奈良県宇陀市鳥見山公園
『ウエツフミ』には、神武天皇ことヒダカサヌが奈良に遷都したのち、最初に創建した神社の由緒が詳しく書かれています。
恥ずかしながら土地勘の無かった私には、それがどこのことを指しているのか全くイメージできなかったのですが、先日奈良を旅行したことで、やっとその場所を特定できました。
それが、「鳥見神社」なのです。
現在は「鳥見山公園」という公園になっており、そのなかに「鳥見社」という小さなお社がありますが、こここそがニニギ・ヒコホホデミ・初代ウガヤフキアエズの日向三代が祀られた、古いふるいお社だったのです。
【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E8%A6%8B%E5%B1%B1
克明に蘇る激戦地のランドスケープ
9月のある晴れた日、高校の後輩の佐藤君と二人でドライブしながら、どこかで昼食にしようと、あてもなく奈良盆地をさすらっていると、とある道路に紛れ込んで迷子になってしまいました。
それが国道165号線のバイパスだったのです。
きっとこれも何かの意味があって、招かれたのでしょう。
この165号線は、奈良盆地から宇陀市内を通り抜けて、伊賀上野へとつながる、いわば重要な【関門=Gateway】です。
この、山の切れ目をぬうような谷あいの狭い道路を通らなければ、三重県方面に抜けられないからです。
神武東征の当時にも、ここは主要幹線だったはずです。
だから、ナガスネヒコもここに本拠地を置いたのでしょう。
なぜなら、福島県の亘理からやってきたいわば“よそ者”にとって、奈良平野のど真ん中に拠点を置くことは危険すぎるからです。
360°を敵に囲まれるよりは、むしろこのような狭い谷間の土地に本拠地を構えることで、防御の最前線を2ヵ所のみに制限できます。
⇒景行天皇が竹田市を攻めるときに置いた行宮である「宮処野」も、深い谷の奥にある「行き止まり」のような地形である。
神武天皇ことヒダカサヌも、最初は奈良盆地方面から東に向かって、この宇陀の地を攻めたのでしょう。
ところが思わぬ苦戦を強いられて退却します。
⇒詳しくは、こちら。
だから、「朝日に向かって攻めることを断念」して、船で熊野方面から迂回して、伊賀上野経由で宇陀の地を攻めることにしたのです。
つまり、「朝日を背にして西に向かって攻める」という言葉の真の意味は、「ナガスネヒコの本拠地を背面から衝く」ということだったのです。
このときに全面協力したのが伊賀上野に居たある勢力です。
「なんだって? 伊賀者? つまり忍者?」
その通りですが、そう呼ばれるようになったのは江戸時代になってから。
当時は「八咫烏」、または「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれていました。
【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E8%A1%86
説明すると長くなるので省略しますが、本物の「八咫烏」とは、京都を本拠地とした渡来人ではなく、伊賀上野を本拠地とする「忍びの衆」だったのです。
宇陀の地に神社を建てた理由
神武天皇ことヒダカサヌが、最初に構えた皇居について、『ウエツフミ』はこのように書き記しています。
「畝傍山の東南の隅にある橿原の地に、カヤ葺きの掘っ立て小屋を建てて、ここを自ら皇居と定めた」
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=40&sno=7
そうです、現在の橿原神宮がある場所です。
だから、忌部氏の祖先たちがこの粗末な小屋を見るに見かねて「私たちが新居を建てて差し上げましょう」と申し出たんですね。(『古語拾遺』による)
さらに、宇陀の地に建てられて神社については、このように書き記されています。
◆『ウエツフミ 宗像本』第40綴第7章
天津神、国津神、日嗣の御祖の大神たちをお祀りするために、
この榛原(はりはら)の小さな野原に、太い柱を敷き(大きな建物を建てて)お祀りして、
直ちにヒコヤイミミの命(三男)をイツキの宮主(神職)と定め給いました。
⇒【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=40&sno=7
◆『ウエツフミ 宗像本』第41綴第1章
そこで、神武天皇ことヒダカサヌは、
鳥見山のある上津榛原(かみつはりはら)の小さな野原に、
太い柱を建て、高い屋根を檜皮葺で幾重にも厚く葺き、千木、氷木、鰹木を載せて、
皇室の先祖神である、ニニギの命、ヒコホホデミの命、ウガヤフキアエズの命をお祀りして、
また下津榛原(しもつはりはら)の小さな野原に、ウガヤフキアエズ第2代から第72代までを合わせてお祀りしました。
⇒【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=41&sno=1
<私流の解釈>
ここで私は、原文にある「ハリハラのオノ」のことを、「榛原地区にある小さな野原」と解釈しました。
小野は地名ではなく、大野に対する小野であり、小さめの平地という意味にとったのです。
さらに、「カミツハリハラ」と「シモツハリハラ」の違いを、宇陀の谷ぞいの「上手」と「下手」であると解釈しました。
ということは、宇陀の谷ぞいのどこかに、もうひとつの神社があるハズです。
<もうひとつの鳥見山>
血眼で地図を探していた私は、もうひとつ別の「鳥見山」が、桜井市にあることを発見します。
そこにあったのが「等彌神社(とみじんじゃ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E5%BD%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE
しかも、ここには「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤 顕彰碑」という石碑も建てられているのです。
https://ameblo.jp/keith4862/entry-12396900212.html
ただし、いかにも外国人による「変な当て字攻撃」の対象となっている匂いがプンプンとします。
もともとは、「下津鳥見神社」であり、「鳥見」が「等彌」に変えられたのでしょう。
しかも、ここのご祀神が第2代から第72代までのウガヤフキアエズの命であったならば、それは歴史には登場してはならない日向族の天皇だったのであり、意図的に入れ替えられているハズです。
東遷後はここが鬼門となる
以上、『ウエツフミ』の記述から、狭い谷あいの戦略拠点である宇陀の地を見守るように、東西両側に二つの神社が建てられたことが判明しましたが、その理由は何だったんでしょうか?
ひとつには、やはりここが鬼門だったからからでしょう。
自分たちが、この谷からナガスネヒコを攻めたということは、将来、自分たちもここから攻められる可能性があるということです。
その意味で、ここはまさに重要な【関門=Gateway】であり、ここを封印する必要があったのです。
2つの「鳥見山」の地名は、まさにその役割を象徴しています。
つまりここは、まるで「鳥のような目で敵を見張るための監視台」だったのです。
もうひとつは、ここがもともとナガスネヒコの本拠地だったので、その霊魂を鎮魂する必要があったのでしょう。
だから、この谷を東西から挟むように、東と西に自分たちの先祖神を配置したのでしょう。
そして自分の御子を神官に指名する
この重要拠点であった宇陀の地に、自宅を構えて鎮座したのが、神武天皇の三男であるヒコヤイミミの命でした。
多分、スピリチュアル的に優れた三男を奈良に配置して、大事な跡取り息子の次男・カムヌナガワミミを、大分に残しておきました。
ちなみに、長男のタギシミミは、反乱を起こした責任で、福島で医者になり、四男のカムヤイミミは阿蘇の地が与えられました。
このヒコヤイミミの命こそが、「鳥見神社」の祭儀を司る初代・神職であったことは前述したとおりです。
だから、この宇陀の榛原という土地には、ヒコヤイミミの命の痕跡が残されているはずですが、それは次回の旅のテーマとなりました。
不思議なご縁で呼ばれた今回の旅
ドライブしながら、あても無くさまよっていた私たちは、やっとあるレストランにたどり着きます。
それが、細うどんが名物の「いづみ亭 桜井店」だったのです。
日曜日に家族連れでほぼ満員のこのお店、どうみても人気店であり、私たちは長いこと待たされてやっと昼食にありつきました。
その「細うどん」を食べた途端に、私の脳裏に懐かしい記憶が蘇ります。
「これは大分県の味と同じだ!」と・・・・
まるで神様に招かれたように、不思議な体験が続いた一日でした。
例えば・・・・
◆雨の予報だったのに、なぜか一日中良い天気。
◆最初に訪れた「檜原神社」で、たまたまガイドが別のグループに説明するのを聞いて、ここにまだ天照大神が鎮座していることを確信する。
◆「大神神社」を訪ねると、ちょうど縁日で、私たちが本殿に到着した途端に申し合わせたように「大祓えの祝詞」が始まる。
◆「箸墓古墳」では、それが九州からやってきた姫君で、この陵に封印されていることを佐藤君から聞かされ、池に居た鶴(のような鳥)と亀が「そうだ」と教えてくれる。
◆あてもなく南を目指した私たちは、偶然「石舞台古墳」に辿り着いて、それが真名野長者の跡取り息子の百合若大臣こと蘇我馬子の墓であり、粉々に破壊されていることに驚愕する。
⇒詳細は、こちら。
◆さらに偶然に「神宮寺跡」に辿り着いて、住職からその由緒を教わる。
⇒佐藤君が撮影したまるで生きているような聖徳太子に遭遇。その写真はこちらから。
◆その夜、奈良ウガヤゲストハウスで、ご主人から平家物語の琵琶を聞かされる。
⇒詳細は、こちらから。
もう一度繰り返しますが、私たちはノープランで、ナビも無く、あても無く奈良盆地をさすらっていたのです。
それが、日向族が東遷した数々の証拠を、目のあたりにする旅になろうとは・・・・?
もう絶対に招かれてますよねえ。
次回は、いつにしようか、今から楽しみです。
なぜなら、お腹を空かせた私たちは、こともあろうか「鳥見神社」に参拝することを忘れてしまったからなのです。
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