邪馬台国のあった場所は西都原古墳!

これまで私は、邪馬台国についてコメントすることを避けてきました。

あまりにも多くの人たちが熱心に研究発表されているし、そもそも私の専門分野である『ウエツフミ』には、邪馬台国のヤの字も出て来ないからです。

 

ところが先日、西都原古墳を訪れた私は、

「こここそ邪馬台国のあった場所だ!」と確信しました。

170号古墳の円形ステージに登ったとき、そこで天に向かって祈りを捧げる卑弥呼の姿が、スーッと脳裏に降りてきたのです。

そのとき私が見たイメージを再現したのが、タイトル画像です。

 

あまりにも素人的な仮説ですが、これまでの私の研究と重ね合わせて、ひとつの可能性としてご披露し、みなさまのご批判を仰ぎたいと思います。

 


ウガヤフキアエズ王朝の衰退

◆【紀元1世紀】第73代ウガヤフキアエズの命・ヒダカサヌは大分から奈良に遷都した。

◆これに伴い、かつてほぼ日本全土を支配していたウガヤフキアエズ王朝は、急激に衰退してゆく。

その主な原因は気候変動による大飢饉と疫病の蔓延であった。

◆かつての大帝国は、地方の小国家へと分裂し「分かれて百余国をなす」という状態になっていた。

◆ことに、その元津国である「高千穂国」は、南北三か国に分裂していた。

(1)大分と阿蘇はタケイワタツらが統治する北高千穂国 (中国名:投馬国)

(2)宮崎はヒミコらが統治する南高千穂国 (中国名:邪馬台国)

(3)さらに南の大隅半島はククチヒコが将軍の熊襲国 (中国名:狗奴国)

そもそも【卑弥呼】とは?

ウガヤフキアエズ王朝で使われていた【ヒツギノミコ】

漢字で表記すると【日継の御子】であり、

“日の神の遺伝子を受け継ぐ由緒正しい後継者”の意味だが、

これが【ヒノミコ】に省略され、

再び漢字で表記するときに【日御子】へと変化したものと思われる。

いずれも【天皇あるいは大王】を指す役職名だった。

本来は、天孫降臨したニニギの命の由緒正しい子孫だけを【ヒツギノミコ】と呼んでおり、男性の場合もあれば女帝の場合もあった。

⇒『ウエツフミ』による。


漢民族・富士宮王朝の西征

◆そもそも中国大陸にあった漢王朝(BC206~AD220)は、魏に攻められて滅亡する。

◆漢民族は徐福を先陣として、早くから日本に避難してきており、富士・川口湖畔にひっそりと隠れるように飛び地を確保していた。これを(王朝と呼ぶかどうかは別として)富士宮王朝と呼ぶ。

◆ウガヤ王朝の衰退を絶好のチャンスと捉えた漢民族は、鹿島・香取の地にあった日高見国(別名: ホツマ国)に近づき、ここの王族(欠史八代)と密約を結び、ともに手を携えてヒダカサヌの居た奈良盆地に進軍する。

⇒以上は『神皇記』の記述による。

◆ここを制圧した漢民族=日高見国連合軍がベースとなって「ヤマト王政」が誕生する。

◆彼らは、大陸から敏腕政治家を招いて第10代・崇神天皇として即位させる。

⇒落合学説による。

 


崇神天皇の占領政策

◆【紀元2世紀】崇神天皇は、大陸から宗教祭儀の専門家・オオタタネコを招いて宗教改革を行わせ、アマテラスを大物主(おそらく徐福のこと)に入れ替える。その子孫が藤原鎌足と武内宿禰である。(九鬼文書による)

 

◆さらに朝鮮半島の羅津にあった「八幡騎馬隊」を招いて、九州のウガヤフキアエズ王朝の本拠地を攻める。(落合学説)

◆騎馬隊の隊長を務めていた大碓・小碓の兄弟が、豊日の国(大分県と阿蘇地方)を征服して、その住民をほぼ皆殺しにしてしまう。

◆この兄弟には、その功績により第12代・景行天皇と、(途中で病死したので在位の無い)神武天皇という称号が与えられた。

歴史家はこの事件を「土蜘蛛征伐」と呼んだ。

◆大分県竹田市菅生地区にあった人口3万人規模の巨大都市「フタノボリの大宮」は陥落し、大分県のほぼ全域は騎馬民族による直接統治地域となる。

⇒ちなみに、吉野ヶ里遺跡の人口は約5000人であり、地方の小都市にすぎない。

 

【参考】私の過去記事『崇神天皇は日本人ではない!』もあわせてお読みください。


ヤマトタケルの正体

◆さらにヤマト王政は、大隅半島の建日の国(中国名:狗奴国)と協定を結び、その将軍・川上梟帥(クマソタケル)を味方に付けることに成功する。

◆『魏志倭人伝』はこの人物を狗古智卑狗(ククチヒコ)と呼んだ。

⇒ウエツフミでは、ククチヒコはアメノタヂカラオの子孫で、のちに西郷隆盛を出す菊池氏。

◆その恩賞として川上梟帥に「ヤマトタケル」(奈良県知事クラスの首長という意味)の称号を与え、東国平定の総司令官に任命する。

◆ヤマトタケルはもともと縄文人・熊襲族であったが、同族である日本人を殺害するという重責を負わされて過労死する。(竹内睦泰説)

◆その漢民族による“熊襲族イジメ”の名残が、宮中に伝わる「隼人舞」であるが、本来は「熊襲舞」と呼ぶべきである。

⇒ちなみに、第73代・ヒダカサヌは熊襲の娘・アイラツ姫を最初の妃としているので両者は対立していた訳ではない。

 


卑弥呼の対応策

◆北側を騎馬民族直接統治地域、南側をその従軍となりはてた熊襲族に挟み撃ちにされた女王・卑弥呼は、お国の存続のため、2つの奇策を打ち出す。

 

◆ひとつは、ヤマト王政との間の「政略結婚」である。

◆当時の日継の御子であった狭穂姫(さほひめ)を、崇神天皇の後継者、第11代・垂仁天皇の皇后として差し出すが、のちに兄の(あるいは弟、または卑弥呼の正式な伴侶の)狭穂彦とともに反乱を企てたため鎮圧され(史実)、西都原古墳の「男狭穂塚・女狭穂塚」に封印される。(藤島説)

◆つまり、西都原古墳のある場所こそ、邪馬台国である。

https://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/guidance.html

 

◆なお、この「男狭穂塚・女狭穂塚」は不自然な形で交差するような配置となっているが、これは漢民族伝統の呪詛による封印のカタチである。

 

 

画像は不自然に交差する男狭穂塚と女狭穂塚

※もともとあった大きな古墳を削って、上から小さな古墳を乗せたような印象を受ける。

 

※ちなみに、ヤマト王政から見れば邪馬台国は反乱敵国であったため、ヤマト王政の正史としての『古事記』『日本書紀』に取り上げられることは無い。

つまり「邪馬台国近畿説」は極めて可能性が薄い。

 

 


邪馬台国と魏の同盟

◆卑弥呼こと狭穂姫は、もうひとつの政策を実行する。

◆それは、漢民族・ヤマト王政と敵対していたを味方に付けることである。

◆景初2年(238)6月、卑弥呼は魏に使いを送り(史実)、援軍を要請する。

◆魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、ヤマト王政に気づかれないように援軍を送ろうとするが、糸島に漢の出先機関である「一大卒」が置かれていたことや、瀬戸内海の速吸瀬戸がヤマト王政側の水軍=安曇氏により封印されていたため、海路で西都原に到達することが出来なかった。

◆水路で行けば10日で到着するこの距離を、陸路で一カ月もかかったのは、日豊海岸のリアス式海岸を徒歩で抜けなければならなかったからである。

 

◆九州内陸部の山間地帯はすでにヤマト王政が支配していたため(その前線基地が幣立神社)、海岸線(砂浜)を伝って、大分から西都原に抜けようとしたが、もともと道も無く、砂浜も無い、断崖絶壁の入り組んだ海岸線をウネウネと湾曲しながら進んだため、とてつもない時間がかかってしまった。

つまり直線距離で発想すると勘違いする。(藤島説)

⇒現在でもそうだが、宮崎県は陸路で行くと大変に時間がかかる“西日本最奥の地”、つまり“日本国の奥の院”である。


神功皇后の大躍進

◆卑弥呼亡き後の九州は、どうなったのか?

◆ヤマト王政は、西都原と大隅半島を監視するため、薩摩半島(韓国岳西側)を新羅系秦氏に割譲する。(宇佐家伝承では松原の地とある)

⇒もともと秦王朝から派生した漢民族の王族が新羅を支配していた。

つまり分家を薩摩半島に置き日向族と熊襲族の監視を行わせた。

⇒のちに彼らの子孫が書いた『古事記』では、韓国岳が天孫降臨の地となっていることもこれで納得できる。ちなみに漢民族の書いた歴史書が『日本書紀』。

 

◆この薩摩半島に入植した新羅人のトップ・気長足(おきながたらし)姫は、ヤマト王政の第14代・仲哀天皇にハニートラップを仕掛けて近づき、漢民族・新羅系秦氏の連合政権が誕生する。

のちに彼女は神功皇后と呼ばれた。(宇佐家伝承)

◆ときあたかも、邪馬台国の残党たち(熊襲族ではなく日向族)が、卑弥呼の後継者・壱与(トヨ)を担いで、反乱を起こしたため、これを鎮圧している最中に、武内宿禰により仲哀天皇が暗殺されてしまう。

◆仲哀天皇が、九州進攻に消極的だったのは、この地が大変難しい強敵であることを知っていたからであり、だからこそ武内宿禰に背後から矢で射られた。(宇佐家伝承)

 

◆武内宿禰とその愛人・神功皇后は、とともに大和を目指して海路東征し、ヤマト王政の正統な後継者である香坂王・忍熊王兄弟を滅ぼす。

つまり、分家が本家の家督を乗っ取ったようなものである。

◆従って「三韓征伐」とは、朝鮮半島侵攻のことではなく、宗主国日本の政権交代を内外に宣告したものである。だから三韓は戦わず恭順した。

 


応神天皇の開国政策

◆邪馬台国が完全に滅びたあと、第15代・応神天皇は、西都原の土地を百済王をに与え、以降ここは百済人入植地となった。

⇒おそらく共通の敵・高句麗に対抗するための措置であろう。

◆「隼人とは百済人のことである」と、高良大社縁起にある。

つまり新羅系秦氏から見れば、百済人=隼人は因縁の宿敵であり、たびたび反乱を起こしている。

だからこそ彼らは大量虐殺され、これが八幡神社の放生会(ほうじょうや)の起源となった。

 

◆彼ら百済人は、卑弥呼時代の祭儀用のステージ(つまりこれが古墳の原型であり、もともとお墓では無かった)に、横穴を掘って、そこに自分たちの一族を埋葬した。

つまり卑弥呼の鬼道にあやかろうとした訳である。

日本人から見れば、神社に墓を造るのと同じくらいバチ当たりな行為である。(藤島説)

◆従って4世紀以降の古墳時代、この場所から出土する装飾品や鎧・兜などの副葬品は、百済人のものとそれ以前の邪馬台国時代のものとが混交している。

 

◆その後7世紀になってから、この地を中心に勢力を付けてきた百済人が、ウガヤ王朝の後継者である聖徳太子・蘇我馬子らと組んで、ヤマト王政の後継者・物部氏を滅ぼし、藤原氏と武内氏(ともにオオタタネコの子孫)を追放する。(九鬼文書による)

 

百済人のものと思われる出土品【西都原遺跡】

弥生人のものと思われる出土品【西都原遺跡】


結び

以上、速足で要点だけを列挙してきましたが、『倭国大乱』の最大の原因は、ウガヤフキアエズ王朝の衰退による地方豪族の台頭と、その修羅場に押し寄せてきた外国人勢力とのあいだの、あたかも“陣取り合戦”の様相を呈したバトルロワイヤルであったことが、お分かりいただけましたでしょうか?

 

この、いわば“外国人が主役の内戦”により、1000年近く続いた弥生時代は終わりを告げ、ときは古墳時代へと移行してゆくのでした。

 


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コメント: 1
  • #1

    ハチマン渡来人 (水曜日, 09 8月 2023 20:20)

    1点異論です。魏志倭人伝の邪馬台国は現在の奈良・三重・和歌山に渡る広大な範囲で奈良三輪山側の桜井です。九州の古墳は渡来人や規模の小さい原住民の集落に過ぎないです。九州は幣立神社も同じくさまざまな霊的痕跡は近畿と比べ若く新しい権威づけです。