ウガヤフキアエズ王朝を支えた「山の神」とは?

豊日の国、祖母山の麓に、突然誕生したウガヤフキアエズ王朝。
それを支えたのは、オオヤマツミを頂点とする「山の神ファミリー」でした。

 

このことを証明するために、ニニギの命が天孫降臨したときに、同伴した神々のリストを作ってみました。

 

ウエツフミには(この時だけでも)1000人近くの神々の名前が正確に記されていますが、実はこれを読み下すのは大変な作業だったので、これまで避けてきたのです。
ついにリスト化しました。(下記参照)


でも、これでもまだ半分くらいしかリストアップできていません。

 


ニニギに同行して国廻りをした神々のリスト

そこには、オオヤマツミ(山の神)とその子孫たち、例えば大年神や猿田彦、塩土の翁、大山咋神の名前もあります。


つまり「山の神ファミリー」とでも呼ぶべき技術集団が、ニニギの命の国内巡幸に同行していたのです。
そして、その先導役を務めたのが猿田彦でした。

 

つまり、ウガヤフキアエズ王朝とは、「山の神ファミリー」が保有するテクノロジーを、全国に普及するために誕生した文明国家だったのです。
そこには、植林・伐採・製材・建築・土木・冶金・鍛冶・製塩・味噌醤油・酒造り・漁業などの神様が、ずらりと勢ぞろいしていました。

 

さきに天照大神らが伝えた「農業技術」、それを補完する「工業技術」が、ニニギの命の時代に我が国にもたらされたのです。

 

そして、のちに第4代ウガヤフキアエズが、これらの神々を祀る神社を、大分県豊後大野市の白山地区(祖母山と傾山の中間の北側の麓)に創建しているのです。


現在の稲積鍾乳洞の近くにある「稲積山」、ここがオオヤマツミのご神体であったことは、古い文献で確認できたのですが、白山とはどこの山のことだったのか、今も捜索中です。

 

のちに、この集団が仏教では「山王権現」と呼ばれ、明治政府の神仏分離令により、神道では「山王様」と呼ばれるようになって、日枝神社や日吉神社のご祀神として現在に伝わっています。
つまり、「山王様」の正体は、大山咋神(=酒造りの神)ただひとりではなく、これら「山の神ファミリー」全員だったのであり、その頂点がオオヤマツミなのでした。

 

ここから、真名野長者という大金持ちが生まれ、この人物が用明天皇・推古天皇・聖徳太子らが推進しようとした「仏教導入政策」を、資金面からサポートしてゆくことになります。

 

 

山の神、海の神、そして出雲の神

このように、ニニギの命、海彦・山彦、そしてウガヤフキアエズのいわゆる「日向三代」とは、祖母山の麓に展開した「山の神ファミリー」と表裏一体で、国造りを進めてきたのです。

 

逆に、中臣氏が信仰した住吉三神や春日神などの「海の神」の名前はニニギの同伴者リストにはありませんし、物部氏の信仰した「大物主」系の神様の名前もありませんでした。

 

⇒ちなみに、ウエツフミでは大物主はオオナムチ=大国主の御子だとハッキリ書かれているのですが、その後、出雲族を滅ぼして背乗りした隼人系物部氏が、出雲の神々を追い出して、自分たちの信仰するニギハヤヒ系の神々と入れ替えているようです。

 

つまり、ウガヤフキアエズ王朝こそ、正当な出雲王朝の後継者だったということです。

そして、「山の神」「海の神」「大物主」と、それぞれを支えた祭儀集団が存在したのであり、それが豊後大神氏、中臣氏、物部氏なのでした。詳しくは、こちら

 

下記に「山の神ファミリー」の主要メンバーを列挙しますが、これだけ多く居ては、誰が誰なのか覚えられませんよねえ。

だからオオヤマツミや猿田彦の名前だけが断片的に伝わっているのですが、それがどういう位置づけにあったのか?正しい由緒来歴がこのリストから浮かび上がってきます。

コメント: 10 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    赤星憲一 (月曜日, 25 7月 2016 07:07)

    道後温泉は愛媛県にありますが、道後(ちしり)の神と関係はありますか?

    中津お供の神357柱の名前は、わかっていますか?

    偶然、中津市は大分県にあるが、関係はないでしょうね。中津云々とは日本の別名ですね。

  • #2

    管理人 (月曜日, 25 7月 2016 09:13)

    ご質問にお答えします。

    (1)ウエツフミでは、「チシリのカミ」が正式な表記で、これに「道後」の漢字を充てたのは後代の人です。だから道後温泉とは直接関係ないと思われます。
    (2)下記の原文の262段目以降にある、オオイカヅチ、タケミカヅチ、フツヌシ、ツミハヤエコトシロヌシなどの神々が、「中津御伴の神」だと思われますが、現在調査中。
    http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=11&sno=3
    (3)中津とは、「豊地が原の中津国」でも分かるように、日本の中心という意味なのですが、この段では、「宗教祭事の中心となる集団」のことを「中津御伴の神」と呼んでいますので、中津集団が居た場所、すなわち中津市(もともと宇佐神宮があった場所)の語源となった可能性もあります。

  • #3

    siraki (金曜日, 05 8月 2016 18:32)

    ニニギは、その有名な百濟軍の総司令官の百済太子王です
    理者が言う 山の神というのは、新羅の太子王,巴堅多支鹵己知波珍干岐のことで、日本列島は百濟軍と新羅軍の全面戦争で満たされながら新羅領と百濟領に長い戦争に入ります。
    山の神というのは二つの意味で見られるが、まず新羅は百済より戰力が劣勢を見せたので、主な根拠地は百済が占拠して山を中心に勢力を拡大するしかなかった時期があった山岐とは斯盧岐というのは、古代史でとても有名な言葉であり、新羅王を表す言葉です。阿波讚岐!新羅王萬世!

  • #4

    siraki (金曜日, 05 8月 2016 18:46)

    中臣氏という百済王族として意図的に二つの氏族を混合して、後世に混沌を生じさせているが
    中津というのは都彌中津のことで百済王の名
    そして、その兄が忌部の祖、...つまり...平野の神の2番目と三番目の
    両方の系統を区別しないように措置をしておいたもの
    百済の戦争史は九鬼文書によく整理されています。
    (山王權現というのは、新羅の王のことで、ここで論外)

  • #5

    siraki (金曜日, 05 8月 2016 19:20)

    中津という地名の理由は、その有名な戦いでることができるが百濟軍は電擊戰すなわち包囲殲滅戦に相当上手くて百濟軍の主力は、韓半島で築慈に上陸して抵抗する新羅軍を敗走にしたが百済の水軍は迂回して大分に上陸して入ってきた彼は最初の運河を作って海で作ったということも..九州と日本列島本州が最初に続いていた伝説もここから来ているのです。それは、有名な百済の太子王都彌中津の活躍です。

  • #6

    出雲小社 (土曜日, 06 8月 2016 18:40)

    siraki 氏がまたまた登場。仮に論が正しいとしても、根拠文献をお示しください。膨大な量の朝鮮の文献をお持ちのようですので、自分の論ではなく出典を出すべきでしょう。研究成果でもあろうかと思えますので「決めつけ論ではなく」、分かりやすくコメントをするべきですね。しばらくお休みしていて、管理者の論に異論や注釈をされたくなったのでしょう。興味ある内容も多く、論じ方を修正されれば、いいブログになると思います。ご自身のブログでの展開をお薦めします。管理者氏はほとんど答えのコメントはされていなかったと記憶しています。少しテーマが違うやもしれないですね。以前にも私かどなたかが同じようなコメントをしたと思います。ご理解願いたいなというのが本音ですね。

  • #7

    siraki (土曜日, 06 8月 2016 19:20)


    我が家は大新羅、彦波瀲武鵜草葺不合尊、すなわち波瓊多鷄林己知波珍槍の直系として我家文書は、公開することができませんが、遠く離れて空想の世界のアンドロメダに飛んでいく皆さんにアドバイスを掛け再度地球に戻り来るお手伝いすることはできます。阿和斯盧源! 新羅王萬世!^^*

  • #8

    Wonder_Ryuchan (日曜日, 22 1月 2017 22:44)

    この天孫降臨:瓊瓊杵尊様に同伴した神々様のリストを使用しても宜しいでしょうか?

    宜しくお願いします。

  • #9

    管理人 (月曜日, 23 1月 2017 08:44)

    Wonder_Ryuchan 様
    どうぞご自由にお使いください。そのために公開しているのですから。

  • #10

    Wonder_Ryuchan (火曜日, 24 1月 2017 09:36)

    ありがとうございます。

    私は、天児屋命様の生まれ変わりの一人なんですよ。インチキ臭いかもしれませんけどね(笑)
    だから、この一覧表があれば、またブログネタが増えます。

    私は
    1.プレアデス星の魂です。
    2.ユーラシア大陸・北方騎馬民族の過去世があります。
    3.瓊瓊杵尊様とは過去世に於いて縁があったそうです。

    これ全て、別々の特殊能力者の判断です。

    一度遊びに来てください。

    この度はありがとうございました。

    それでは