だということになる。

◆さらに、自分の息子・ヒコホホデミ(山幸彦)の皇后として、北九州の竜宮城から豊玉姫を迎え入れ、九州の豪族を味方に付けてゆきます。(その仲介をしたのがシオツチ)

◆この日向王朝と出雲王朝の間で争いがあったことを伝える文献は存在しませんが、大国主の『国譲り伝説』が、政権交代があったことを象徴しています。

つまり、ニニギにより日向・出雲連合国家が誕生したことになります。

⇒『ウエツフミ』による。

◆以降、越王朝と日向王朝の創始者であるアマテラス女王と、出雲王朝の創始者であるスサノオ大王が、二大神として祀られるようになり、日向王朝のシンボルは「太陽と月」と定められました。

⇒なお、「16花弁の菊花のご紋章」は、天之御中主のシンボル(太陽と16筋の光)であると『宮下文書』は伝えている。つまり、イザナギが登場するはるか以前に、世界に影響を及ぼした文明がわが国にも存在した可能性が高いが、ここではあまり議論しないこととする。

 

このあたりまでが、紀元前8世紀頃の出来事であり、その後、弥生時代が幕を開けます。

 

ちなみに、徐福らがやって来たのは紀元前3世紀の事であり、すでにウガヤフキアエズ74代の治世でした。

さらに、大陸から外国人が大挙して押し寄せたのは、倭国大乱ののちの、起源後3世紀くらいの出来事であり、神功皇后や応神天皇の時代です。

 


結び

いかがでしょうか?

もしかしたらこのような歴史観が最も真実に近いのかもしれません。

つまり、我が国はいくつもの部族に分かれて、争いと合併を繰り返して来たのだと・・・・

それは、大和を中心とする新しい国家・倭国が成立する過程に於いては「不都合な真実」だったのでしょう。

いまは『偽書』とされている古史古伝だけが、本当のことを伝えているのかもしれません。

 

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コメント: 2
  • #1

    takabonblog.com (土曜日, 20 8月 2022 21:44)

    すばらしい!
    読んでいてとてもロマンを楽しめました。
    この歴史を信じてみようかなと感じています。
    自分でも学校で教えていない歴史を勉強中なので本当に参考になりました。
    ありがとうございます。

  • #2

    MIX (水曜日, 16 11月 2022 09:01)

    今日も楽しく読ませて頂きました。
    古事記や日本書紀など学校で習う文献には載っていない大昔の歴史を
    残された文献から紐解いていく。推論がおおくても共通項から見えてくるものがありますね。
    こういう研究は純粋にあり得ますね。上記(ウエツフミ)の発見があり、奇書と言われた
    他の文献との整合性もある点も興味深いですね。これらを結び付けて推論していくことが
    大切であり、むやみに偽書として否定しないことが進展に繋がります。
    学校で学んだ歴史も時代とともに変わっていきます。例えば、世界最古の文明は
    メソポタミア文明とされていますが、近年発見されたギョベクリテペ遺跡(トルコ)は
    紀元前10000年のものであると分かりました。又2018年には米国アイダホ州の山岳地帯の遺跡調査で1万6千年前に縄文人が移住したと思われる痕跡が発見されています。
    そういった中で本ブログ記載の縄文時代(神代)の探求は大いに価値があるものと思います。
    ありがとうございます。引き続き拝見させていただきます。