瓜生島の沈没と豊後大友氏の滅亡

「そん昔、別府湾には瓜生島(うりうじま)っちゅう大きな島があったんじゃが、一晩で海ん底に沈んでしもうた・・・・!」

そんな言い伝えが、大分県の各地には残っています。

 

ところが、この大惨事を伝える公式記録は存在せず、最近行われた海底地形の調査でも、その痕跡らしきものは発見されませんでした。

はたして、地元の人たちはウソをついているのでしょうか?

 

いやいや、そうではありませんでした。

瓜生島の沈没と、奇しくも時を同じくして発生した豊後大友氏の滅亡。

それは、当時ほぼ九州全土を支配下に収めていた名門一族に対する、豊臣秀吉ら新興勢力による民族浄化だったのです。

 

このとき、大分の経済的な繁栄と伝統文化に対する徹底的な“焚書坑儒”が行われました。

島の存在を伝える公式文書は燃やされ、そもそもそれを記して保管すべき役人たちも追放されて、深い山の奥へと逃げ込みました。

当然、豊後大友家の家訓ともいえる『ウエツフミ』も一緒に姿を消します。

 

大分県人さえ知らなかった衝撃の真実を、後代の子孫たちのために、ここに正確に再現しておきます。

 


瓜生島が沈んだ原因とは?

天下分け目の「関ヶ原の合戦」も終わり、徳川家康による江戸幕府が幕を開けようとしていた慶長9年12月16日(1605年2月3日)、日本全土をM7.9クラスの大地震が襲います。

【慶長地震】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87

 

このとき大分県では、なんとあの鶴見岳が山体崩壊を起こしたのです。

 

もともと鶴見岳の山頂には火口湖があり、満々と水をたたえていましたが、そのお鉢が地震で揺さぶらてフチが割れ、流れ出した土石流が現在の扇山から別府市街を襲い、一気に別府湾内に流れ込んで、そこにあった瓜生島を対岸の三佐地区まで押し流してしまったのです。

 

つまり、瓜生島が沈んだ原因は、大津波ではなく、山体崩壊による土石流であったということです。

どおりで、海底を調査しても、生活の痕跡さえ見つからないはずです。

すべての証拠は、三佐海岸を構成する土砂に埋もれているのです。

 

現在でも山体崩壊の痕跡が生々しく残る扇山 (別府湾から望む)
現在でも山体崩壊の痕跡が生々しく残る扇山 (別府湾から望む)

⇒このとき、瓜生島に祀られていたエビス様(ウエツフミではアマテラスの兄のヒルコのこと)の石像も押し流されて行方不明になったとある。


そもそも鶴見岳とは?

そもそも、鶴見岳は“西の富士”と称されるほど、高く美しい山だったのです。

 

 

その想像図を作成してみましたが、こんな感じでしょうか?

『ウエツフミ』によると、西の富士=鶴見岳と東の富士=富士山との間を、鶴が使いとして往来していたので、「鶴が見える山」という意味で「鶴見岳」と呼ばれたとあります。

もしかしたら弥生時代には、“伝書鳩”ならぬ“伝書鶴”が使われていたのでしょうか?

 

さらに、富士山一帯を統治していた豪族の娘と、第5代ウガヤフキアエズの弟が婚姻関係で結ばれて、東西両日本の守り神となったという記述もあります。

つまり、富士山に豊玉姫伝説が残るのは、この豪族の娘が豊玉姫の血を引く一族だったからなのです。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=23&sno=6

 

あの『九州王朝説』を唱えていた古田武彦先生が、その最大の根拠としていた万葉集に収録された舒明天皇の歌。

⇒【万葉集】https://art-tags.net/manyo/one/m0002.html

先生は、そこに出てくる天の香具山を「由布岳」であると断定したのですが、残念ながら「鶴見岳」であった可能性が高いのです。

 

おそらく当時は、海抜2,000mを越えていたであろう古代鶴見岳(現在は1,375m)、そこから見下ろす四国地方は、トンボが2匹交尾するときの形をした「蜻蛉島」に見えたことでしょう。

【写真左】交尾する2匹のトンボ 【写真右】九州上空から見た四国の航空写真

 


瓜生島伝説と幸松家

幸松葉枝尺(さきまつはえさか)は、江戸末期から明治にかけて『ウエツフミ』の研究に一生を捧げた国学者ですが、なんとその祖先は瓜生島(うりうじま)の領主だったのです。

 

その詳細が、明治時代に田近長陽(大分県竹田市の国学者)が書いた『高千穂古文字伝』という書物に記されています。

著者の田近と幸松は、同じく竹田市出身の内藤平四郎という共通の友人を通じて知り合った“ウエツフミ研究仲間”でした。

 

『ウエツフミ』の話はさておき、ここに瓜生島が沈んだ経緯が詳しく記されていますので、ご紹介しておきます。

 

『高千穂古文字伝』    <筆者による現代語訳>

幸松家は、最も古い家柄で、景行天皇の御代に国造(くにのみやっこ)でしたが、「郡懸の制度」に改編されたときからか、瓜生島(うりうじま)の全島を領して、大友家の領分になっても、依然としてその島の領主でした。

「この島に仏を入れれば島が沈没する。そのときはエビスの神の石像の顔が赤くなる。」という言い伝えが古くからあったのにもかかわらず、いつのまにか2つも寺ができてしまいました。

⇒エビス様とは『ウエツフミ』ではイザナギとイザナミの最初の水子であったヒルコのこと。

幸松家のなかにも甚だしく寺を拒んだ人が居り、島民も(仏教が入って来るのを)快く思っていませんでした。

一人の老婆があり、毎日エビス様の社に詣でてそのお顔を拝んでいると、ある漢方医が「そんなハズはない、試してみよう」と、薬に使う「丹(に)」を持って行き、神様のお顔に塗ってしまいました。

老婆がいつものように拝みにゆくと、そのお顔が真っ赤に染まっていたので、驚いて「島は今沈むぞ!早く立ち退け~!」と島民に警告しましたが、医者のイタズラだと分かって驚く者も居ませんでした。

まさにそのとき、あの「慶長の大地震」(1605年2月3日)が発生します。

鶴見岳が崩壊して、瓜生島を残さず突き流し、3~4里東側の海にまで持って行き、今の「三佐の地(大野川河口の砂州)」を造りました。

寺を造ることを拒んだ幸松某は、海に漂っているところを手を取って引き上げる者があり、かろうじて今は大分港になった小山で、当時は島だったところに助け上げられましたが、所領は全て無くなり、なすすべも無い状態でした。

府内の城主であった名家がこれを憐れみ、今のお堀のある「船頭町」あたりは当時砂浜だったのですが、ここを領地として与え、ここで製塩業を起こして、塩田のかたわらに自宅を設けて屋号を「塩屋」という平民になりました。

現在(明治時代)の堀川町や今在家という地名は、東南の角屋敷の跡であり、主人を幸松柳吉といいますが、その後、この子孫たちも次々に廃れ、幸松葉枝尺はその分家にあたるといいます。(後略)

『菟名足尼風土記』には、「菟名手」という地名があり、仏を拒んだ人の名前は「系図」にあったが忘れました、エビスの神の石像は今は沖の浜に鎮座しているといいますが、本当にあるかどうかは分かりません。


つまり、瓜生島はもともと菟名手=ウナテ国と呼ばれ、風土記まで存在していたことになりますが、この風土記とともに、「瓜生島伝説」も今はかき消されてしまったのでしょうか?

 

下記のブログによると菟名手=ウナテは、孝霊天皇⇒吉備津彦の子孫であるとされていますので、北海道から「エビス信仰」を携えて大分に渡って来た北方系民族であるという解釈もできます。

【参考ブログ】http://enkieden.exblog.jp/24044140/

 


瓜生島には一体何があったのか?

私の研究するウエツフミのなかにも、瓜生島に関する記述がたびたび登場します。

 

この書物が書かれたのは、鎌倉時代の1200年頃であり、当時はまだ瓜生島は存在していたはずですから、『ウエツフミ』の編集者たちも、この島を意識しながら執筆していたに違いありません。

 

そこには、大きく分けて下記の2つの重要な機能があったのです。

 

(1) 大分県最大の港湾機能

現在の大分市街地のほとんどは、昔は湿地帯であり、あるいは遠浅の砂浜でした。

だから、大型の船舶は、この瓜生島に係留されていたのです。

豊玉姫をはじめ、歴代ウガヤフキアエズの命に至るまで、遠洋航海に出るときは、ここ瓜生島から出航しています。

現在の野津原から雄城台にかけてあったと思われる当時の首都は“オオキタの宮”と呼ばれ、ここから小舟で大分川の河口沿いに瓜生島に渡り、そこに係留してあった大型船に乗り換えて、全国巡幸の旅に出て行く様子が生々しく描かれています。

 

(2)エビス信仰のメッカ

瓜生島の中心には、大きなエビス様の石像が鎮座していたことは、多くの伝承が伝えています。

ところが、ウエツフミのユニークな点は、このエビス様とは、商売繁盛の神様ではなく、アマテラスの兄のヒルコであり、しっかりとした教義を伝えたと記されていることです。

 

特に、第11代・ウガヤフキアエズの命(幼少名マガキツルヒコ)は、鶴と亀に導かれて北海道に渡り、そこでエビス様に会って、直々にその教えを伝授されたので、さっそく伝道師集団を組織して全国に布教の旅へと送り出しました。

このことは、以前にも書いていますので、さらに詳しい解説はこちらから。

⇒【過去記事】エビス信仰を広めた天皇のお話し

つまり、瓜生島はエビス信仰のメッカだったのです。

 

その聖地が海底に沈んでしまったということは、1600年頃、大変大きな歴史の変換点を迎えたということになります。

 


結び----瓜生島沈没と大友氏の関係

江戸時代を迎えるまで、大友家による大分県の統治はなんと400年間も続いていたのです。

 

徳川家による江戸幕府の全国統治が、わずか250年であったことに比べると、この長期安定政権は驚異的な記録です。

 

豊後大友氏は、この400年の間に着々と勢力を伸ばして、ほぼ九州全土を支配下に収めるほどの大大名に成長していました。

ちなみに、九州全土の石高(米の生産量)を合計すると、約300万石に達していたという試算もあり、徳川御三家を全て合算してもたかだか150万石の、約2倍の巨大勢力であったことになります。

 

このように、戦国時代には天下を脅かすほどの一大勢力であった大友家、だからこそ天下統一を目指す織田信長や豊臣秀吉から見れば“目の上のたんコブ”であり、大友家を無視しては、天下統一は図れなかったといっても過言ではありませんでした。

 

だからこそ、潰されたのです!

豊臣秀吉による『バテレン追放令』は、南蛮貿易により着々と蓄財していた豊後大友家に対するあからさまな嫌がらせでした。

 

その後、大友家自体も豊前・豊後国から追放されて、大分市を中心とする「府内藩」は、他国から赴任してきた“よそ者”による統治が長く続いたのです。

 

かつては“豊の国”と呼ばれていた、この肥沃な土地を欲しがったのは、近隣の毛利氏であり、細川氏であり、長曾我部氏であり、そして薩摩の島津氏でした。

 

いわば、江戸時代の250年間とは、大分県民からみれば「周辺大名による分割統治と略奪の歴史」でもあったのです。

 

その始まりを象徴する大事件が、「鶴見岳の山体崩壊」と「瓜生島の消滅」であったということは、神々の世界においても、なんらかの大きな政権交代が起こっていたのかもしれません。

 

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コメント: 2
  • #1

    瓜生島 (木曜日, 07 7月 2022 12:45)

    幼少期に祖父や父から瓜生島の話しを聞いたのを思い出しました。
    瓜生島という名がこの島から由来しているのかは今となっては定かではありませんが当時、新聞の記事と共に聞いた話しは昔話しと思えない程リアルなものだったと記憶しています。
    いつか科学的にも立証される事を願ってやみません。

  • #2

    MIX (水曜日, 30 11月 2022 12:45)

    何十年か前、別府湾の国道十号線近郊の海底から松の木の群生と思われる痕跡が見つかった。”瓜生島の証明か?”といったニュースがあったと記憶しています。大分県民にとっては瓜生島は心に残る幻の島ですね!