三重町(大分県豊後大野市)にある吉井山(254.1m)には、ここで亡くなった9人の女官の伝説が伝わっています。
そして、この9人の女官たちが祀られているのが「宇知多神社」(または内田神社、別名を吉井神社ともいう)なのです。
短いストーリーなので、神社のご由緒書をそのまま掲載します。
この伝説を読んで、どうしても納得できない部分がありませんか?
そうです、あまりにも性急すぎる女官たちの死です。
いくら「日向越え」がきついとはいえ、仮に源氏の追手がそこまで迫っているとしても、すぐに死ぬことは無いでしょう?
しかも9人揃っての集団自決ですよ。
人が死を決意するには、よっぽど大きな「動機」が必要です。
私は、この伝説の裏側には、きっと何か隠された真実があるに違いないと疑ってみました。
柳田国男と和泉式部が登場
まず、この「ご由緒書」をじっくり読み返してみて、理解できない単語を発見しました。
それは「日向国の法華岳」です。
9人の女官たちは、一体ここで何をしようと考えていたのでしょうか?
さっそく「日向国の法華岳」で検索してみました。
するといきなり、柳田国男先生の名前が出てくるではないですか。
先生の名著『女性と民間伝承』、そのなかにある『南無薬師の歌』という短編に、和泉式部の法華岳信仰のことが紹介されています。
【原文】は、こちら。
要約すると、「和泉式部は皮膚病を患っており、法華岳の薬師如来に祈願すると全快したので、その後再びこの地を訪れたが、ここで亡くなった」・・・・と。
このときの、和泉式部と薬師如来との掛け合い問答が、和歌として残されています。
【式部】 南無薬師 諸病疾除の願立てて 身より仏の名こそ惜しけれ
(せっかく願掛けたのに。私の体よりあなたの名がすたれますよ)
【如来】 村雨は ただ一ときのものぞかし おのがみのかさそこに脱ぎおけ
(叢雨は一時的なもの。お前の蓑と傘を脱いで置いてゆけ、つまり身の瘡を置いてゆけ)
残念ながら柳田国男先生は、この伝説に関しては批判的なのですが、それはどうでも良いこと。
ポイントは「法華岳に行けば皮膚病が治る」との民間伝承があったということです。
この事件の真相とは?
もし仮に、9人の女官たちが皮膚病を患っており、和泉式部の伝説を耳にして日向国の法華岳まで、願掛け治療に行く途中だったとしたら?
9人が同時に感染する皮膚病とは?
伝染病のうち命の危険を伴う不治の難病とは?
疱瘡(ほうそう)、はしか、ライ病などが考えられますが、いずれにせよ集団感染した9人は、ここで体力の限界を感じて、とても法華岳まではたどり着けないとあきらめたのではないでしょうか?
そこで、村人への二次感染を防止するため、自ら永久隔離の方法を選んだということになります。
しかも、このとき同時に自殺した由布家の老夫婦も、この伝染病に感染してしまったと考えられます。
平家の落人説はあり得ない!
この9人の女官について、郷土史家の故・芦刈政治先生は「平家の落人説」を展開していますが、その解釈は絶対にあり得ません。
⇒同著『ふるさとの宝物』参照。
なぜなら、
(1) 源平時代に、このあたり一帯(豊後の国)は、緒方三郎惟栄の本拠地でした。
この人物、源義経にも可愛いがられた源氏の重鎮であり、絶大な軍事力を以って平家を九州から追い出してしまいます。
それがために平家は船上生活を余儀なくされ、瀬戸内海を放浪した挙句、壇ノ浦で止めを刺されたのでした。
⇒『平家物語』の巻第八に詳しく書かれている。
その緒方三郎の本拠地に、平家の一門が足を踏み入れるのはまさに自殺行為です。
「追手」どころか「本陣」に、のこのこと女官たちが入って来れる可能性はゼロだということです。
(2) さらに、この宇知多神社のご神紋は16花弁の「菊花のご紋章」なのです。(冒頭のご由緒書参照)
この9人の女官たちが、平家の一門だったとしたら、天皇家が「菊花のご紋章」の使用を認めるでしょうか?
つまり、ここに祀られているのはかなり身分の高い皇族のひとり(皇女)であるということです。
まだまだ推察は終わらない
ところが、ここに大矛盾点がひとつだけ残ります。
まずは、右の地図をご覧ください。
もうお分かりですよねえ。
京の都を出発して、日向の法華岳まで行く途中ならば、豊後の国・三重町に立ち寄るのは、大変な遠回りになるということです。
この事件があった源平時代には、貴族の移動手段は「船旅」が常識で、9人の女官たちは瀬戸内海を船で渡って九州に上陸したに違いありません。
なぜそのまま船に乗って宮崎市内あたりまで行かなかったのでしょうか?
途中で豊後の国に上陸しているのには、それなりの「理由」があったからに違いありません。
豊後国に立ち寄った理由とは?
そこで、登場するのが『真名野長者伝説』です。
実は、この9人の女官が祀られている「宇知多神社」のすぐ近くには、真名野長者が屋敷を構えていたという伝説の「有智山蓮城寺」があります。
その距離、わずか2kmくらい、歩いて行ける距離です。
そこには、もうひとつの薬師如来が祀られており、その眼前にある「金亀が淵」には、皮膚病治療の伝説が残っているのです。
すなわち「都からやってきた玉津姫が、この水で顔を洗うと、みにくい顔のアザが取れた」と書かれています。
【原文】『此の渕の水にて、我が身を洗うべし』と、姫、御身を洗い給えば、 不思議なるかな、黒痣、忽ち落ちて容顔美麗に成り給う。『御身も垢離掻き給え』と、姫の進めに依り、小五郎も其の侭、飛び入りて身洗い浴し給えば、猿の如き小五郎も、忽ち、形容美男となる。」
何が言いたいのか、もうお分かりですよねえ。
そう、9人の女官たちは、まずここ三重町に皮膚病治療にやってきたのです。
もしそれでもダメなら、さらに遠い日向の法華岳まで足を延ばそうという2段階の治療計画を立てていたに違いありません。
しかし、残念ながらここで体力の限界を迎えてしまいます。
最近の新発見
さてさて、この皮膚病治療に効くという不思議な水ですが、これは単なる伝説なのでしょうか?
そうではなかったのです。
最近になって、このあたりからとんでも無いものが発見されました。
それは、「地下水」なのですが、「冷泉」であり、しかも「天然アルカリイオン水」で、pHが10という超希少な水なのです。
大分県の薬剤師会に鑑定を依頼して、正式に「温泉」であることが認定されました。
最近はやりの「アルカリイオン水」ですが、天然のまま、しかもアルカリ性の数値が異常に高い状態で存在するのは、日本全国広しといえども、そう多くはありません。
この水には、「殺菌作用」と同時に「保湿作用」があり、ウィルスによる皮膚病を治療するには理想的な天然水なのです。
私は勝手にこの水を「金亀水」と名付けました。
なぜなら真名野長者の夫婦の前に金色の亀が顕れて、下記の吉兆を残しているからです。
『天竺にては、 舎衛国江南渕の旧室婁と云う蟾(ひきがえる)と化し、百済国にては、竹林山の麓万能渕の白蛇と現れ、 当国にては、 金亀と化して此の渕を栖とす。 三国まで守護せし宝、残らず夫婦受け取り給え』と、 云い捨て、忽ち、金色の鴛鴦と化けて西を指して飛び去る。
あるいは、真名野長者夫妻が受け取った「お宝」とは、黄金だけではなく、この「天然アルカリイオン水」だったのかもしれません。
だから、夫妻はこの地に『千体薬師如来』を奉納しているのです。
そして、後年になってから、この「天然アルカリイオン水」で、感染症の皮膚病を治療しようとした皇族の女官たちは、この地で終焉を迎え、「宇知多神社」に祀られることとなったのです。
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