『竹内文書』のなかには、かなり興味深いことが書かれています。
特に、ウガヤフキアエス王朝(不合朝)については、私の研究している『ウエツフミ』とほぼ記述内容が一致しており、両者を補完しあうことにより、古代史の真実が見えてきます。
今回は、ムー大陸とレムリア大陸の沈没に関する記述を発見しましたので、みなさんにもお知らせしておきます。
竹内文書の記述内容
そこには、「姆、雷姆利亞大陸沉没」と、たった一言だけ書かれています。
【原文】https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sindaimonji/takeuchi.htm
これを「ミヨイ、アミタラ大陸沈没」と翻訳したのが、大変な大間違いでした。
そのお陰で、後世の研究者たちが大混乱することになります。
信者の方には申し訳ないのですが、もしかしたらこれは出口王仁三郎さんのミス?
私には、どうみても「ムー、レムリア大陸沈没」としか読めないのですが、みなさんはいかがですか?
「姆(ムー)、雷(レ)姆(ム)利(リ)亞(ア)大陸沉没」
多分、豊国文字⇒漢字⇒カタカナと変換されているうちに元の読み方が分からなくなったのか、あるいはこれはGHQによる意図的な隠ぺい工作でしょうか?
どちらにせよ、ムー大陸とレムリア大陸は、それぞれ別の大陸で、その2つが同時に沈没したことになります。
その時期とは?
それは、第69代・ウガヤフキアエスの命の時代といいますから、私の推測では紀元前1~2世紀頃のこと。
なぜそれが言えるのか?というと、このお方(第69代)のひ孫がヒダカサヌ(第73代で神武東征したとされる人物)であり、その東征の時期については、私も落合莞爾先生も、「おおよそ紀元前1世紀から起源元年頃であろう」と結論付けているからです。
これはまさに「偶然の一致」でした。
私の『ウエツフミ研究』と『落合学説』とは、全く違う角度から、かなり真相に近づいているのではないでしょうか。
この頃、世界的に寒冷化が襲い、日本では天候不順で農作物が育たず、地震が続いて島が崩れたと『ウエツフミ』にあります。
その場所とは?
冒頭に掲げた地図は、下記のサイトからお借りしました。
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1065244697.html
有名な竹内睦泰氏は「竹内文書は(GHQに接収されたので)原典は存在しない。私の頭の中にある」と発言していますので、この地図がどこから出てきたのか出典が不明ですが、ウェブ上で検索する限り、その場所はほぼ全員一致しているようです。(上記の画像参照)
つまり、現在のハワイ諸島の北側あたりの、太平洋上にあったということです。
冒頭の地図はよくみると南北が逆転しており、日本列島が逆さまに書かれています。
これは、弥生時代の一般常識で、当時は「お天道様であるアマテラスにお尻を向けるのは失礼である」という考えから、「自分が太陽に向かって立ったときにどう見えるか?」という視点で地図が書かれていました。(ウエツフミのどこかにその説明があります)
もし、この場所こそ伝説のムー大陸とレムリア大陸であるとするならば、私も以前に、ハワイ諸島の北側に「天皇海山群」と呼ばれる謎の海底山脈を発見し、記事に書いていますので、こちらから。
ウエツフミによる検証
それでは、このことは『ウエツフミ』ではどう語られているのでしょうか?
さっそく第69代の記述を探してみると、やっぱりあるではないですか!
直接「大陸が沈んだ」とは書かれていませんが、もっと生々しい現実が書き残されていました。
「屋久島に押し寄せたボートピープルたち」
◆宮崎県の国司であった彦根高別の命が、船で大海原を巡航していると、屋久島に大量のボートピープルが潜伏しているのを発見。
◆その理由を尋ねたが言葉が通じないので、さっそく高千穂の大宮(皇居)に報告。
◆それは加羅支那人であり、シニウという王様がだらしないので国が滅びて、船で逃げてきたが、30%が遭難し、20%は死亡、10%だけが生き残った。
◆さっそく対策会議が開かれ、全国の4カ所に分けて「難民保護区」が置かれた。
◆彼らには狩猟道具が与えられ「これで獣を捕獲して自活せよ」と、保護された。
◆これが「エッタ」の起源である。(差別用語だが重要なのであえて表記)
【出典】ウエツフミ 宗像本 第35綴第20~22章
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=35&sno=20
彼らは何者か?
さてさて、沈没したムー大陸とレムリア大陸から逃げてきた外国人が、日本に住み着いて被差別民となったと読めますが、彼らは一体何者だったのでしょうか?
まず「加羅支那人」という言葉に惑わされないことです。
なぜなら、これが書かれたのは鎌倉時代であり、まだ世界史について正確な認識が存在していたとは思えないからです。
つまり、「よく分からない外国人」程度に考えておいたほうが無難です。
それを解くもうひとつの重要なキーワード、それは「徐福」です。
ご存知のように徐福が、蓬莱山を求めて秦国を出港したのは紀元前3世紀のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
その一団が、ムー大陸かレムリア大陸で、蓬莱山を発見して住み着いたとしてもおかしくありません。
ところが、それから約200年後、せっかく辿り着いた“約束の地”も、太平洋上の海中に没してしまいます。
だから、彼らは日本を目指したのです。
徐福の子孫らが書いたとされる『宮下文書』、そこにはさらなる不幸が綴られていました。
日本で最初に彼らが拠点としたのは、富士河口湖あたりにあった「阿祖山大神宮」でした。
なんと、ここも富士山の噴火により全滅してしまいます。
⇒詳しくは、こちら。
日本国中を放浪することになった流浪の民たち、彼らはさらなる安住の土地を求めて、今度は北九州・豊前の「香春」に、「秦王国」を建設します。
その後、彼らが何百年もかけて日本の天皇家となったと落合莞爾先生は説いていますが、果たしてどうでしょうか?
私は、「本物と偽物の戦いは現在でも続いている」と考えていますが、長くなりますのでまた章を改めます。
コメントをお書きください