近松門左衛門の『用明天皇職人鑑』より
私は、以前から「聖徳太子は真名野長者の孫である」と主張していたのですが、今回また新たな証拠が見つかりましたので、お知らせします。
それは、江戸時代(1705年)に近松門左衛門が手掛けた人形浄瑠璃の脚本である『用明天皇職人鑑』のなかに書かれています。
この脚本、どういう訳か? 長いこと行方不明となっていたのですが、近年になって大阪から発見され、2009年になってから久々に上演されたといういわく因縁のある演目です。
私が苦労して手に入れた原本も、戦前の昭和10年に「岩波文庫」に収録されたものであり、多分これも既に廃刊になっているものと思われます。
いったい誰が、聖徳太子を歴史から抹殺しようとしているのでしょうか?
私のこのささやかな記述が、真実の解明に貢献してくれることを祈らずにはいられません。
それでは、一緒にその内容を見てゆきましょう。
聖徳太子の出生をめぐる諸説
そもそも『真名野長者伝説』は、現在ではどのように伝わっているのでしょうか?
一言でいうと、結末が全く書き換えられています。
◆通説によると・・・・
真名野長者の娘・般若姫は、用明天皇との間に玉絵姫を生んだが、母親の般若姫は用明天皇に会いに行く途中で船が難破して亡くなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%90%8D%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%80%85%E4%BC%9D%E8%AA%AC
◆ところが、『用明天皇職人鑑』によると、こうなっているのです。
まの長者の娘・玉世姫は、用明天皇との間に聖徳太子を生んだが、親子3人で上京する途中で反乱軍を鎮圧して、無事に帰京した。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc13/sakuhin/syuyo/p3/p3-b.html
この2つの記述の違いは「言い間違い」や「記憶違い」のレベルをはるかに越えています。
つまり、人為的なねつ造や改ざんの痕跡がはっきりと読み取れるほど、決定的に異なっているということです。
『用明天皇職人鑑』のあらすじ
◆用明天皇が「山路」と名を変えて、豊後の国にやってくるまで。【1~3段目、省略】
◆山路こと用明天皇は、真名野長者の娘・玉世姫を孕ませてしまい、長者の屋敷にて臨月を迎えます。
【原文】御誕生の若宮を、むまやどの王子(厩戸皇子)と名付け参らせらる。これ駒繋ぎのほとりにて降誕なりし故なりし。
◆この子は、生まれたながらに左手が開かなかったので、上京して名医に見せることしました。
◆播磨の国に着いたとき、千人あまりの騎馬武者が金銀の日月の旗(皇室の御印)を掲げて近づいてきます。
それは、用明天皇のライバルで兄の山彦王子が、丹州の大江山で挙兵したので、「生まれたばかりの王子を討伐軍の総大将として、これを退治せよ」という勅命が下ったことを知らせるためでした。
【原文】この度御誕生の若宮に、親王宣下あって、すなはち御名を聖徳太子と名付け申す。
◆このあと延々と戦闘シーンが続き、【省略】
◆最後は、聖徳太子が左手を開くと、身を隠していた桐の木とともに消えて無くなる。
という、不自然な結末となっていますが、恐らくこの部分も何者かにより加筆修正されているのでしょう。
⇒話しの流れからして、ここで消えて無くなるのは山彦王子のハズだが、そうなっていない。
【原文】かかる所に(蘇我)稲目の臣、勅使として発向あり。(欽明)天王御位を親王(用明天皇)に譲り、玉世の姫は皇太后。聖徳太子はもうけの君との宣旨なり。
大切なのは、用明天皇と玉世姫との間に生まれたのが聖徳太子であり、すなはち真名野長者が外戚の祖父だということになります。
山彦王子とは何者か?
さてさて、ここに出てくる【山彦王子】ですが、用明天皇の兄にもかかわらず、用明天皇を亡き者にしようと、たびたびその命を狙います。
この脚本の中では、それが理由で用明天皇は都を追われ、山路と名を変えて、九州・豊後国の府内まで逃げ伸びてきたことになっています。
しかも、山彦王子は、用明天皇が一目ぼれした玉世姫を横取りしようとしたり、聖徳太子の誕生を妨害しようとしたりした挙句、最後には丹州の大江山で挙兵して用明天皇=聖徳太子の親子に滅ぼされます。
一体、この人物は何者なのでしょうか?
通説では、用明天皇の兄とは、先代の第30代・敏達天皇のことであると伝えています。
近松門左衛門も、さすがに敏達天皇を実名で悪役に仕立てることはまずいと判断して、わざわざ仮名を使ったのではないでしょうか?
この敏達天皇、日本書紀に「仏教を信(う)けたまわずして、文史を愛みたまふ」とあるように、仏教をとことん嫌っていたようで、ついに「仏法を断(や)めよ」という詔を出します。
これを喜んだのが排仏派の物部氏と中臣氏です。
これに対して、弟の用明天皇は蘇我氏らとともに、仏教導入の推進派でした。
つまり、この脚本の背後にあったのは、異母兄弟同士の「宗教対立」であり、さらに物部氏・中臣氏と蘇我氏の「権力抗争」が加わって、複雑で分かりにくい時代を生んだようです。
それを図式化したのが、こちらです。
この時代から約100年後の奈良時代になっても、この対立構造はそのまま残り続け、今度は「天智天皇 vs 天武天皇」の争いとなって顕在化します。
ところが、仏教導入派の蘇我氏や真名野長者はすでに滅ぼされて存在していませんでした。
「排仏派」の旗頭だった藤原氏(中臣氏)が書いた『日本書紀』や、同じく物部氏の子孫が書いたとされる『古事記』には、聖徳太子や蘇我氏の記録はあいまいで、真名野長者にいたってはその存在は全く無視されています。
聖徳太子が真名野長者の孫であるという事実は、江戸時代までは確実に通説だったのです。
私はこのことを何とか皆さんにもお知らせしたいという一心で、過去には下記の記事も書いています。
『歴史は勝者のために造られる』
されど、我々庶民は、常に真実を見極める目だけは持っていたいものです。
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