ウガヤフキアエズの御陵を、豊後大野市で発見か!?

【宮尾神社】(大分県豊後大野市三重町宮野)

先日、友人のアソウノリヒサ君が

「ウガヤフキアエスの命が祀られている神社が近くにあるので、見に行きませんか?」と誘ってくれました。

 

それが、【宮尾神社】(大分県豊後大野市三重町宮野)でした。

 

アソウ君は、ドローンを飛ばして豊後大野市周辺の神社仏閣をYoutubeにアップしているので、ご存じの方も多いかと思います。

【公式チャンネル】https://www.youtube.com/channel/UCqtGBVCVURVk4zPcndS3AIQ

 

さっそく駆け付けてみると、そこは「道の駅みえ」のすぐそばで、駐車場から見下ろせるほどの近さです。

 

まず驚かされるのが、その類まれなる地形の美しさです。

添付の画像(Googleの航空写真)をご覧ください。

 

神社のお社が建っている場所は、まさにキレイな円錐台になっています。

(このまん丸な台地は、はたして自然にできたものでしょうか?)

舌のように北西に伸びた四角い台座は、まるで自然の前方後円墳。

それをグルりと取り囲むように流れる又井川。

(この川がここで大きく蛇行しているのが、いかにも不自然?)

 

これこそ人が造った人工物であって、とても自然に出来上がったものとは思えないほどの完成度の高さです。

 

しかも、そこに鎮座しているのがウガヤフキアエズの命だというのですから、これはもう古墳以外には考えられません。

ご存知のように、『ウエツフミ』によると、ウガヤフキアエズと名乗った天皇は、合計74人居るのですが、そのうちの誰かのお墓だという可能性は大いにあります。

そういえば、そのなかに書かれた『大野の宮』の場所が分からなかったのですが、もしかしたらここのことかもしれません。

⇒『大野の宮』に関する過去記事は、こちら

 

しかも、このあたりの地名は『宮野』であり、何らかの都があった場所であることを暗示しています。

さらに、この神社のある場所の地名が『宮尾』、つまり都から伸びたシッポのような地形を意味しているとすると、現在「道の駅みえ」が建っているあたりが、古代の都だった可能性も浮上してきます。

 

さらに調べてみると、意外な事実が次々と判明してきました。

 


切ると血が出る岩の伝説

なんと、この神社のまわりの岩を掘削しようとしたところ、血が出てきたという伝説があるのです。

【出典】http://ooitakenbungo.jugem.jp/?eid=837

 

それは江戸時代のお話ですが、まるで「ここは古墳だから掘るな!」という戒めが、素朴な伝説となって語り継がれてきたかのようです。

 

さらに、周辺の川の中にあったという龍の形をした「辰石」は、この場所が大切な聖地であったことを物語っています。

特に、龍神族の子孫であることを自称していた日向族にとって、ここは大切な場所であったに違いありません。

残念ながら、今はもう無くなってしまったようですが。

 


すぐ近くから出てきた太陽十字

さらに調べてゆくと、この近くの岩に十文字か彫られていることも判明しました。

下記のサイトの、上から三番目に紹介されている「断崖クルス」の記事をご覧ください。

【豊後大野市の指定史跡】https://www.bungo-ohno.jp/docs/2015022000585/

 

十文字の紋章は、キリシタンの十字架と混同されがちですが、下記のとおり、実はウガヤフキアエズ王朝の紋章であったという説も有力です。

(1) まず、ウエツフミ研究の第一人者である吾郷清彦先生の著書『古史精伝 ウエツフミ 原文併記全訳』の第一巻の挿絵にある下記の写真です。

それは、大分市内にあった「あさだ御陵」(稙田古墳、木の上古墳とも呼ばれる)に建てられていた石柱なのですが、はっきりと「十文字のマーク」が刻まれ、「古皇之御陵」と書かれています。

先生は、これを「第38代・ウガヤフキアエズの命のお墓だ」と推定されていますが、ウガヤ王朝と十文字には密接な関係があった証拠です。

⇒私の過去記事は、こちら

(2) 薩摩の島津家が用いていた「丸に十の字」の家紋も、ウガヤ王朝との関連を示すものではないでしょうか?

それは「大陽十字」と呼ばれ、キリスト教の十字架ではなく、陽としての太陽【〇】と、陰としての大地(または月)の【+】が組み合わされたものだったのです。

【参考】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97#:~:text=%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%8D%81%E5%AD%97%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%98%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%98,%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

この組み合わせのうち、陰としての【+】だけが、お墓を示す記号として使われた可能性があります。

(3) キリシタンのクルスとは明らかに違っています。

下記の2つの写真を比較してみてください。

左側・・・こちらが、江戸時代の隠れキリシタンが刻んだクルスです。岩面に凸状に加工されているのが特徴。(隣の野津町にある摩崖クルス)

 

右側・・・さきの豊後大野市指定史跡の「断崖クルス」ですが、こちらは凹状に加工されており、しかも「薬研彫り」であり、V字の溝で彫られています。

もしもこれが隠れキリシタンのクルスバだったとしたら、どうしてこんな隠しようのない場所に、はっきりと証拠を残しているのでしょうか?もしもしのときには、誤魔化せないではないですか?

 


ウガヤ王朝とキリストの関係

思うに、『竹内文書』が伝える「イエス・キリストもウガヤ王朝を訪問してそこで修業した」という記述、そういえばキリストが活躍した起源元年頃は、私の推定ではちょうど『神武東征』の時期と重なります。

おそらく、キリストが天に召された場所を象徴する十字架は、ウガヤ王朝では貴人のお墓を示すシンボル【+】であり、両者は同じ目的で使われたのではないでしょうか?

 

さらに、この宮尾神社を取り囲むように流れている「又井川」ですが、なんとなく十二使徒の1人の「マタイ」を連想してしまうのは、私だけでしょうか・・・・??

 

ついでに、この宮尾神社の対岸にある「了因寺」

現在は浄土真宗のお寺なのですが、この「宮尾神社」を見下ろす位置関係からは、いかにも代々古墳を守ってきた「墓守」の住んだ場所ではないかとさえ思えてくるのです。

ちなみに、このお寺こそ隠れキリシタンたちの伝説のクルスバ「了仁寺」跡ではないかとする論文まで出てきました。

【参考】http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04407.pdf?file_id=7024

 


結びにかえて

もしも、私の推定が正しいとすれば、この場所を掘ってみるしかないのですが、それはあまりにも無謀なことであり、また血が噴き出してきたら大騒ぎとなります。

 

ということで、まだ決定的な証拠は出てきませんが、とりあえず第一報としてみなさんにもお知らせしておきます。

興味のある方は、ぜひご自分の目でお確かめください。

 

さらに、近々アソウノリヒサ君も、ドローンで撮影した動画をアップしてくれるそうなので、ぜひご紹介させていただきます。

 


<追記> 2020.6.19

アソウノリヒサ君が、ドローンで撮影した動画をアップしてくれましたので、ここにご紹介させていただきます。