私は以前から「カムヤマトイワレヒコ」と「ヒダカサヌ」とは、全くの別人であると主張してきました。
時代も出自も異なる二人の人物の逸話が、ひとつに集約されて『神武東征伝説』が形成されたのではないかと・・・・?!
⇒私の過去記事は、こちら。
今回、椎根津彦の出自に関する新たな証拠が発見されたことにより、私の説がますます現実味を帯びてきました。
やはり、神武天皇のモデルは二人居たのです。
具体的には、
【紀元前667年】に、初めて関西の地に足を踏み入れたカムヤマトイワレヒコ
日向族が付けた尊称は「第2代・ウガヤフキアエズの命」
【紀元1世紀頃】に、関西の豪族・ナガスネヒコと戦うハメとなったヒダカサヌ
日向族が付けた尊称は「第73代・ウガヤフキアエズの命」
『ウエツフミ』には、この二人の逸話がそれぞれ別個に、かなり詳細に記録されているのですが、記紀の作者たちはそれをあえてひとつにまとめてしまったのか?それとも勘違いしてしまったのか?
いずれにせよ「古代史最大の謎」は、ここから迷宮入りとなるのです。
それでは、私流の最新の解釈を、ここにご披露しましょう。
なお、かなりマニアッックな基礎知識が必要となりますが、かんばって最後までお読みください。
椎根津彦神社に残された系図
ある日突然、謎の人物が私の民宿に宿泊することとなりました。
「単なる古代史ファンである」と自称するこの人物、かなり詳しい情報を持っており、それなりのお方だとお察ししました。
彼と酒を酌み交わしながらいろいろと議論しているうちに、「古代史の謎は椎根津彦を調べれば分かる」というのです。
さっそくWebで検索してみると、大分の佐賀関に「椎根津彦神社」という小さなお社があることが分かりました。(上の写真)
そこには簡単な「ご由緒書き」が掲げられているのですが、それを見た途端に、私の全身を戦慄が走りました。
その由緒書がこちら。(クリックすると拡大)
なんとそこには、
「神武天皇と椎根津彦とはいとこ同士だ」と書いてあるのです。
もっと正確に書くと、ウガヤフキアエズの弟が武位起命、その兄弟それぞれの子供が神武天皇と椎根津彦で、二人は従兄弟同士の関係だということになります。
文章で解説しても分かりにくいと思いますので、家系図にしてみました。(2枚目の画像参照)
ここには、謎の人物が三人登場します。
そう、「武位起命」と「詳持姫命」と「稚草根命」です。
この三人が分かれば、芋づる式に椎根津彦の正体が分かることになります。
もしこの記述が正しいならば、椎根津彦はただの通りすがりの漁師では無かったということであり、神武天皇とは親戚同士であったからこそ、舵取りという重要な任務を託すことが出来たのだということになります。
しかもこの神社のある場所こそ、椎根津彦が住んでいた場所だという伝承もあります。
一方、記紀が伝えるヒコホホデミ(通称・山幸彦)の子供は、ウガヤフキアエズ一人だけであり「武位起命」なる人物が介入する余地はどこにもありません。
だから、椎根津彦の父親が宙に浮いてしまったのです。
すなわち、『ウエツフミ』と椎根津彦神社のご由緒こそが、記紀の欠缺を補うカタチで、正しい歴史を伝えていることになります。
⇒なお、『先代旧事本紀』にも武位起命について同様の記述がある。
【参考】https://dai3gen.sakura.ne.jp/takakura02.htm
⇒『ウエツフミ』では、「武位起命」の正式名称を「アマツタケクラオキの命」と伝えるが、こちらは豊国文字で書かれているため音韻を正確に表記しており「タケクラオキ」が正しい読み方である。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=15&sno=7
ウエツフミが伝える武位起命の正体
実は、ヒコホホデミ(通称・山幸彦)には、あわせて七人の子供が居ました。
それを生まれた順に一覧表にすると、下記のとおりとなります。
1【側室】三穂津姫・・・・タケサ彦、ウケチホホ姫・・・・合計2人
2【側室】鐸姫・・・・エミヅホアカシ(注)・・・・合計1人
3【正室】豊玉姫・・・・ウガヤフキアエズ(初代)、アマツナオリの命(天津直入)、アマツウスキネ(天津臼杵根)、アマツタケクラオキ(天津武位起)・・・・合計4人すべて男
⇒(注)エミヅホアカシは、第4代・ウガヤフキアエスと全く同じ名前である。さらに第4代が生まれたときはタマカミの命と名付けられた。ということは、ここで何か政変が起きた可能性もあるが、ウエツフミはノーコメント。
この記述から、(初代)ウガヤフキアエズと武位起命とは、ともに豊玉姫から生まれた兄弟であり、さらにその武位起命の子供がシイネツヒコであるとする「椎根津彦神社由緒書」は、かなり信ぴょう性が高いことになります。
カムヤマトイワレヒコに関するウエツフミの記述
さらに『ウエツフミ』は続きます。
(初代)ウガヤフキアエズの子供、すなわち第2代・ウガヤフキアエズに関しては、こう書かれているのです。
◆彼は生まれたときから病弱で、早々に(在位14年で)第2代を退位して、弟に第3代を譲った。
◆宇佐に隠居して転地療養をしていたところ、人民(美しき青人草)たちがあまりにも病弱で短命(当時の平均寿命は40際とある)であることに驚き、人民への健康指導の必要性を痛感して、東国へと向けて旅立つ。
⇒この宇佐の保養地こそ、記紀が伝える「一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)」であろう。ここでウサツ彦の娘と天種子命の婚礼が整う。
◆このとき同行したのが、弟の第3代・マシラタマカカヒコで、(書かれていないがおそらく)いったん佐賀関まで戻って、従兄弟のシイネツヒコに水先案内をさせた。
◆関西に到着した第2代と第3代の兄弟は、ここで人民に健康長寿の秘訣を教え、住民たちから大歓迎されて、ナラシの宮(奈良の宮?)を建てた。
⇒富家伝承(ナガスネヒコの子孫に伝わる)では、「神武天皇とニギハヤヒが一緒に攻めてきた」と伝えており、この二人のことと思われる。
◆その後、兄弟は二手に分かれ、兄の第2代は西日本方面を指導し、弟の第3代は東日本方面を指導することになった。
⇒思うに、この第3代は関東圏にまで遠征しているので、これが「ニギハヤヒ伝承」となったのではないか?
⇒さらにこのとき、奈良地方を治める代官としてシイネツヒコを残したのではないか?
なんと驚くべきことに、『ウエツフミ』には、この第2代の幼少名が書かれていません。
歴代74人のウガヤフキアエズの命のうち、この第2代だけが「無名」となっているのです。
この第2代こそ、幼少名・カムヤマトイワレヒコ、つまり神武天皇だったのではないか!というのが私の主張です。
その理由を推察してみると、『ウエツフミ』が書かれたのは鎌倉時代のことであり、当然記紀の記述を読んだうえで、あえてそれを修正・補足する形で、もっと詳しく正確な記述を復元しようと試みたのですが、さすがに第2代をカムヤマトイワレヒコだと断定するだけの証拠も乏しく、その社会的な衝撃も大きすぎるので、あえて謎のまま「無名」として残したのではないでしょうか?
700年後のヒダカサヌによる第二次東征
『ウエツフミ』は、第73代・ヒダカサヌについては、実に記紀の10倍にも及ぶ文字量で、こと細かく記載されています。
つまり、この部分についてはまだ記憶に新しい事件であり、各地にさらに詳しい伝承や神代文が残されていたものと思われます。
ちなみに『ウエツフミ』によると、ヒダカサヌを実際に水先案内したのは、シイネツヒコではなく「ウヅサカヒコ」と名乗っており、功績により「シイザオノウズヒコ」という名前を賜ったとあります。
しかも皇族ではなく「ハセダキの上(部落の長)」だと自称しているので、もしかしたらこの人物は、シイネツヒコの700年後の子孫ではないでしょうか?
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=36&sno=16
さらに疑問が残るのは、椎根津彦神社に祀られた「稲飯命」「詳持姫命」「稚草根命」の三人家族です。
ご存知のように「稲飯命」は「日高佐野」の兄ですから、この3人は明らかに、紀元元年頃の「ナガスネヒコとの戦い」で活躍した人物であり、カムヤマトイワレヒコの神武東征の時代の人ではありません。
ちなみに、この三人についても簡単に解説しておきます。
「稲飯命」が、椎根津彦の姉を娶ったという記述はどこにもありませんが、「イナヒ」と「ミケヌイルノ」が新羅との海戦で命を落としたので「サイモチの神」に変身して戦ったとあります。
つまり、「詳持姫命」の正しい読み方は「サイモチ姫」なのではないでしょうか?
ちょっと話はそれますが、「椎根津彦神社」と「早吸日女(はやすいひめ)神社」は、正確に南北に並んでいます。
つまり、佐賀関半島の北の港を守るのが「早吸日女神社」、南の港を守るのが「椎根津彦神社」という位置関係になります。
ということは、早吸日女は詳持姫命と同体だと考えても良いのではないでしょうか?
つまり、姉弟で分担してそれぞれ南北の港を守護しているという意味です。
あるいは、早吸日女こそ,祓戸四神のうちのひとり「速佐須良比売」であるという説もあります。
なぜなら、大野川には瀬織津姫伝説が残されており、瀬織津姫が大野川下流に押し流した穢れや汚れを、速佐須良比売(こと早吸日女)が沖まで押し流してくれるとも解釈できるからです。
⇒ただし、この点に関しては、豊後大友氏が滅んだあと、この神社を管理することとなった肥後の細川氏が、正しいご由緒を伝えていない可能性大。
細川氏からみれば、因縁のライバルである大友氏が二度と復活して欲しく無いという願いを込めて、この神社のご祀神に「ヤソマガツヒ」まで入れてしまった可能性も。
(つまり大分県人はヤソマガツヒを拝まされている?)
さらに「稚草根命」に関する記述も見つかりませんが、椎根津彦が初代タケルとして奈良に赴任したので、残された一族が佐賀関を守り「海部族」と称したのではないでしょうか?
天皇家と椎根津彦との密接な関係
椎根津彦の始祖ともいうべき武位起命が、同じ豊玉姫の腹から生まれたウガヤフキアエズの弟であるとするならば、シイネツヒコの家柄は、由緒正しい天皇家の分家であり、だからこそ重要局面において、大役を果たしてきたのではないでしょうか?
ちなみに、ヒダカサヌは奈良に遷都すると、シイネツヒコを「建(タケル)」に任命したとあり、現在の奈良県知事に相当するので、その信頼には絶大なものがあったのでしょう。
だとすると、椎根津彦の子孫である『豊後海部族』とは、安曇氏や尾張氏とも同じく豊玉彦つながりで、遠い親戚同士だということになります。
そういえば、椎根津彦の一族が本拠地とした「佐賀関」(古くは速吸の門と呼ばれた)は、下記の理由で、大変に恵まれた貴重な土地柄です。
◆瀬戸内海の最も流れが速い難所に、ニョッキリと突き出した半島という珍しい地形で、四国に至る最短距離である。
⇒現在でも三崎港(愛媛県)行きのフェリーの発着場。
◆半島の南北には二つの港があり、しかも至近距離であること。つまり冬場は北風を避けて南の港を使い、夏場は台風を避けて北の港を使えるという、天然の良港である。
◆『ウエツフミ』には、天皇家の大船団が「ワタの浦」に係留されていたという記述もあり、おそらくここ佐賀関であろう。現在の「曲ノ浦」であり、大きく湾曲した円い地形の意味。
⇒古語では港のことを「水な門=ミナト」と呼び「山門=ヤマト」とは対象をなす。
◆ヒダカサヌは、関西でのナガスネヒコとの戦いを終えて凱旋帰国した際に、まず佐賀関の西隣の「丹生の港」に上陸して、サナハラという場所で「海之部彦の命」という人物から歓待を受けている。
この人物こそ、上述の「稚草根命」のことではないか?
◆豊玉姫が出産したのは、『ウエツフミ』によると佐賀関半島南部にある「白浜」「黒浜」である。
豊玉姫は出産する姿を夫の山幸彦に見られたので、怒って「ここの砂黒くなってしまえ!」と叫んだのが「黒浜」の由来と書かれている。
さらに、豊玉姫が逃げて実家に帰ってしまった場所を「サガ」というとあり、これが佐賀関の語源。
◆なお、この「白浜」「黒浜」は、石灰岩と阿蘇溶岩を象徴しており、海の鉱物資源と、山の鉱物資源が、ここで出あった珍しい場所。
⇒臼杵湾の対岸にあたる津久見は石灰石の一大産地であり、しかもここ臼杵湾からは隕石が落下した痕跡も発見されている。
⇒佐賀関には旧・日本鉱業佐賀関精錬所があり、ここで銅を精錬していた。ということは、副産物として金が大量に取れたハズである。
◆さらに、佐賀関の西側に隣接する丹生地区からは水銀が豊富に産出し、「丹生神社」も建てられている。これがシイネツヒコ一族の資金源であった。
⇒私の過去記事は、こちらから。
◆佐賀関に隣接する佐野地区。ここがヒダカサヌの本拠地であった可能性大。
なぜなら、古語では「佐野」を「サヌ」と発音し、ヒダカサヌが生まれたとき、その原を朝日が高く昇って照らしたので「日高佐野」と命名したとある。のちに「狭野」と変えられた?
⇒【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=36&sno=13
◆ちなみにここは有名な「関アジ」「関サバ」の産地である。潮の流れが速いというだけではアジやサバに脂が乗る理由が説明できない(むしろ筋肉質にやせるハズである)。つまり、ここの海水には何らかのパワーがあると信じられ、昔から天皇家の産湯として使われてきた。
⇒実際に私も夏場には「白浜海水浴場」でよく潜るが、浅瀬にまで魚がウジャウジャいるので、間違いなくここは何らかのパワースポットである。
◆佐賀関の北側にある「早吸日女神社」には、神武東征の際に、タコが守っていた宝剣を黒砂(いさご)・真砂(まさご)という姉妹の海女が潜って取ってきて、神武天皇に捧げたという伝承があるが、記紀にこのことが書かれていないのは、ヒダカサヌではなく、第2代のときの出来事ではないか?
このようにパワースポットでもあり、同時に鉱工業の中心地でもあり、さらに軍港としても重要拠点であった佐賀関を、天皇家の分家である椎根津彦の一族が守っていたとしても、何の不思議もありません。
結び
さてさて、いかがでしょうか?
もしも私が主張するように、【紀元前667年】に初めて関西の地に足を踏み入れたカムヤマトイワレヒコ。
その約700年後に、地元豪族・ナガスネヒコを滅ぼすため大分から東征したヒダカサヌ。
この2人の人物が混同されて、ひとつの伝承として伝わっているのだとしたら?
なぜ、『古事記』『日本書紀』の編集者たちは、九州の地で700年以上も続いた『ウガヤフキアエズ王朝』を完全に無視して、さらりと『日向三代』として受け流してしまったのでしょうか?
その答えは、おそらく『海幸彦・山幸彦伝説』にあります。
山幸彦の子孫たちが大分を中心に74代も繁栄した『ウガヤフキアエズ王朝』
海幸彦の子孫たちが関西を中心に築きあげた『大和王朝』
この2つの流れは、『壬申の乱』において大転換期を迎えます。
つまり、『九州王朝』が擁立した天智天皇と大友皇子、『大和王朝』が擁立した大海人皇子こと天武天皇。
勝利した天武天皇側が編纂を命じたのが、『古事記』『日本書紀』だとしたら?
さてさて、大混乱している人も多いかと思いますが、説明が長くなりますので、また章を改めます。
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