江戸時代に、幕府の命令で岡藩(大分県竹田市)が編纂した『豊後国誌』によると、「ウガヤフキアエズの御陵は傾山(かたむきやま)の山頂にある」と書かれています。
現代語訳すると・・・・
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三峰が屹立しているが、中峰が最も高く、俗に「大傾」という。
西を「前傾」といい、東を「後傾」という。
すべて、巨石が畳のように層をなし、絶壁や懸崖が続く。
肩が西南にすくんでいるので、人が傾いて振り返っている姿のようである。だから「傾山」という。
その最高峰に「方石(四角い石)」があり、まるでテーブルのようである。
上が平らになっているので座ることができる。
あるいは、神武天皇が東征にあたって、皇子たちとここに登って天地の神を祀ったともいわれている。だから「四皇子峯」ともいう。
また、神代の古陵であるともいう。
ウガヤフキアエズを葬った場所だと、神代紀にある。
「日向吾平山の上陵に葬る」と書かれているが、これはすなわち、西側に「尾平峰」という名があるので、これが訛ったものであろう。
山の後ろは日向の高千穂峰とつながっているので、上古には境界が無かったのではないだろうか?
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現在の山頂の状況は、例えば、こちらのサイトからも確認できます。
http://www52.tok2.com/home/naos/m-kyu-katamuki-pic.htm
確かに、山頂には四角い岩がゴロゴロしており、まるで人が積み上げた石垣が壊れたような状態になっています。
そういえば、テーブル状の「方石」が見当たりませんが、もしかして、誰かがこっそり発掘したのでは?
終戦直後に、このあたりを低空飛行していた米軍のB-29は、岩肌に激突して墜落しています。
⇒詳しくは、こちら。
最後に、もう一度力説しておきます。
これは、田舎藩士のローカルな解釈ではなく、ましてや私が主張している訳でもなく、いわば江戸幕府による公式見解です。
その後、明治時代になってから、雨後の筍のように下記の諸説が登場し、大混乱となります。
◆鹿児島県鹿屋市(旧 肝属郡吾平町)説
◆宮崎県西臼杵郡高千穂町の「吾平山陵」説
◆肥後国山鹿郡相良村説
⇒詳しくは、こちら。
結論はまだ出ていませんが、なぜ「我田引水」のような心無い人たちが登場してきたのでしょうか?
それを説明するためには、「明治維新」とは何だったのか?という根本的な問題から説き起こす必要があります。
明治政府が古神道を破壊しはじめたことは、「神仏分離令」(という名目の神道再編)を見ても一目瞭然です。
例えば、京都の五条大橋の欄干にあったギボウシを全て撤去して、明治天皇が不快感を示しています。
つまり、徳川幕府とは全く思想信条を異にする人たちが政権を握ったということです。
その後、大日本帝国が「富国強兵」というスローガンのもと、帝国主義(戦争による植民地獲得競争)に巻き込まれていったという歴史的事実を見れば、明治政府の背後に居た「世界的勢力の存在」に気づくはずです。
そのような人間界のドロドロとした争いを超越して、本物は今も静かに語りかけてくれています。
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赤星憲一 (水曜日, 06 7月 2016 19:25)
寛政9年(1797年)、江戸幕府老中松平信明は、岡藩9代藩主中川久持に地誌を編纂するよう命じた。これが、「豊後国志」である。
豊後の国東、速見、大分、海部、直入、玖珠、日田、大野の八郡志を岡藩が編纂した。
唐橋世済を主筆とし、田能村竹田、甲斐般助、古田喜兵衛、後藤冨次、伊藤鏡河が執筆した。
享和3年(1803年)11月に完成した。
「正実、曲尽、網羅」を旨とし「形勝」「仏寺」「墳墓」を含む27項目について記された。