蘇我氏はフトダマの子孫だった!

最近チマタでは、「蘇我氏は渡来人である」という説をやたらに目にするのですが、はたして本当なのでしょうか?

 

肝心の『ウエツフミ』にさえ、蘇我氏のソの字さえ出てこないので、「手掛かり無しか・・」とあきらめかけていたのですが、最近になってやっと新たな証拠を入手しました。

 

結論からいいますと、蘇我氏とは左大臣フトダマ(天布刀玉命・太玉命)の子孫だったのです。

 

それは、『富士古文書』から見つかりました。

具体的には、徐福の子孫とされる秦氏が伝えた『富士古文書』(宮下文書ともいう)、これを大正11年に三輪義煕が再現して発刊した『神皇紀』のなかに書かれていました。

【参考】富士古文書、宮下文書、神皇紀

http://xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-tukosi.pdf

 


『富士古文書』による蘇我氏の出自

要約するとこうなります。

 

左大臣家は子孫代々これを継承して、祖家(のちの蘇我)と称す。

 

【原文】https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674

⇒P278「第二 左右大神」の頁を参照

 

つまり、代々左大臣を務めてきた名門の家柄なので、この氏族を【祖家(ソガ)】と称したが、のちにこれが【蘇我(ソガ)】という苗字に変わったというのです。

 

この説は、多分正しいと思います。

 

◆まずこれを書いたとされる徐福とその子孫たちですが、紀元前3世紀にわが国に渡来して、その頃日本各地に伝わっていた神話や民間伝承を徹底的に研究します。

『神仙思想』という、現代流にいえばスピリチュアル・オタクであった徐福は、不思議の神国ニッポンに大いに興味を持ち、日本人以上に熱心に古文書の収集に努めました。

彼らの収集した古文書のタイトルが、『神皇紀』のなかにリストアップされています。

⇒ちなみに私の推測では、これらの古文書は現在でも神奈川県の「寒川神社」に保管されているはずなのですが、何の証拠もありません。

大切なのは、徐福は「由緒正しい証拠をもとに古代史を論じている」ということです。

ただし、あくまでも私の感想ですが、随所に我田引水的な記述も見られます。

例えば、「右大臣・アメノコヤネの子孫は物部氏である」としている点など、下記のとおりどうみてもマユツバものです。

 

◆一方、右大臣を務めた中臣氏については、『古事記』『日本書紀』『ウエツフミ』のすべてが、アメノコヤネの子孫であるということで一致しています。

ことに『ウエツフミ』においては、中臣氏・上春(うわはる)氏・表春(うわはる)氏・下春(したはる)氏らが、みんなアメノコヤネの子孫であるとして、これらの家系が代々天皇家の右大臣を務めてきたと伝えています。

もちろんウガヤフキアエズ王朝の時代を中心に・・・ということでしょうが。

 

ところが、蘇我氏に関しては『ウエツフミ』にさえ全く記録が残っていないのです。

おそらく、『ウエツフミ』が参考にした神代文が書かれた時代には、まだ【蘇我氏】という苗字は使われていなかったことと、「大化の改新」で完全に滅ぼされた蘇我氏は、代々伝わる家伝や神代文を燃やされたうえ、公式記録からも完全に抹消されてしまったようなのです。

 

◆さらに、「フトダマの子孫は忌部氏や斎部氏である」とするのが通説ですが、これは「蘇我氏=フトダマ子孫説」を否定するものではありません。

なぜならば、フトダマの子孫は一氏族に限られた訳ではないからです。

つまり、蘇我氏と忌部氏、斎部氏はもともと親戚だった可能性が強いということです。

 

ちなみに、『ウエツフミ』の記述を詳細に読むと、ウガヤフキアエズ王朝の時代には「フトダマ〇〇の命」という人たちが、多く活躍しています。

つまり、当時はまだ苗字という概念が無かったので「フトダマ」という先祖を表す言葉を頭に付けて、あとの〇〇の部分に自分の名前を付けて、あわせて正式な名前としていた可能性が強いからです。

例えば、『ウエツフミ』には、神武天皇(ヒダカサヌ)の七人の重鎮たちの名前が正確に記録されていますが、そのなかには、斎部氏も太玉氏も仲良く並んでいます。

 

<神武天皇を支えた七大臣>

中臣春武の命、中臣道之臣人の命(この二人がアメノコヤネの子孫)

斎部差別の命、太玉大富の命(この二人がフトダマの子孫)

科津靱之男の命(シナヅトベの子孫?)

弥都波若菱守の命(ミズハノメの子孫?)

手力佐韋花の命(タヂカラオの子孫?)

【出典】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=40&sno=3

 

さてさて、もう一度整理しますと、もともと天皇家の左大臣を代々務めていたアメノフトダマ。

その子孫たちが、いくつかの氏族に分かれてゆきますが、これら「左大臣系の氏族」を総称して【祖家(ソガ)】と呼んだ。

そのなかから、ある特定の氏族が【蘇我(ソガ)】という苗字を名乗るようになった。

これが蘇我氏の出自である。・・・・という結論になります。

つまり、蘇我氏は渡来人でもなく、天皇家でもなく、由緒正しい名門大臣家であったというのが、真相のようです。

 



蘇我氏はなぜ仏教に帰依していったのか?

その天皇家を支える左大臣であった蘇我氏が、なぜ神道を捨てて、仏教に傾倒して行ったのでしょうか?

 

その答えを、最も正確に語り伝えていると思われるのが、『真名野長者伝説』です。

もちろん、「ここに登場する真名野長者こそ蘇我稲目である」とする私の主張が正しいと仮定してのことですが。

⇒私の過去記事は、こちら

 

その答えは、意外なところにありました。

ズバリ、蘇我稲目は蘇我家の正当な嫡出子ではなく、蘇我家の一人娘をもらった「入り婿」だったからなのです。

 

では、稲目の出自は何であったのかというと、身寄りのない「孤児」でした。

つまり、祖先が誰であるのか?分からないということです。

伝説によると、7歳にして両親と死に別れた藤治という少年が、炭焼きの又五郎に拾われて、小五郎と名乗ったとあります。

 

その貧しい少年が、なぜ名門・蘇我氏の娘と結婚できたのかというと、「三輪明神のお告げ」であると書かれています。

 

しかも、この貧しい少年の霊魂を前世から呼び寄せて、日本国の豊後の国・玉田の里に転生させたのは山王神であり、

さらに、その前世とは、仏教発祥の地・祇園精舎で、精舎(お釈迦様が講義するための講堂)を寄進した「大満長者」という大金持ちであるというのです。

(現地ではスダッタ、Sudatta、須達多と呼ばれた長者のこと)

【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E

⇒その詳細な経緯は、こちら

 

つまり、蘇我稲目は生まれながらにして、日本に仏教を広めるためにインドから呼び寄せられた「特命全権大使」だということになります。

 

ここから、天皇家と仏教との深い深い関係が始まるのですが、これに不快感を示したのが、物部氏と中臣氏であることはご存知のとおり。

⇒私の過去記事は、こちら

 

もしも、蘇我氏が居なかったら日本での仏教の隆盛はあり得なかった訳ですが、それもこれも、日本古来の神様であるフトダマの子孫たちと、インド発祥の釈迦族の末裔たちが、婚姻関係で結ばれたからであるとするならば、これほど不思議でお目出たい因縁はありません。

 

『神仏習合』という画期的なソリューションにより、神と仏、両方の勢力を味方につけてしまった日本人とは、実に優秀な民族であり、世界最強の遺伝子を有することを、もっと自覚してもよいと思うのですが!?