小野田寛郎さんのルーツから判明した海部氏の正体

ある日、友人から重要な情報を頂きました。

それは、あのフィリピン・ルパング島から帰還した“最後の日本兵”小野田寛郎さんに関する情報なのですが、小野田家は、先祖代々和歌山の「宇賀部神社」の神官を務める家系で、紀州海部族の末裔だというのです。

 

さらに、同家には口伝が残されており、それによると「小野田家のルーツは、大分県の海部郡に渡来したアマ族を取りまとめる家系で、のちに和歌山に移住した」と伝えられていいます。

今回は、この情報を私なりに検証してみたいと思います。


小野田家伝承の概要

まず、小野田家に伝わる伝承を紹介します。

 

◆小野田寛郎が残した伝承では、小野田家のルーツは豊後水道にある。

 

◆豊後水道のリアス式海岸に潜って貝や魚を取っていたのが「アマ族」であり、日本各地に「海部」と付く地名があるが、すべて「アマ」と読み、豊後国海部郡だけを「アマベ」と読む。つまり「ベ」が付くのは彼らの本拠地という意味である。

 

◆アマベ氏とは、アマ族を取りまとめるリーダーであり、アマベのルーツは修験サエキである。

⇒「修験サエキ」とは落合莞爾先生の命名によるのもので、「日本にやって来たウバイド人(前期シュメール文明)のうち、天皇家より先に九州に渡来した一派をいい、のちに海部氏と呼ばれた」と説明されている。ちなみに、落合先生もこのことを調査するため大分県を訪れている。

 

 

◆小野田家の家紋は「丸に三つ鱗」で、祖母山から出た豊後大神氏と同じ。

豊後大神氏は宇佐神宮の宮司を務め、ルーツに「修験サエキ」を持つので、小野田家と豊後大神家は同族である。

⇒「豊後大神氏」とは、祖母山から発祥した大蛇の子孫を自称する一族で、源平時代には緒方三郎惟栄がここから出たと『平家物語 緒環』にもある。

【参考】http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/heikemonogatari/sono05/heike05.htm

⇒その家紋「三つ鱗」は、明らかにピラミッドの三つ重ねであり、落合先生の説く「彼らはエジプト文明の継承者である」という説と一致する。

 


豊後海部氏移住説の検証

まず、「大分のアマ族が和歌山に移住した」という部分から検証してみます。

このことは、『ウエツフミ』にも書かれているので、その証明は容易です。

 

◆紀元元年前後に、ヒダカサヌ(第73代ウガヤフキアエズの命)が、大分から奈良に遷都します。(神武東征伝説の原型)

 

◆これに先立ち、奈良の豪族ナガスネヒコを担ぐ新羅軍と、日向族皇軍との間で全面戦争となり、ヒダカサヌの兄たちである、イナヒ(稲飯)とミケヌイルヌ(三毛野入野)が戦死します。

⇒詳細は、こちらから。

 

江戸時代に歌川国芳が描いたサイモチの神(大鰐)
江戸時代に歌川国芳が描いたサイモチの神(大鰐)

◆戦死した二人の兄弟は「サイモチの神」に姿を変えて最後まで皇軍を守ります。

 

この「サイモチの神」というのは「海竜」または「大鰐」のことであり、別名「ウカツチ(宇迦槌)」とも呼ばれ、のちに「宇賀神」と名を変えて琵琶湖の「都久夫須麻神社」にも祀られます。

◆小野田家が宮司を務めた「宇賀部神社」のご神体は「宇賀部大神」であり、これこそ「ウカツチ」(ツチのカタチをしたウカ)あるいは、イナヒ(稲飯)とミケヌイルヌ(三毛野入野)の兄弟の御霊そのものである可能性大です。

つまり「部」が付くのは「ウカ」を祀る神社の総本山またはルーツと解釈できます。

 

◆ヒダカサヌが東遷したときには、多くの豊後海部族が付き従って和歌山に移住します。

このときのアマベ族とは、シイネツヒコ(ヒダカサヌの従兄弟)のもとで海軍を担っていた一族で、その恩賞により和歌山にも土地を与えられます。

ちなみに、初代の和歌山県国司を務めたのは、ヒダカサヌの叔父にあたるタカクラジ(高倉下)であり、五瀬命(ヒダカサヌの長兄)が葬られた場所が「竈山神社」です。

つまり起源元年頃、和歌山県は、奈良県と並んで、日向族の移住先であったということです。

⇒シイネツヒコが初代の奈良県国司である。

 

◆このタカクラジの和歌山統治下で、女性村長を務めたのがナグサトジまたはナグサトベ(名草戸畔)。

⇒トジまたはトベとは「村くらいの大きさの集落の長である」とウエツフミに書かれている。

 

◆東遷から約100年後の2世紀(倭国大乱)、この平和な和歌山に、秦氏が擁立した渡来人の神武天皇(ヒダカサヌとは別人)が攻め込んで来ます。

このとき、名草戸畔は3つに切り刻まれて、その頭部を守る神社が「宇賀部神社」、つまり小野田家が宮司を務める神社です。

 

【小野田さんと宇賀部神社に関する新聞記事】https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/11916707

 

どうですか、すべてつながって来ましたか?

 

これで、小野田家とそのルーツである紀州海部氏とは、大分県の豊後海部族が移住したものであることが証明されました。

 


海部氏の歴史的な位置づけ

もしも、海部氏こそ「修験サエキ」であり、エジプト文明の継承者であるとするならば、なぜ彼らは「自ら大王になる」ことを選択しなかったのでしょうか?

 

それは、大分県の中央部、祖母山から流れ出す大野川の流域には、もっと強いパワーを持つ一族が居たからです。

それが「日向天孫族」

『ウエツフミ』では、「オオミタカラ族」と呼ばれています。

 

彼ら天孫族の持つパワーの源泉は分かっていませんが、豊後海部氏は「常に補佐役的なセカンド・ポジション」に廻って来たことは、歴史が証明しています。

 

さらに、大分県の北部には、秦氏の本拠地である「秦王国」もありました。

 

私は、秦氏とは「東ローマ帝国」が派遣した新植民地開拓のための騎馬隊、海部氏とは「西ローマ帝国」が派遣した新植民地開拓部のための海兵隊であると考えており、落合莞爾先生のいわれる「ウバイド人の修験サエキ」とはやや異なる解釈をしていますが、その議論は長くなるので、また章を改めます。

 

いずれにせよ、ウガヤフキアエズ王朝とは、北の秦氏と、南の海部氏の両方を支配下に収めることに成功した“第三の勢力”であり、その強大なパワーゆえに日本一の大豪族である天皇家にまで発展したと解釈しています。

 

日向天孫族、秦氏、海部氏、この3つの勢力が拮抗する大分県とは、まさに日本国の成立を語るうえで無視できない「古代史のルツボ」だったのです!

 

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コメント: 1
  • #1

    田村正信 (木曜日, 03 2月 2022 12:44)

    大分県佐伯市は、南海部郡でしたが、サエキとさいき市に繋がりを感じます。