徐福とその子孫たちが書き残したとされる『宮下文書』、そこには当然、徐福自身の伝記も正確に記されています。
今回は、謎の渡来人・徐福について書かれた記述内容を、わかりやすく再現してみました。
すると、古代に起こった大事件の概要がおぼろげながら見えてきたのです。
宮下文書の徐福に関する記述(概略)
◆第7代・孝霊天皇の時代に、徐福は富士山に渡来した。
(秦の始皇帝と同時代人なので紀元前3世紀のこと)
◆秦の始皇帝の3年、大陸の東海岸を視察している際中に、徐福は始皇帝にこう提案した。
「東方にある蓬莱・方丈・瀛洲の『三神仙』は、世界の元つ国であり、大元の神々が宿るといわれています。また、不老不死の良薬があります。もしこれを飲めば、千歳・万歳の寿命を得ることもできます。私は500人の老若男女を連れて航海に出発し、これを探してきましょう。ただし、少なくとも15年、長ければ30年かかりますので、それなりの装備が必要です。」といい、6月20日、船85隻に人や食料や資源を満載して出発した。
◆蓬莱とは富士山のことであり、日本国内にはこれ以外にも神仙(神の山)があと2つあったことが分かる。ひとつは阿蘇山ということでほぼ一致しているが、残るひとつは議論が分かれている。
・・・・・これを「神仙思想」という。
◆最初に上陸した島(九州と思われる)には、蓬莱山が無かったので、再び船に乗り南東を目指した。
◆次に上陸した土地で3年かけて蓬莱山を探したが、これはのちに紀伊国の木立野の大山であったと判明。
◆孝霊天皇74年の9月13日、みたび一行は船に乗り東を目指したので、ついに10日あまりで駿河のウキ島原に上陸した。
ここから岡松駅~水久保駅を越え、山村を経て、富士蓬莱山の中央高天原に登り、川口駅から阿祖谷の小室の家基都(焼津?)駅に10月5日に到着した。
一行は、大室、中室、小室の三か所に分かれて定住した。
(私には土地勘がないので分かる方は解説をお願いします)
◆一行のなかには、農夫、大工、職人、医師などが居たので、まず桑を植えて機織りを行わせた。
◆武内宿禰が、徐福の来朝を聞いて喜び、富士山本宮七廟惣名・阿祖山大神宮に挨拶にやってきて、のちに熱心な「徐福学」の信奉者となった。
(この記述から徐福と武内宿禰はおそらく同時代人、かつ同国人であったことが分かる)
◆徐福は神国日本の太古の歴史を書き残す事業に着手して、神々の子孫たちに師事し、その口碑、口談、伝言、および各家に伝わる実記録や系図を集大成して『十二史談』を作った。
◆徐福は小室の高座山に、これらの書物や持参した薬師如来を安置して、これを阿祖山大神宮の宝物とした。
◆第8代・孝元天皇の御代に亡くなり、中室の麻呂山(丸山?)に埋葬された。
<出典> 美輪義熈著『神皇記』
<原典> 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674
ここから導き出されること
さてさて、以上の記述から判明した新事実と、私の勝手な推測をメモしておきます。
◆全国各地に残る「徐福伝説」は全て正しい。
なぜなら、徐福一行は何年もかけて日本各地を転々と移住して行ったからである。
おそらく、佐賀に漂着し、熊野に三年間滞在し、そこから駿河の焼津に定住した。
◆徐福の書いた『宮下文書』と、武内宿禰の書いた『竹内文書』はほぼ同じ内容であり、下記の3つのパーツで構成されている。
(1)太古の大元神の歴史
(2)日本各地に伝承として伝わっていた神話に関する記述(少なくとも天照大神までは正確に再現されている)
(3)徐福渡来以降の自分たちの子孫に関する記述
◆紀元前3世紀に漂着した徐福の一行は、駿河の国で「富士王朝」と呼ばれた小国を建国するが、その痕跡は富士山の噴火によりすべて失われた。
(同じ頃、関西には東北人による大和王朝、九州には日向族によるウガヤフキアエズ王朝があった)
◆その後、「富士王朝」は500年近く繁栄して、「大和王朝」や「九州王朝」と激しい対立を繰り返し、ついに紀元後2世紀頃には政権を奪うことに成功した。
これがのちに『倭国大乱』と呼ばれる。
その結果、即位したのが第10代・崇神天皇である。
なお、崇神天皇は徐福一族が呼び寄せた政治家であり、第12代・景行天皇は職業軍人である。
(神武~綏靖までは九州王朝、欠史八代とは東北人=ナガスネヒコ政権、または徐福の子孫を指す)
◆「富士王朝」側に属した人物として、下記の人名が挙げられる。
崇神天皇・(垂仁天皇?)・景行天皇・ヤマトタケル・・・・(いわゆる騎馬民族)
武内宿禰・神功皇后・応神天皇・・・・(いわゆる海部族)
つまり、(私の仮説ですが)これらの人物こそ、渡来人=秦氏=失われたユダヤの10支族であり、騎馬民族と海人族による連立政権が誕生して、日本の歴史に深く関与してきた。
以上、いよいよ古代史の核心に触れることとなりますが、続きをお楽しみに。
追補 徐福の出自
その後、徐福の出自が分かりましたので、メモしておきます。
つまり、もともとは何人か分かりませんが、代々しっかりと中国の皇帝に仕えてきた名門であり、ハッキリと「中国人」と呼んだほうが、分かりやすいのではないでしょうか?
<徐福の出自に関する『宮下文書』の記述>
そもそも徐福は、韓轅氏から出ている。
韓轅氏の第4子を忠顕氏といい、その6世の孫を萬正氏という。
萬正氏は夏の兎王に仕え、農業を担当した。
その子孫は代々夏王朝に仕えたが、滅んだあとは民間人にもどった。
その48代の末裔である正勝は、周の武王に仕えて功を立てたので、「徐」という姓を賜り、楚国の首長となった。
(中略)
その子孫が、孔子の弟子の「子路」である。
子路の子孫たちが、秦の始皇帝に仕えて重臣となった。
その重臣のひとりが、徐福を生んだ。
追補 徐福の本拠地
その後、徐福が本拠地とした「阿祖山大神宮」の正確な地図が出てきました。(巻末)
現在でいえば、河口湖の東南岸「富士河口湖町」なのですが、ご覧のように富士山の噴火によりかなり地形が変化しています。
河口湖自体も、弥生時代には3つの湖に分かれていたようですが、その中心に本拠地がありました。
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『宮下文書』による天照大神の治世
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