大友能直はなぜ「上つ文」を編集したのか?

その真意が「はしかき」に切々と綴られていましたので、ここに紹介させていただきます。
そこには、新たな発見と、感動のストーリーがありました。

 

実は、大友能直自身が書いた「はしかき」は、流ちょうな草書で書かれていたため、これまで恥ずかしながら読めなかったのですが、下記のサイトが登場したお陰で、やっとこのお方の偉大な業績を知ることができました。
『うえつふみと古事記』http://uetuhumi.web.fc2.com/index2.htm

 

今後とも、『ウエツフミ』を紐解かれる方がますます増えて、古代史の真実が表舞台に姿を現すことを祈ってやみません。

 


「はしがき」に書かれた衝撃の内容とは?

◆豊国文字の成り立ち

まず、豊国文字の旧字体、新字体の成り立ちに関する解説がありますが、もともとは「真仮名」または「形仮名」と呼ばれ、ひらがなやカタカナが登場する以前の我が国の標準文字だったのです。

 

◆吉備真備による「カタカナ」への改造

衝撃の事実が書かれています。
やはり、現在の「カタカナ」は「豊国文字」を改造することにより、誕生していたのです。

 

吉備真備は、岡山の秦氏一族(弓月の君の子孫)が生んだ秀才であり、遣唐使として中国に渡り、菅原道真などとともに、現在でいうところのグローバル化を推進した逸材でした。


大友能直の言葉を現代語訳すると、こんな感じです。(意訳)

 

何世代も何年も経ったあとから、吉備真備が、漢字を参考にして、もともと「形仮名」と呼ばれていた豊国文字を、「片仮名」としてしまったのは、誠に残念なことである。

 

漢字のなかに似たカタチがあったので、思いついたのだろうか?
その漢字から取った一部分を豊国文字に移し変えて、18文字を変更してしまった。

 

これにより、皇祖皇孫の歴史もいつのまにか消え失せ、今は漢字で書かれた古事のはしくれだけが残ることになってしまったのは、それだけでも耐えがたいのに、なんと情けない世の中になったことかと、思わず袖を濡らしてしまうのである。

 

そのことも知らずに、漢文や仏教を学ぶ人たちが多いことも残念なのだが、
そもそも戦乱の世の中となった根本原因は、漢文を尊重したからである。

 

殿上人たちが、仏教で人民を教化し、大仏を造り、はては漢文に長けた者たちを博士として、神代からの臣たちの上に置いてしまったのでは、世の中が乱れるのは当然である。

 

その殿上人が、皇孫であるにもかかわらず、わが国の道理を見失ってしまったことは、まるで、庶民の諺にもあるように「猪の肉を食べればカタワになることを知りながら、味が良いのでついつい食べてしまうこと」と同じではないか。

 

だから、「神の道に背いて、漢文や仏教ばかりを尊ぶものは、卑しいもののふである!」と、悶々としている頃、

 

思うに、このあたりの痛烈な皇室批判が、のちの発禁処分の原因となったのではないでしょうか?

⇒意味が分からない人のために解説しておきますが、弥生人は肉食を厳しく禁じられていました。その伝統が鎌倉時代まで続いて、武士の生活にも影響を及ぼしていたことが分かります。ところが、肉食をする人たちが殿上界に君臨していたことを、この記述は暗示しています。
さらに、直能の言葉は続きます。

 


◆平清盛による焼却処分

ある日、常陸の国新治郡富田某の家に、古くから伝わる古文書があったので、都に奉納したが、平清盛が「ニセモノだ!」と断定して、使いを殺し、焼き捨ててしまった。

 

幸いにも、梶原景時が手元に残しておいた残片があったので、これを見ると、「高千穂文」と「同国主・元雄の伝書」であり、真仮名(豊国文字)で書かれていたが、読めない部分も多かったので、これを「元本」として、その他下記の書物を参考にまとめあげたのが「上つ文」である。

「はしかき」にある能直の署名
「はしかき」にある能直の署名

出雲国造上世記
常陸鹿島国造文
伊豆加茂三嶋伝書
尾張中嶋逆手記
伊勢渡會文
摂津住吉大余座記
肥後八代縣文
阿波田村記
筑前後老家文
備前後老家文
薩摩霧嶋記
越白山之舟人文

 

また、種々の昔物語をよせ集めて、神の御代の真仮名(豊国文字)で写させたので、この上ない「御宝」であり、家の子らにも伝えて欲しい。

 

清き雲の上には、いまは濁りに穢れた黒雲が覆い重っているが、

私は、この神代の古事を学んで、皇祖皇孫を斎きまつろうと思うので、私の一族郎党たちにもこの文を読ませるため、これを書き記した。

 

職冠鎌足公十九代之後胤 (藤原鎌足の19代の孫)
従四位侍従大友左近将監 藤原朝臣能直


大友利根治郎大炊輔 藤原 親秀

⇒能直の養い親である親能の実子か?(つまり能直の義兄弟でよき理解者)

 

 

貞應二葵未年三月日 (1223年)

 

執筆
徳永常九左衛門時直
高山四郎太夫義澄
城井大和前司景房
朝倉入道 信舜
田原左近蔵人中務大輔 泰廣
後藤丹生蔵人 重章
三浦肥後前司 実明

以上


いやあ、平清盛や梶原景時まで関係していたとは、驚きの事実です。

ということは、「源平合戦」とは、

ウガヤ王朝⇒藤原氏⇒源氏⇒のちの徳川家と続いてきた勢力と、

大和王朝⇒物部氏・忌部氏⇒平家⇒のちの明治政府と続いてきた勢力とのあいだの、

宿命の対決であったのかもしれません。

 


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コメント: 5
  • #1

    光成 (木曜日, 09 6月 2016 04:48)

    神宝を持って行ったのはユダヤ2支族ではありません。
    イスラエル10支族です。
    カタカナの言霊は象神名という意義。
    神のみ働のカタが文字となったもの。(片などはデタラメな当て字)
    多くの神代文字はカタカナのバリエーションということです。
    その中の一つが豊国文字

  • #2

    tsutomu adachi (木曜日, 09 6月 2016 14:20)

    大友能直について一言。
    大友能直は古庄能成と波多野経家の三女利根の局との間に生まれたとされ、源頼朝の近臣中原(藤原)親能の養子になりました。 一方利根局は頼朝の妾だったことから、頼朝に寵愛されたと言います。 しかし頼朝の落胤説も根強く存在します。
    所で能直がなぜ『職冠鎌足公十九代之後胤 (藤原鎌足の19代の孫)
    従四位侍従大友左近将監 藤原朝臣能直』と名乗たのか、確かに秀郷ー古庄能成ー大友能直
    と言う系図もそんざいします。然し秀郷と古庄の間かあいまいで確実性がない。では母方の秀郷ー波多野はどうか、わざわざ母方の姓を名乗るのもおかしい。では義父親能はどうか、かれは中原家の娘と後白河上皇近臣の藤原光能の間に生まれ、嫡男の認知を受けず相模へ下り波多野家の利根局の姉と結婚しました。後に藤原姓を名乗りますが、ここは埒外でしょう。因みに藤原光能の正妻は、武蔵の武士足立遠元(我が足立家の始祖)の娘が嫁いでいます。俵藤太秀郷に関しても、つぎのようなきな臭い話があります。下総の土豪、鳥取氏が藤原姓を仮冒、即ち乗っ取ったのではないかという話しが、将門追討の記録の中にあるとのこと。いずれにしても頼朝の落胤説はあり得ないことになります。
    以上、閑話休題

  • #3

    梅谷才太郎 (木曜日, 09 6月 2016 21:07)

    大分県湯布院町塚原には、高天原という地名があります。
    まさしく、名の通りの絶景です。
    鵜葺草葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝は聞いたことはありましたが、
    私の住む大分県とは知りませんでした。
    興味深いですね。
    梅谷才太郎

  • #4

    日向小次郎 (木曜日, 09 6月 2016 23:33)

    素晴らしい発見ですね。表天皇、裏天皇のつながりまで見えてきます。
    ウエツフミはやはり天津文であり信仰という概念が生まれる前の純粋な神恩感謝が伝わってきます。
    神道も古神道も人の解釈が入り過ぎているので超古神道(ちょうこしんとう)といった表現が
    正確でしょうか。カタカナはヘブライ語の影響も入っているようですが豊国文字も生きていたのですね。
    漢字変換の1つの例の宇家潤不二合須(うがやふじあわす)王朝も分解して意味を解くと
    ”宇宙の数多ある家系の二つとない使命を持った王朝"となり神様への感謝の念で溢れていますね。
    すべては神様から与えられたものだという本質を昔の人ほど深く理解していたと猛省させられます。
    最近になって人間のジャンクDNAに製造者のサインコードが遺伝子LVで書き込まれているという
    学会の発表がありましたが宇宙一家の神様の存在の真実味がどんどん増してきますね。

  • #5

    古代史奈 (木曜日, 16 6月 2016 14:29)

    光成 ,tsutomu adachi両氏 は確定?しています的な論調ですが、出典などはなんでしょう?またその出典の正しい根拠もお示しください。ここのブログにあまり関係ない内容にも思えます。こちらで主張する心は何でしょう?できればご自身のブログでの展開を拝読させていただきたいと思います。