そして、神武東征は二回行われた。
ウエツフミを詳細に読んでいると、宇佐地方に関する記述を発見しました。
ここは、病弱だった第2代ウガヤフキアエズが、転地療養のため大宮を置いた場所だったのです。
その経緯とは・・・・
宇佐に関するウエツフミの記述
◆生まれつき病弱だった第2代は、即位後わずか14年で皇位を弟のマシラタマカカヒコに譲り、隠居します。
◆しかし、オオナムジ・スクナムジ・タカナムジの調合した薬を服用しているうちにすっかり元気になり、
◆転地療養のため、豊日の宇佐地方に移住して「海や山で遊びたい」と申し出て、第3代に承認されます。
◆そこで、マヒトツ宮主とマヒトツ大楯の二人に命じて、御殿を建てさせます。
⇒神武東征時にウサツヒコが建てたという一柱騰宮(あしひとつあがりのみや=現在の宇佐神宮)と名前がよく似ている。
◆3月25日早朝、上皇は皇太后とともに「直入の宮」を出発して、「大分の宮」から「速見の速玉の家」に寄り、宇佐川の川上の「仮宮」(安心院?)を経由して、「毛の大野」に入りました。
だからここを「宮処(みやとこ)」と言います。
なお、到着は同日の深夜。
◆「毛の大野」の場所については、通説では豊前国京都郡(福岡県みやこ町)としていますが、一日でここまでたどり着くのは不可能なうえ(距離約150km)、後日「海魚を採って遊んだ」とあることから、かなり海に近い場所だったと考えられます。
◆後年になってから、中津市を中心に上毛郡・下毛郡が置かれましたので、このあたりのことかもしれません。
◆さらに、第49代の記述には、豊前国京都郡を「ケミの国」と表現していることから、「毛の大野」とは別の場所と思われます。
さらに、ストーリーは意外な方向へと展開してゆきます。
◆ある日、上皇の家臣たち(大御田族)と地元の漁師や狩人が相撲を取って遊んでいるとき、地元民が全く非力であることが分かります。
◆そこで、上皇がいろいろと質問してみると、肉食をするなど、不健康な生活を送っていたため、寿命が50年程度しか無いことが判明し、上皇一族は涙を流しながら「これは日本国の病であり、これを治さなければ天津神に顔向けできない」と悟ります。
⇒上皇自身が虚弱体質で、様々な投薬や健康法で奇跡の回復を果たしたため、これをライフワークと考えたのか?
◆ついに上皇は「人民が守るべき生活ルール」を定めて、第3代と二人そろって速吸の門から出航し、日下根(和歌山)の生玉(いくたま)港に到着したので、地元豪族たちが平石(ならし=現在の奈良)に仮宮を作って歓迎します。
◆ここから二手に分かれて、第2代は西日本、第3代は東日本を中心に全国を行幸しながらこの教えを広めてゆきました。
この記述の真の意味とは?
さてさて、以上のストーリーを最後まで詳細に読まれた方、何かに気づきませんでしたか?
そうです、「神武東征」の故事にそっくりではありませんか!
◆第2代の別名は、なぜか『ウエツフミ』にも書かれていませんが、もしかしたら「カムヤマトイワレビコ」だったのかもしれません。
⇒別名が書かれていないのは、74人中第2代だけで極めて異例である。またカムヤマトイワレビコとヒダカサヌの2つの別名を持つ第73代も極めて異例。つまりウエツフミの作者もここは迷ったか?
◆時期的にも、ちょうど紀元前660年頃とピタリと一致します。
⇒ニニギが天孫降臨したときの星座の配置から紀元前800年頃と推定される。
◆宇佐で天種子命とウサツ姫が結ばれる余裕も充分にありましたし、数年かけて各地を転々としながら東征した理由も明確になります。
⇒一方、ヒダカサヌは兄の突然の悲報に裸馬にまたがって丹波から和歌山に駆け付けたので、全く余裕が無かった。
⇒珍彦の登場は、ヒダカサヌのときの実話である。ただし、珍彦に遭遇したのは父の第71代。
⇒これは裏話しになるが、実は穴門と吉備の人民が千石船を建造して献上したが、上皇はこれには乗らずに小舟でこっそりと和歌山に渡航した。その理由は、宇佐の人民が「あちら岸では肉食している」と告げたため、穢れることを恐れたのである。記紀の作者が、わざわざ穴門と吉備に3年滞在したという記述を追加したのは、これに反発したものと思われる。ウエツフミでは、帰路ここに立ち寄っている。
◆もしかしたら、東日本を中心に行幸した第3代が「ニギハヤヒ」と呼ばれたのかもしれません。
⇒東北地方にも「ニギハヤヒ伝承」が残っているのはこのためか?
◆この頃、関西地方には、出雲の国を追い出された大国主が青垣の山に祀られて、出雲族が住んでいたものと思われます。
⇒上記の記述内容は『富家文書』とも一致する。
つまり、第2代と第3代の兄弟が揃って奈良に仮宮を置いたことと【第一次東征、紀元前660年】
第73代ヒダカサヌが橿原宮に遷都したことが【第二次東征、起源元年頃】
混同されて、ひとつの物語として伝わっているのではないでしょうか?
それにしても、神武天皇の足跡があいまいになってしまったのは、記紀がウガヤフキアエズ74代の記録を全く無視して、いい加減な編集をしてしまったからに他なりません。
唯一『ウエツフミ』だけが、かすかな手がかりを残してくれています。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=20&sno=7
◆『ウエツフミ』による「ヒダカサヌ東征」の詳細は下記から。
◆この続きは、「神武天皇は二人居た!」
コメントをお書きください
siraki (金曜日, 05 8月 2016 18:53)
ウガヤフキアエズではなく、新羅の巴堅多鷄林己知波珍槍です。
森﨑 (土曜日, 02 11月 2019 21:15)
たぶん以下の場所では?!
直入の宮
・城原八幡社(竹田市米納)周辺
大分の宮
・浅草神社(大分市口戸)周辺
速見の速玉の家
・日出若宮八幡社(日出町)周辺
宇佐川の川上の仮宮
・佐田神社(宇佐市安心院町佐田)周辺
毛の大野(宇佐嶋と呼ばれた御許山周辺)
・大元神社(杵築市山家町大字向野)周辺