宮下文書による国常立の降臨

クニトコタチはわが国初の渡来人か?

わが国に初めて渡来した大陸人は徐福であるとされており、その時代も紀元前3世紀前後であることがほぼ定説となってきました。

しかし『富士宮下文書』では、「徐福よりはるか以前に、国常立が渡来して、富士宮王朝を開いた」と記されているのです。

もしもこの記述が正しいとすると、国常立の祖先は中国伝説の“三皇五帝”であることになりますが、これは古代史研究者のあいだでも大きな議論となりそうです。

 

これまで誰も取り上げることのなかった『富士宮下文書』。

徐福自身の手記をもとに編纂されたとされるこの謎の古文書について、私なりの所感をまとめてみました。

 

ポイントは、『古事記』『日本書紀』『ウエツフミ』などの全ての文献が、クニトコタチに関するこの記述をことごとく無視したことです。

つまり、聖徳太子の時代から、この記述を疑問視する声が大勢を占めてきたということであり、おそらく「秦氏だけが声高に主張してきたこの史観」に対しては、逆に多くの反発を生む結果となりました。

ところが明治維新になってから、秦氏が復権するに及んで、その極秘の記述内容が明るみに出てきたということでしょうか?

 

まずは、そこに何が書かれていたのかを、私なりのダイジェスト解説により、速足で見てみましょう。

 


宮下文書による国常立降臨神話

『富士宮下文書』には、クニトコタチが大陸にあった高天原を出発して、富士山にたどり着くまでの経路が詳しく記録されています。

そのルート図まで添付されていますが(画像参照)、おそらくこれは大正10年に三輪義凞なる人物が、その現代語訳である『神皇紀』を出版するにあたり新たに書き加えたものと思われます。

 


まず富士宮下文書『神皇紀』の記述内容を、要約してみます。

【原文】国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

『神皇紀』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674


<要 旨>

◆ある日、クニトコタチの父であるタカミムスビ(日高見神第15代)は、クニトコタチとその弟クニノサツチ兄弟を呼び寄せてこう告げた。

「日の本なる海原に(大陸から見て日の昇る方角である東方沖の海中に)、この世に二つとない美しい姿をした蓬莱山がある。おまえたちのどちらか、この国に降臨して、蓬莱国(とこよのくに)を治めよ!」

 

◆まずクニトコタチが、父の命令通りに数多くの神々を率いて、蓬莱山の噴煙を目指して降臨した。

 

◆ところが何日経っても音沙汰が無いので、父は心配になり、今度は弟のクニノサツチを降臨させることにした。

 

クニノサツチは、下記の経路で蓬莱山=富士山に到着する。

高之天原⇒大海原⇒ツク島(対馬に到着)⇒ユキ島(隠岐の島を通過)⇒(途中でツクチミ島=九州が見えた)⇒(黒鳥に導かれて)佐渡島に到着⇒能登(徒歩でとあるので当時佐渡と能登は陸続きだった?)⇒加賀(しばらく滞在して多くの食料を調達できたので、それを祝い加賀と名付けた)⇒因幡(多くの稲が生えていたので稲場)・若狭・丹波(田に行く道があるので田路場)・播磨(釣りを行ったので針美)などで食料調達⇒飛騨(ここから蓬莱山が見えたとある)⇒木曽路⇒三河野⇒駿河野(蓬莱山の裾野に8年滞在)⇒大原野(穴宮の大御宮)

 

◆彼らは河口湖畔に都【不二山中央高天原阿祖谷】を構えて、富士山一帯の東西南北を支配した。

 

◆父のタカミムスビも富士山に降臨したが、クニトコタチが見つからないので衰弱して到着後1500日(約4年)にして亡くなった。ここに葬られて「天之神農氏神」と称された。

⇒つまり中国伝説の神農(農業と医療の神様)とは、タカミムスビのことであることを暗示している。

 

◆一方、兄のクニトコタチは、本島(本州)と南島(四国)の間の小島(淡路島)で迷子になっていた。

 

◆やっと富士山に到達して弟と再会できたが、「自分は妻子や家来を淡路島に残して来たので、この島に帰って西国を統治する!」といいだし、国の重要事項だけは富士高天原に集まって協議することにした。

 

◆富士山の西側と北側はクニトコタチが統治し、東側と南側は弟のクニノサツチが統治することになった。だからこの国を「四季島」と呼ぶ。

 

◆ところが、越の国(北陸地方)で反乱が起こったので、丹波国の米原に陣地「桑田の宮」を構えて鎮圧にあたるが、クニトコタチはこの桑田の宮で亡くなる。

 

◆クニトコタチは深く「農民神」を信仰して、その普及に勤めた。

⇒ここで「農民神」とは誰のことを指しているのかは不明だが、父のタカミムスビが「天之神農氏神」と称されたことから、「神農」のことではないかと思われる。

 

◆クニトコタチには二人の子供があり、息子は阿和路比古尊(別名トヨクモノ?)と呼ばれ、淡路島を治めた。娘は白山姫と呼ばれ、イザナギと結婚してイザナミとなった。


河口湖畔にあったとされる富士宮跡(神皇紀所蔵)
河口湖畔にあったとされる富士宮跡(神皇紀所蔵)

さてさて、いかがでしょうか?

おそらく、私の推測では紀元前10世紀頃、大陸からやってきたクニトコタチ・クニノサツチ兄弟の伝説と、紀元前3世紀頃、大陸からやってきた徐福の伝説とがひとつになって、現在に伝わっていることが、これで明確になってきました。

 

『富士宮下文書』とは、徐福とその子孫たちが、膨大な資料をもとに(そのリストまで記されている)わが国の古文書や伝承を徹底的に研究して、詳細に記録したもうひとつの古代史です。

しかも、徐福は中国宮廷の記録係を代々務めた家系ですから、自分たちの祖先に関する記録を間違える可能性は少ないと考えられます。

 

ただし、あちこちの記述の中に、自分たちと天皇家とのつながりを示すほんの小さなフィクションを放り込んできたことも否定できません。


それはいつ頃の出来事か?

私の推定では、ズバリ紀元前10世紀頃の出来事であると特定できます。

 

なぜなら、『ウエツフミ』の中にも「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったので、タケミカヅチにより懐柔された」という記述があるからです。

 ⇒【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=8&sno=19

 

つまり、このカカシツツノオこそ、クニトコタチの開いた富士宮王朝の(当時の)首長だと考えられるのです。

ウエツフミに書かれた天体の配置から、ニニギの天孫降臨は紀元前8~9世紀頃の出来事だと解されるので、クニトコタチはそれ以前に渡来していたハズです。

 

ちなみに、“ツツ”はウエツフミでは星を意味し、“カカシ星を信仰する一族”と解釈できますが、このカカシ星が北極星のことを指すのであれば、中国を起源とする「北辰信仰(妙見信仰)」の信奉者だと断定してもよい思います。

なぜなら『ウエツフミ』を伝えてきた日向族には、北極星信仰のみじんもないからです。

 

クニトコタチの祖先を、私の推測通り中国伝説の“三皇五帝”のうちの、神農であるとすれば、紀元前2~3000年頃に中国大陸で開花した黄河文明の始祖であることになります。

 

一方徐福については、“三皇五帝”のうちの【黄帝】(軒轅氏)を始祖とするとはっきり書かれており、系図まで残されていますので、クニトコタチと徐福とは、時代は違えど始祖と思想を同じくする同族だと断定してもよいと思います。

 

以上を時系列順に書き直してみると・・・・

 

紀元前2~3000年頃 中国大陸に三皇五帝が発祥

紀元前1000年頃 その子孫であるクニトコタチがわが国に渡来して富士宮王朝を開く

紀元前800年頃 その子孫であるカカシツツノオタケミカヅチと衝突

紀元前2~300年頃 その子孫である徐福がわが国に渡来、富士宮で孝霊天皇と面会して奈良に遷都する

⇒私の過去記事はこちら

紀元元年頃 日向族のヒダカサヌが奈良に東征し富士宮王朝を倒す?

紀元後2世紀 倭国大乱

紀元後3世紀 再び渡来系の崇神天皇・景行天皇・神功皇后・応神天皇らがわが国を征服

 

ところが、わが縄文人の起源は、これよりはるかに古いのです。

おそらく紀元前1万2000年頃、氷河期が終わりを告げ、地球全体がまるで春の時代を満喫していた頃から、縄文人たちは世界各地に進出していた痕跡を残しているのです。

 

ほぼ間違いなく、クニトコタチが渡来したとき、わが国には既にアメノミナカヌシを開祖とする「日高見国」が存在していました。

『富士宮下文書』さえも、この時代を「天之御中世 火高見神 十五代」としており、火高見は現在の日高見であり、その時代は15代続いていたとしているのです。

⇒日高見国に関する私の過去記事は、こちら

 


この記述の信ぴょう性

『古事記』や『日本書紀』が、クニトコタチに関する記述をあっさりとスルーしてしまったのは、「それは外国の神様であり、日本人の祖先では無いでしょ! しかも徐福がそう書いているだけだし・・・・」という思いがあったのかもしれません。

 

そういわれてみると、『宮下文書』の記述にはおかしな点がいくつも存在します。

例えば、下記のとおり。

 

◆富士宮王朝の創始者は、弟のクニノサツチであり、クニトコタチをあえて称するならば「淡路島王朝の創始者」です。

本来は脇役のハズのクニトコタチを必要以上にフューチャーして、「富士宮王朝の開祖」としていることはいかにも不自然です。

例えば、先に引用した「ルート図」も、クニノサツチのものであり、クニトコタチが迷ったルートは点線で書かれています。

ここに「変なトリックをブッ混んできたんじゃないの?」という疑惑さえわいてきます。

⇒素直に読めば「すでに淡路島を支配していた本物のクニトコタチを、富士山に渡来した大陸人が滅ぼした」と解釈したほうが自然か?

 

◆父のタカミムスビの死後、「天之神農氏神」という称号が与えられており、これはいかにも中国伝説の「三皇五帝」のうちの「神農」を連想させます。

ちなみにクニトコタチ自身も諡を「農立比古尊」といい、この一族の本名にはすべて「農」の字が付きます。

つまり、タカミムスビもクニトコタチも徐福も、みんな三皇五帝の子孫であるというのが、『富士宮下文書』の核心をなす史観なのです。

 

◆さらに、クニトコタチの死後は、(イザナギにより)「豊受大神」と称されとあります。

つまり、神農の子孫が豊受大神になったと言いたいようなのです。

全く笑止千万ですよねえ。

失礼ながら富士山の裾野も淡路島も、農業を始めるにはおよそ不向きな不毛の土地であったことは、みなさんもお気づきのことと思います。

「えーっ、逆じゃないの?豊受大神が中国に渡って神農になったんじゃないの?」と私は思うのですが、その詳細はのちほど。

 

◆この記述によると、クニトコタチとその跡を継いだイザナギは、赤の他人同士だということになります。

クニトコタチの娘「白山姫」が、イザナギ(クニノサツチの子)に嫁いで「イザナミ」と称されたと書かれていますが、娘婿に皇帝の座を譲ってしまったということでしょうか?

ちゃんとアワジヒコという男子があるのに、なぜ赤の他人に???

 

◆さらに、その直前にイザナギの出身地「越の国」では、淡路島王朝に対する反乱が起こっていることに注目。

つまり、クニトコタチの「淡路島王朝」とイザナギの「越王朝」の間では戦闘状態となっており、それが原因でクニトコタチが米原で戦死したとも解されるのです。

すなわち、イザナギは戦利品として白山姫(日本ではククリ姫とされているが、もしかしたら高句麗姫?)を略奪して、クニトコタチの本拠地であった淡路島から新しい国造りをスタートしたという解釈も可能です。

 


私が導き出した結論

以上の考察から、私が導き出した結論は、下記のとおりです。

 

(1) どうしても日本人になりたかった中国皇帝の末裔(自称)クニトコタチは、弟の(自称)クニノサツチとともに日本に渡来して富士宮王朝を開いた。

 

(2) 当時、日本の東北地方には天之御中主が開いた日高見王朝が存在していたが、おそらく国力が衰退して、越の国の新興勢力「イザナギ王朝」に取って変わられようとしていた(推測)。

⇒徐福も、日高見国に触れて「天之御中世 火高見神 十五代」と書き記している。

⇒日高見国に関する私の過去記事は、こちら

⇒その頃、九州はやっと「喜界カルデラの大爆発」による無人島状態から回復しようとしていた。

 

(3)(自称)クニトコタチの占領地・淡路島は、イザナギにより滅ぼされ、その娘・白山姫は本国(黄泉の国)に逃げ帰ってしまったので、イザナギは結界を貼って彼らの再来を防いだ。

 

(4) 数百年後、その末裔である徐福は、富士宮王朝を訪れ、当時(富士宮の)皇帝であった第7代孝霊天皇と面会して、全面支援を約束する。

この密約がのちにヤマト王政の母体となる。

⇒その詳細については、過去にも書いていますので、こちらから。

 

(5) 徐福は、あまり有名でなかった日本の神様・クニトコタチと、自分たちの祖先・農立比古尊を同一人物とみなして、独自の神話を創作したが、のちの藤原不比等や太安万侶ら記紀の作者は、この説を採用しなかった。

⇒本来は霊界にあって姿の見えない神様と、人間界に実在した人物とを同一視するこの手法は、渡来人による「背乗り」などの“なりすまし詐欺”に利用されることも多い。

 

(6) 聖徳太子が提唱した『先代旧事本紀』の編集会議においても、秦河勝のみがこの史観を主張したが、蘇我氏、中臣氏、物部氏、卜部氏、忌部氏、アチ氏、出雲氏、三輪氏などの編集委員たちは、この主張を退けた。

⇒私の過去記事は、こちら

 


彼らはなぜ日本人になりたかったのか?

そのことを説明するためには、あらためて徐福について触れておく必要があります。

 

徐福は、「仙人たちが住む蓬莱山を訪れて、不老不死の妙薬を入手して、秦の始皇帝に献上したかったので日本を目指した」というのが通説となっていますが、実は、決して語られることのなかった本当の動機があったのです。

 

そのことを暴露しているのが、なんと徐福自身が書いたとされる『富士宮下文書』なのです。

 

そこには、こうありました。

「東海の蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山は、全世界の大元祖国にして、大元祖々の止まれるあり、且つ不老不死の妙薬あり。」

【原文】280コマ、P507参照 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674

 

つまり、日本の国こそ、世界中の人類諸民族の「大元(大本)」であり、「祖国」なのだと言っています。

さらに、その人類を創造した「祖神」が、現在も生き続けている国だともあります。

 

これこそ最も重要な記述であり、「神仙思想」の根源は日本国から発せられていることになります。

 

そういえば、神仙思想の中核をなす様々な教え、例えば陰陽五行思想や本草・鍼灸などは、ウエツフミに書かれた日本の神々が伝えた内容とうりふたつなのです。

 

あとは、「どちらが先で、どちらが後か?」の問題であり、それはその時々のお国の経済力、つまり力関係次第であるということなのです。

 

この徐福の“日本礼賛発言”を聞いたら、現在の中国共産党の大幹部や習近平主席は、ただちにこの部分を削除してくると思います。

「徐福こそ、始皇帝の黄金を持ち逃げして、日本国へ亡命した、祖国に対する裏切り者である!」と・・・・

つまり日中関係の主客逆転現象を誘発しかねない超危険な記述なのです。

 

そういえば、習近平が国家主席に就任する直前に、なんとも奇妙な事件が発生したことを覚えていますか?

彼は、こともあろうことか日本政府を飛び越えて、直接平成天皇に面会して、おそらく自分が主席になることを“根回し”しているのです。

【参考】2008年「天皇特例会見」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%89%B9%E4%BE%8B%E4%BC%9A%E8%A6%8B

 

つまり、日本発の「神仙思想」は、現在も脈々と中国の指導者たちに継承されていることになります。

 

とすれば、クニトコタチや徐福らにとっても、自分たちの祖国である日本を目指してやってくることが、究極の聖地巡礼であり、その意味でこれは「大東亜シオニズム」と呼んでもよいかと思います。

 

『富士宮下文書』のなかにも、天之御中主、つまり天津日嗣の大御神の御紋章は「日輪に16筋の光明」をあしらったものだと書かれています。

それは、日本人の祖神たちが全世界の16の方向に散って、文明を伝えていったからであり、現在も皇室の16花弁の「菊花のご紋章」として継承されているのです。

 

そのことを正々堂々と取り上げているのが『竹内文書』なのですが、偽書というレッテルを貼られて、何かとスキャンダルの多いこの書物、いつかはその解説にもチャレンジしてみたいと考えています。

 

最後に、私の推測が正しいかどうかは、当のご本人である「国常立尊神」に聞いてみるしかないと思います。

興味のある方は、この神様が祀られている「御嶽神社」や「御嶽山」をぜひ訪れてみてください!

 


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コメント: 5
  • #1

    高瀬妙子 (木曜日, 16 9月 2021 16:03)

    面白いです❣️興味深く読ませていただきました!また来ます。

  • #2

    高橋 (金曜日, 17 9月 2021 01:41)

    「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったので、タケミカヅチにより懐柔された」

    紀元前800年頃 その子孫であるカカシツツノオがタケミナカタと衝突

    タケミカヅチ
    タケミナカタ

    打ち間違いですか?
    それとも、二人とも居た、ということですか?

  • #3

    古代子孫 (金曜日, 17 9月 2021 18:18)

    タケミカヅチ
    タケミナカタ
    どちらも神様ですよ 本当にいたのかと問われればお会いした人は最近の人ではいないでしょうから分からないと答えるのが正しいですね
    本題に戻れば文献?上ではいらっしゃったと言えますね。打ち間違えではないですね。
    外野から失礼しました。

  • #4

    高橋 (土曜日, 18 9月 2021 03:17)

    なぜなら、『ウエツフミ』の中にも「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったので、タケミカヅチにより懐柔された」という記述があるからです。

    このあたりは、タケミカヅチからカカシツツノオが逃げて、最後に
    機織神(名前、失念)につかまって、石になったという話があるのですが、

    紀元前800年頃 その子孫であるカカシツツノオがタケミナカタと衝突
    と、成っているので、

    タケミナカタ(も)、
    カカシツツノオと衝突したという、ことになるのですが、
    立場的に
    タケミナカタはタケミカヅチに
    追われていたわけですから、
    双方でカカシツツノオをおっていたということになるのかなあと
    思ったわけです。

    最近、籠神社のほうから
    三六九神示(?)とかということで、
    タケミカヅチが「饒速日」であった。
    ということを、言っているのですが
    カカシツツノオと衝突したのが
    タケミナカタであるのなら納得するところがあるのです。

    管理人様の記事で
    以前
    「美穂須々美」がタケミナカタであるという話があったと思うのですが・・・
    これは、火明(ほのあかり)の別称として
    火進(ほすすみ)というのがある。
    と、いうことで、
    火明=「御」火進=みほすすみ=饒速日
    と、考えるのですが、
    一般的には
    みほすすみ=タケミナカタ
    と、考えられている。

    紀元前800年頃 その子孫であるカカシツツノオがタケミナカタと衝突
    と、あるのなら、
    タケミカヅチにぬりかえられているということになる。

    が、
    『ウエツフミ』の中にも「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったので、タケミカヅチにより懐柔された」

    と、あるので、

    (出雲)国譲りの時にもでてきているタケミカヅチが
    **大国主神は、国を天津神に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主神は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪大社上社の祭神)は、建御雷神に力比べをもちかけるも、手づかみの試合で手をつららや剣に変身させ、怯んだ建御名方神はその隙に一捻りにされたため、恐懼して遁走し、科野国の洲羽の湖で降伏した。これによって国譲りがなった***
    カカシツツノオを
    ニニギノミコトのために、懐柔したのか、

    『ウエツフミ』の中にも「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったが、タケミカヅチにより懐柔された」
    なのか?
    (別途、タケミカヅチ(高天原族?)が懐柔したのか)

    つまるところ、
    ウガヤフキアエズ王朝以前の話になるところでしょうけど

    タケミカヅチとタケミナカタの二人の名前が出てきているので
    国譲りの時に争った二人が、
    カカシツツノオとそれぞれ、争う?(一方は懐柔だけど)という立場にいたのが
    ちょっと、うまく、理解できていません。

    一方で、高天原で、
    スサノオが「機織女」を死なせてしまっている
    ことやら
    カカシツツノオが「機織神」には、つかまっていること。
    そして、
    この機織姫にあたるのが
    『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記される。

    神名は「萬幡」を「多くの布帛」、「豊」を「多く」、「秋津」を「蜻蛉の羽のように薄い上質なもの」、「師」を「技師」(織女)と解し、名義は「多くの布帛で、多くの蜻蛉の羽のように薄い上質なものを作る技師」と考えられる

    まだ、調べ中ですが
    キーマン(キーウーマン)と思えるのです。

    カカシツツノオにしろ
    国常立にしろ
    スサノオにしろ
    「なにかしら」の「追放」「封印」「捕囚扱い」
    スサノオは爪をはがされて・・・とある。

    国常立は
    ひふみ神示や、王任三郎などによって、
    だいぶ、解き明かされているようで、
    御神体は「日本国土」だといわれています。

    このことからも、
    かなり、古い神であるという事が判るのですが
    (一方で、霊的(神的)姿は八本の角があり・・とか。
    旧事本記に書かれていることは、
    神武~応神までの天皇にも角やしっぽがあったという)

    神武~応神までの天皇にも角・・
    というのは、
    国常立にあやかった
    本当の日本の血統だといいたいのかもしれない。

    その段では無かろうかとも思う反面、
    籠神社が、三六九神示(?)で
    武御雷を饒速日であるという
    根拠を探している。
    (個人的には、違うと思っているが
    なぜ、そういうことを言えるのかというのが
    ここにある、
    「富士山のふもとにはカカシツツノオという地元豪族がいて、ニニギの天孫降臨にまつろわぬ一族だったので、タケミカヅチにより懐柔された」
    と、いうところで、
    国常立をも懐柔できるのは
    「饒速日」である証拠だと籠神社(三六九神示)は、いいたいのかなあ?
    と、首をかしげているしだいです。

    ******
    まとまっていない文章で申し訳ないのですが
    神が居たか、居なかったかという
    論点で尋ねていたわけではありません。

    二人ともが、
    カカシツツノオと接点があったという事が
    時系列として
    理解できていなかった。
    と、いうことですね。

  • #5

    管理人 (土曜日, 18 9月 2021 07:29)

    すみません、私のミスでタケミカヅチとタケミナカタを書き間違えてしまいました。「タケミカヅチ」が正解で、すでに修正してありますが、多くの方からのご指摘ありがとうございました。