高良玉垂とは武内宿禰のことか?

『高良玉垂宮神秘書』が伝える驚愕の事実

いま『高良玉垂宮神秘書』という、久留米市の高良大社に伝わってきた「由緒書」を読んでいるのですが、実に興味深いことがいろいろと書かれています。

 

例えば、

高良玉垂とは武内宿祢のことである!

隼人とは百済人のことである!

彼らが攻めたのは高千穂のウガヤフキアエズ王朝であり、そこから宝珠を奪ったので、三韓は恐れをなして戦わずに降伏した!

などなど、驚くべき事実が露呈してきました。

 

まずは、そこに何が書かれていたのかを要約して、私なりの独自解釈を加えました。

ただし、あくまでも私は原文を読んだ訳ではなく、下記の現代語訳を参考にしていますので、解釈違いなどありましたら遠慮なくご指摘ください。

https://kouratamadare.com/%e9%ab%98%e8%89%af%e7%8e%89%e5%9e%82%e7%a5%9e%e7%a7%98%e6%9b%b8

 


高良玉垂の由緒

【記述内容】

「住吉神」とは、ウガヤフキアエズのことである。

 

「住吉三神」とは?・・・・そのウガヤフキアエズには5人の子供がいたが、そのうち男子だけを「住吉三神」と呼ぶ。

その三男が、高良玉垂である。

 

具体的には、下記のとおり。

(1)長女---表津少童命(ウワツワタツミノミコト)

(2)次女---中津少童命(ナカツワタツミノミコト)

(3)長男---表筒男(ウワツツノオ)=大祝氏の祖先

(4)次男---中筒男(ナカツツノオ)=神武天皇のこと

(5)三男---底筒男(ソコツツノオ)=月神=高良玉垂のこと

 

のちに「三韓征伐」に際して神宮皇后が戦勝祈願すると、住吉神と底筒男の親子が同時に至顕した。

この底筒男が大将となり三韓を攻めて降伏させたので、のちに高良玉垂と呼ばれるようになった。

 

その名前の由来は、竜宮から干珠(シオヒクタマ)と満珠(シオミツタマ)を運んできたからである。

干珠は白色、満珠は青色で、ともに頭が太く尾が細い5寸(約15cm)ほどの勾玉だったが、その形状から「玉垂れ」と呼ばれ、高良山に祀られたので、高良玉垂というが、その実態は底筒男である。

 

【解説】

⇒ここは、高良玉垂という実在した人物を、日本古来の神々と結びつけるためのフィクションと思われる。

⇒私の推測では、「高良玉垂という渡来人が、高千穂王朝(ウガヤフキアエズ王朝)を滅ぼして、その神器であった干珠と満珠を略奪したので、三韓は恐れをなして戦わずに降伏した。」と解釈できる。

 


神功皇后の由緒

【記述内容】

神功皇后には、仲哀天皇以外にもうひとりの夫が居た。

それが物部(阿部)保蓮(別名:藤大臣)で、この人物とのあいだに5人の子供が生まれた。

 

この物部保蓮に底筒男が月神として降臨したので、(現実世界では)彼のことを高良玉垂と呼ぶ。

 

仲哀天皇との間に出来た4人の子供と併せて、9人の子供たちを「九躰皇子」と呼ぶ。

 

【解説】

⇒思うに、この物部(阿部)保蓮なる人物こそ、第〇代・武内宿禰に就任した超本人であり、のちにこの事実を隠ぺいするため、実名が伏せられたのではないか?

⇒その根拠は『宇佐家に伝わる口伝』であり、そこには「神功皇后の不義密通の相手は武内宿禰」とある。

⇒とすると、武内宿禰こそ物部(阿部)保蓮=別名:藤大臣=高良玉垂であり、その子孫が物部氏と阿部氏であることも分かる。

 

【記述内容】

神功皇后には、妹が二人いた。

ひとりは宝満大井と呼ばれ(おそらく宝満山のご神体)、(3)表筒男と結ばれて、大祝氏(高良大社の神官)の祖先となった。

もうひとりの妹は、豊姫と呼ばれ、肥前国で河上明神となった。

 

【解説】

⇒宇佐家に伝わる口伝と併せると、この長男の(3)表筒男こそ、第12代・景行天皇であり、弟の(4)神武天皇と二人三脚で、筑紫や大和を攻めたことになる。

⇒豊姫の名は、卑弥呼の後継者・トヨ(台与)や淀姫伝説ともつながる。

⇒壱岐の島に伝わる『百合若大臣伝説』では、百合若大臣の妻は河上明神として祀られたとあるので、おそらく豊後国・真名野長者の後継者である百合若大臣のもとに豊姫(伝説では輝姫)が嫁いで、いったん両国の和睦が図られたものと思われる。その後、両国は戦闘状態に入ったので、豊姫の没後は生まれ故郷に祀られ河上明神となった可能性が高い。

 

【記述内容】

第17代・仁徳天皇のとき、神功皇后が崩御したので、三種の神器が分割された。

勾玉は高良玉垂こと物部(阿部)保蓮が預かり、宝剣は神功皇后とともに埋葬され、鏡は玄孫大臣という大祝氏(高良大社の神官)の祖先が預かって、鏡山に安置した。

 

【解説】

⇒仁徳天皇が第17代となっているのは、この頃はまだ神功天皇が第15代にカウントされていたからである。それを否定したのは大正天皇。

⇒ここに登場する後継者たちの全員が「宮中から出た」とあるので、ここに九州王朝は滅び、この勢力が中心となってヤマト王政が樹立されたのではないか?

⇒なお、勾玉が隠された場所が、山口県防府沖にある「満珠島・干珠島」と思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E7%8F%A0%E5%B3%B6%E3%83%BB%E5%B9%B2%E7%8F%A0%E5%B3%B6

⇒この2つの宝珠こそウガヤフキアエズ王朝の三種の神器であったので、ここに日向族=高千穂王朝の滅亡は決定的となった。

 

ここで、大変重要な事実が発覚しましたので、コメントしておきます。

 

【ホオリ】とは?・・・・「ヤタの鏡」を預かり管理する家系で、ここから大祝氏や小祝氏が出た。別名を「ハフリ」とも言い、代々継承される役職名である。その起源は、おそらくホオリの命と呼ばれた通称・海幸彦であり、皇位を継承したのが弟のヒコホホデミこと山幸彦。この海幸彦がヤタの鏡を抱いて天岩戸に籠ったという経緯を伝えるのが高千穂神社から発見された蓋石の記述であろう。

 

【スクネ】とは?・・・・「潮満珠・潮干珠」を預かり管理する家系で、ここから武内氏が出た。つまり武内宿禰とは、「武内家から出た宿禰という職位を継ぐ者」のことであり、何代にもわたり複数人居た。

 


彼らの行った施策

【記述内容】

その後、高良玉垂は百済人の捕虜たちに、犬の面を被らせ犬のような舞を踊らせて、いびり始める。

 

【解説】

⇒これが宮中に伝わる「隼人舞」の起源である。

つまり、隼人とは百済人のこととなる。

⇒壬申の乱において、大友皇子(のちの弘文天皇)を支えたのが高千穂王朝(ウガヤフキアエズ王朝)と百済人であり、これに勝利したのが大海人皇子(のちの天武天皇)と新羅人であったと考えられる。

 

つまり、高良玉垂=武内宿禰らと神武天皇・景行天皇の兄弟は、すべて新羅人であるという結論になる。

 

彼らはヤマト王政として政権を奪ったのちは、下記の政策を行った。

 

◆長男・表筒男と神宮皇后の妹・宝満大井との間に出来たのが大祝(おおほうり)氏の祖先とあるが、その後大祝氏は表舞台から姿を消している。

⇒思うに大祝(おおほうり)氏とは、のちの多(おお)氏のことではないか?

ここから太(おお)の安万侶が出て、『古事記』を完成させる。

その分家・阿蘇氏は「阿蘇神社」を開設して高千穂王朝の残党に睨みを利かせるための拠点とする。

また多(おお)氏らは、大分県の国東半島に展開して新羅仏教(天台宗系)の布教を行う。

 

◆安曇磯良の子孫である安曇氏を小祝職とし、諏訪地方に派遣して「諏訪大社」の神官とした。

⇒これが安曇氏が九州から長野に移住した由来である。

 

◆天平勝宝元年牛巳 宇佐八幡宮建立により高良宮は九州の宗廟の司を譲った。

⇒つまり、このときから「宇佐神宮」が彼らの拠点となった。

 


まとめ

以上、速足で解説してきましたので、その真意が伝わっていないかもしれません。

もういちど、ここにポイントを要約します。

 

◆紀元2世紀後半の『倭国大乱』に乗じて、半島から多くの渡来人が九州に押し寄せた。

 

◆神功皇后・武内宿禰こと高良玉垂、安曇磯良、神武天皇、景行天皇などの人物はすべて新羅人、あるいは新羅経由でやってきた同族で、同時代人である。

 

◆彼らは、高千穂~大分にあった「ウガヤフキアエズ王朝」を侵略し、その「三種の神器」の「干珠・満珠」を略奪したので、三韓は恐れをなして戦わずに降伏した。

⇒もともと三韓は、第15代ウガヤフキアエズの時代から日本の属国であったので、半島からみれば「宗主国が交代した」ことになる。

 

◆神功皇后は、「アメノムラクモの剣」を賜って、第15代天皇として即位した。

 

◆武内宿禰は、「干珠・満珠」を賜って、高良玉垂として高良山に祀られた。

 

◆大祝氏の祖先は、「ヤタの鏡」を賜って、鏡山に奉納した。

⇒おそらく、この祖先こそ第12代・景行天皇であり、高千穂王朝(ウガヤフキアエズ王朝)を根絶やしにした(彼らからみれば)大英雄である。

 

◆彼らは、九州から奈良に東征したので、のちに記紀に「神武東征」として描かれる。

この記述は、約300年前に行われたウガヤフキアエズ王朝の「ヒダカサヌ東遷」を参考にして捏造されたフィクションである。

彼らが、奈良に居た東北王朝系=徐福系の崇神天皇の子孫を滅ぼして、あるいは同盟を結び、ここに「ヤマト王政」が誕生する。

 

いかがでしょうか?

「失われた3世紀」が、これでイメージできましたか?

 


追記 2023.4.27付

以上の記述をもとに、紀元後1~3世紀のわが国における「勢力図」を、一覧表にしてみました。

ぜひ参考にしてください。(画像をクリックすると拡大)