さてさて、神武天皇に滅ぼされたはずのナガスネヒコでしたが、その後、この一族はどうなったのでしょうか?
完全に滅びた訳ではなかったようです。
それどころか、「大和王朝」の基礎を作った可能性も出てきました。
ナガスネヒコでピンと来ない方は、まずこちらで予習しておいてください。
津軽に存在したアラハバキを信仰する一族
ナガスネヒコと津軽との関係とは?
この古文書のなかに興味深い記述があるのです。
「ナガスネヒコは死んでおらず、兄の安日彦(アビヒコ)とともに津軽に渡り、津軽の土着民であった、阿蘇辺族、津保化族と併合して、荒吐族となった。」
というものです。
添付の画像は、この古文書のなかにある挿絵ですが、「長脛王」と「阿蘇辺王」が向かい合っており、その背後に「津保化王」、遠くから「安日彦王」が手を振っています。
つまり、この四王が連合して「日乃本国」を作ったことを象徴しているのです。
もっと具体的には、「神武東征の約50年から100年後に奈良の土地を奪回し、第8代・孝元天皇、第9代・開化天皇として返り咲いた。」と書かれています。
ちなみに、彼らの住んでいた奈良の土地こそ「邪馬台国」であると主張しています。
この荒吐族が、のちに安倍比羅夫から姓を贈られて「安倍一族」と呼ばれるようになります。
縄文系王朝とは何か?
つまり、「大和王朝」のルーツは、津軽で繁栄した縄文人たちの末裔「荒吐族」であり、
これがウガヤフキアエズ王朝の「日向族」を滅ぼしたという、大胆な仮説が生れます。
南北朝時代から続く「北朝」と「南朝」の対立とも関係がありそうですが、
混乱するので、ここでは古代史に絞って「縄文系王朝」「弥生系王朝」と呼ぶことにします。
日本の歴史とは、この二つの勢力が上になったり下になったりの繰り返しで、それが現在まで続いていると考えられます。
だから、「征夷大将軍」という役職が登場したときには、再び「弥生系王朝」が政権を奪還したとみることもできます。
さらに、明治維新から現在に至るまでは、「縄文系王朝」が政権を掌握している可能性が高いのですが、証拠が無いのでここではあまり詮索しないことにします。
縄文系王朝の特徴とは?
(これは私の独断と偏見ですが・・・・)
最大の特徴は、縄文人の血筋が濃いということです。
つまり、狩猟文化を中心とする、やや好戦的な性格を持っているということです。
だから、源氏や八幡神信仰もここから生れました。
以前にも書きましたが、最新のDNAに関する研究により、縄文人とは「ユダヤの失われた十二支族」のうちの一部族である可能性が高くなってきました。興味のある人は、こちら。
だから、古代ユダヤ文明やシュメール文明との共通性が顕著なのです。
ここから「日ユ同祖論」も生れましたし、キリスト教との関連が強いことも特徴です。
そういえば、津軽には「キリストの墓がある」という伝説もありますよねえ。
さらに、「アラハバキ」とは、古代シュメールの神・アヌンナキ(人類の創造者)とする説もあります。
逆に、弥生系王朝のほうは、海神を信仰する海洋民族(海彦)と農耕民族(山彦)とのハイブリッドですから、どちらかというと温厚さと従順さが特徴と考えられます。
ナガスネヒコ⇒アラハバキ族⇒大和王朝説の再検証
もういちど、ナガスネヒコが津軽に渡り「アラハバキ族」となった可能性の検証に戻りますが、これは充分に考えられます。
まず、ウエツフミの記述から検証してみますと・・・・
◆ナガスネヒコを滅ぼした神武天皇=日高サヌは、こともあろうかナガスネヒコの土地に遷都しています。
これがのちに『神武東征』と呼ばれます。
つまり彼らが逆襲してきたらひとたまりもない土地に住みついてしまったということです。
先住民のほうが地勢や人脈に詳しいのは当然ですよね。
⇒このときに、ナガスネヒコたちの歴史を抹消したため、邪馬台国が幻となってしまった可能性があります。
◆ナガスネヒコの七男を逃がしたこと。
ナガスネヒコ本人は自殺し、兄のシキ太郎もタギシミミの命に討たれたとなっているのですが、その七男・髓田輪之男郎(スネタワノオロ)は無罪放免されていますので、東北に逃げた可能性は充分に考えられます。
この人物が、津軽では「長脛王」となっても不思議ではありません。
◆神武東征のとき、蝦夷たちは陸奥の黒川(宮城県黒川郡?)に居たと書かれていますので、陸奥の津保化族と重なってきます。
ただし、このときはウガヤフキアエズ王朝におとなしく従っていたようです。詳しくは、こちら。
◆ウエツフミの記述が、「神武東征」のあと、突然に終了していること。
これはウガヤフキアエズ王朝が、何の前触れもなく、不意に滅ぼされたことを意味しています。
◆その後の歴史から、ウガヤフキアエズ歴代の天皇に関する記述がキレイに削除されてしまったこと。
これは、ウガヤフキアエズ王朝に強い恨みを抱くものが、その後政権を握ったことの証拠です。
◆ちなみに、ナガスネヒコがニギハヤヒの正統な子孫であるとするならば、ナガスネヒコも弥生人系であることになります。外国人に利用されただけということでしょうか?
ウエツフミはこれを否定していますが、ここは残念ながら証拠が少ないので、水掛け論となります。
詳しくは、こちら。
新羅との関係
さらに、これは極端な解釈ですが、「安日彦(アビヒコ)」とは、『古事記』にも登場する「天の日矛(アメノヒボコ)」であると解すれば、もっと明確になります。
つまり、「安日彦」とはナガスネヒコの兄のことではなく、かつてナガスネヒコと手を組んでウガヤフキアエズ王朝と戦った新羅の王族であるという意味です。
なぜなら兄のシキ太郎は、既に死んでいるからです。
つまり安日彦=天の日矛は、天皇家の祖先のひとりなので、正史である『古事記』にも、(外国人にもかかわらず)取り上げざるを得なかったということでしょうか?
仮に兄が生きていて、安日彦であったとしても、彼らは十三湊に漂着した中国人の子孫の白蘭、秀蘭を娶っていますので、外国人の血が入っていることは間違いありません。
⇒こちらの資料が分りやすい。
最初はナガスネヒコの子孫が皇位に就いていたのですが、いつのまにか外国人勢力が皇室に入り込み、第12代・景行天皇、ヤマトタケル、神宮皇后(帰化人)、竹内宿禰らの時代になってから、花を咲かせたということでしょうか?
正統な皇孫の仲哀天皇は暗殺され、神宮皇后が天皇に即位して、母国・三韓に凱旋帰国しています。
詳しくは、こちら。
そう考えると、大和王朝と新羅、中国との強い連携関係も明白になってきます。
要するに、「蝦夷」=「新羅」=「中国」が津軽に集結し、共に手を組んで「大和王朝」を誕生させたということになりませんか?
彼らに共通しているのは、古代ユダヤから発祥しているという共通認識です。
だから、ここで弥生時代が終わり、古墳時代(=ピラミッド文化)が始まることになるのです。
まとめ
さてさて、それでは以上を、分りやすくまとめてみましょう。
つまり、『ウエツフミ』と『東日流外三郡誌』を合体すると、こういうストーリーが誕生します。
するとそこには、「古代史とは何だったのか?」が、鮮明に浮かび上がってきます。
◆西の九州・大分を中心に日向族の「ウガヤフキアエズ王朝」が誕生し、弥生文化を花咲かせた。
◆一方、東の近畿・奈良には「ナガスネヒコ王朝」が登場し、縄文文化を引き継いで「邪馬台国」として繁栄する。
◆両者は同時発生的に誕生したもので、交流のない間は、平和に共存していた。
◆ところが、2世紀に異常気象が発生し、これを契機に日向族が「神武東征」を始める。
◆両王朝は全面戦争となり、これを中国では「倭国大乱」と呼んだ。
◆ナガスネヒコは新羅に援軍を要請するが、日向族に敗れて滅ぼされる。
◆日向族は奈良に遷都して、一時的にここを本拠地とする。
このときに邪馬台国に関する記録が抹消される。
◆一方、敗れたナガスネヒコ一族は、東北・津軽に逃れ、地元のアラハバキ族と合流する。
あるいは、このときに同盟関係にあった新羅の国王らも同行した。
ここに、漂着民である中国または蒙古の勢力も参加する。
◆その後、ナガスネヒコ一族は反撃を開始し、奈良の土地を奪還、大和王朝の基礎を作る。
このときに、ウガヤフキアエズ王朝に関する記録は抹消される。
◆景行天皇の時代になっても、まだ日向族の残党が抵抗を続けていたので、これを一掃する。
これで、日向族は完全に止めを刺される。
◆ナガスネヒコ一族を利用して、国体の中枢に入り込んできた外国人勢力は、その後、日本の歴史を混乱させ、国力を弱体化するため、『古事記』『日本書紀』を捏造し、真相を隠蔽した。
つまり、日向族の記録も、ナガスネヒコ一族の記録も、両方とも削除されて、訳の分らない、外国語で書かれた国史が誕生した。
どうですか?
かなり複雑で、荒唐無稽なお話しなので、ご理解いただけたでしょうか?
ただし、あくまでも私個人の見解ですから、あとは専門家の検証にお任せします。
最後に一言だけ付け加えさせていただきます。
この「縄文人」vs「弥生人」の長い歴史のなかで、多くの人が殺されたり、被差別民に落とされたり、いろんな悲劇があったことは事実です。
でも、大切なことは、私たち日本人は、縄文人と弥生人のDNAをほぼ半分ずつ受け継いでいるということです。
問題は、次はどこに行くか?なのです。
縄文人 (火曜日, 08 12月 2015 00:40)
あなたは間違えてます。最新の研究では縄文人は平和を愛する民族であり遺跡からは生活用品や狩猟道具は出てくるが、武器は全く出てこない。それ故1万年も続いた世界一長い文明だということ、性格は勤勉で
あり、色々な生活道具と工芸品を作った。それが今の日本人に色濃く受け継がれているそうです。