「二上山」と「うのこの滝」の現地調査から得られた結論
実は、友人から「宮崎県五ヶ瀬町に“うのこの滝”という絶景のパワースポットがあるので、ぜひ訪れてみてください。」というアドバイスがありました。
この辺りは、以前から気になっていた場所だったので、休日を利用してさっそく調査してみることにしました。
すると、段々と分かって来たのです。
高千穂がどんな場所で、何があったのか?
そしてそれを破壊した者の正体までも・・・・・
まず二上神社を訪れる
いろいろな都合が重なり、まず高千穂町にある「二上神社」を訪れることにしました。
するとお約束の「道路工事につき通行止め」となっています。
私が重要な聖地を訪れるときには、なぜか必ずこのようなトラブルがつきまとうのです。
多分「それでも本当に来たいのか?」という、神様からのお試しなのでしょうね。
幸いにも4WD車で来ていた私は、なんなくう回路を突破して無事に二上神社にたどり着くことができました。
するとそこに、ちょうど宮司さんの甲斐重寛氏が待ち構えていたのです。
正確には、新たに奉納された額を拝殿に固定するために来ていたのですが、私に会うためにそこに居たとしか思えません。
それは、「天孫降臨(天下泰平)」を描いた額と「イザナギ・イザナミの国造り(修理固成)」を描いた額の二枚の絵でしたが、この額があとから重要になってきますので、覚えておいてください。
ここで自然と会話が盛り上がってしまい、なんと2時間近くもお話を伺うことができました。
そのお話の概要を下記にメモしますと・・・・
◆二上神社のご神体は、二上山(ふたがみやま)である。
◆二上山には、男岳と女岳の2つのピークがあり、高千穂町側から女岳を拝むのが「二上神社」で、五ヶ瀬町側から男岳を拝むのが「三ヶ所神社」である。
◆二上山は「天孫降臨伝承」の地として知られる。(左側の額の絵)
◆そこに祀られているのは、イザナギとイザナミの夫婦神である。(右側の額の絵)
◆実は、この男岳と女岳を結ぶレイラインは、二上神社の拝殿を通過して、高千穂神社を通り抜け、天岩戸神宮にまでつながっている。
◆しかも、そのラインの途中にはミケヌ命(神武天皇の兄)に滅ぼされた「鬼八(きはち)」という伝説の龍の力石もある。
◆以上から、高千穂神社のある場所がもともと「大宮(皇居のあった場所)」で、その南西の裏鬼門にあたるこの場所に、二上神社が創建されたのではないか?
◆本殿を飾る彫刻は、なぜか「鍾馗様(中国の英雄)」と「七福神」が中心であり(下の写真の左側)、イザナギ・イザナミと思われる男女二神の彫刻は、大きな鳥がそのお顔を覆い隠している(下の写真の右側)。
◆しかも、二上山の山頂にあった「五輪塔」を、何者かが持ち去って、現在は無い。
・・・・・とのことです。
以上のお話の中で、私がどうしても納得できない部分がありました。
皆さんはお気づきでしょうか?
「天孫降臨の地」ならば、「なぜご祀神がニニギの命ではなく、イザナギ・イザナミなのか?」という点です。
二枚の額の関係は?
宮司さん自身もこのことには気づいておられました。
さらに、なぜ「鍾馗様」なのか?
誰が「五輪塔」を持ち去ったのか?
なんとなく、しっくりしないまま二上神社を後にした私は、五ヶ瀬町に向かいますが、その理由はいずれ判明することになるのです。
たまたま立ち寄ったレストラン「五瀬」
さて、いよいよ目的地である「うのこの滝」に向かおうとしていた私ですが、ちょうど昼食どきで、早朝から出発した私は猛烈な空腹感に襲われます。
すると、またしてもトラブルが・・・・
目指していたお蕎麦屋さんが閉まっているのです。
「平日なので仕方ないか?」と思いながら、あたりを見渡すと、なんとそこは「三ヶ所神社」の門前であったことが分かりました。
空腹感に耐えられなくなった私は、「三ヶ所神社」の参拝もそこそこに、食べ物屋さんを探します。
すると、近くのG‐パーク内にある「木地屋」というホテルを発見したのです。
⇒こちらです。http://www.gokase.co.jp/kijiya/
なんとそこにあったレストランの名前が「五瀬」!!!
なぜ、ここにイツセの命の名前が?
帰ってからWebで検索してみると、やっぱり出て来ました。
「五ヶ瀬町」の町名は、「五瀬の命」から来ているのです。
⇒【参考サイト】https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/036.html
そういえば、五瀬の命をめぐる民間伝承は、祖母傾山系・阿蘇山・久住山系を結ぶ「五瀬ゾーン」内に集中しているのです。
神武天皇の兄であり、いち早く単独でナガスネヒコの土地(奈良県宇陀町)に足を踏み入れて、不幸にも命を落としてしまった九州王朝のプリンス。
もしかしたら、地元民たちは(東遷により)奈良の人となってしまったヒダカサヌ以上に、イツセのことを愛していたのかもしれません。
今度は二上山の山頂へ
さてさて、昼食を終えた私は、いよいよ「うのこの滝」を目指すのですが、またしても道に迷ってしまいます。
そこで踏み込んでしまったのが「フォレストピア六峰街道」という林道でした。
あとになって分かったのですが、この林道は二上山の男岳と女岳の中間を走り抜ける新しい道路だったのです。
そういえば、二上神社の宮司がこう語っていたのを思い出します。
「五ヶ瀬町は観光開発に積極的で、最近新しい林道を造って二上山に車で登れるようにしたし、もともとあった三つの神社を統合して三ケ所神社を創建したが、いずれも最近になって作られたもので、こちらが本物である、云々」
やっぱり、今回の旅もすべて神の計画通りで“呼ばれている”ような気がします。
こうなったら、行くとこまで行くしかありません。
そこで、思い切ってルートを変更して、二上山の山頂を目指すことにします。
そこで出会ったのが「三ケ所神社」の奥宮である岩屋。
男岳の9合目付近に、投げ込み寺のような巌屋(がけの途中の洞窟)があり、ここに主祭神であるイザナギ、イザナミの命と、合祀神であるニニギノの命、サルタヒコの命などが祀られています。
さらに、この上には男岳の山頂があるようなので、「極めなければ見えない景色がある!」と我ながら名言を残しつつ、ピークを目指しますが、昨日降った雨が険しいガケ道を濡らして、かなり危険な登山となりました。
その山頂に着いてみると、実は何もありませんでした。
内心は「がっかり」・・・・
さらに「東峰まであと3分」の標識を頼りに、竹笹をかき分けながら東峰を目指します。
すると、なんとも清らかな場所が出現しました。
ここです、こここそが聖地なのです。
ここに五輪塔があったのか、それとも女岳にあったのか、確認するのを忘れてしまいましたが、何やら石の遺構の跡があります。
この男岳東峰から右手を眺めると太陽の昇る東方向、左手を眺めると月の沈む西方向。
「ああ、このことだったんだ」と、心の中で納得します。
ここで、二上神社に掛けられていた額のことを思い出してください。
なんと「二上山」を中心に、右側には月を象徴する銀の丸、左側には太陽を象徴する赤の丸が描かれていたのです。
今度二上神社を訪れた方は、ぜひこの「額」を確認してみてください。
そして、この太陽と月こそが、この場所の本当の意味を暗示していたのです。
それは、あとから分かります。
やっとうのこの滝に辿り着く
さてさて、二転三転しながらへとへとになって、やっと「うのこの滝」に辿り着いた私は、思わぬ絶景を目にします。
大地に突然ポッカりと空いた巨大な穴。
そこを目がけて大量の水が流れ落ちます。
しかもここは、滝つぼの裏側にまで入れるという、まさに大自然の驚異です。
全国各地に「裏見の滝」と呼ばれる景勝地はありますが、ここまでハッキリと滝つぼを裏側から観察できる場所は、数少ないのではないでしょうか?
この場所で連想したのが、マヤ文明を支えた「セノーテ」という巨大な地下水脈と丸い自然の井戸。
⇒【参考】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%86
深い森に囲まれた、小高い山と、豊富な地下水。
これが無ければ、文明は発祥できなかったのです。
それは、あたかも【陽】と【陰】であり、この場所こそが、陽の極地である「二上山」の対照となる陰の極地「うのこの滝」なのでしょう。
さらに、ここ九州では「自然に噴き出す泉」のことを「いのこ」と呼びます。
「いのこ」が「うのこ」に訛ったのか、それとも「いのこ」に対する「うのこ」という古語が存在したのか分かりませんが、ここ五ヶ瀬町が間違いなく聖地であることを裏付ける決定的な証拠を、最後の最後に目にしたことになります。
・・・・と、ここまでは単なる「旅行記」で終わってしまいそうですが、実はこれらの体験には壮大な「種明かし」があったのです。
いよいよ種明かしを・・・・
今回の旅で目にした全てのこと、それには必ず意味があるはずです。
さっそく家に帰ってから私のバイブルである『ウエツフミ』を紐解いてみることにしました。
すると、やっぱり書いてあるではないですか!!!
そこに何が書いてあったのか?
結論を手短にまとめます。
◆第4代・ウガヤフキアエズの命(幼名をエミツホアカシ)は、即位するとただちに新しい大宮(皇居兼遥拝所)を、高千穂の地に建設した。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=21&sno=9
◆この大宮の敷地内に祀られたのは、天照大神、月読命、スサノオと東西南北の四方神である。
◆これらの神々を祀る神官の長として、表春中臣御祖の命、太玉忌部御祖の命、八心斎部御祖の命の三人が任命された。
⇒この記述から、表春(うわはる)氏はアメノコヤネの子孫、忌部氏はフトダマの子孫、齊部氏とはオモイカネの子孫であることが分かる。
◆これらの神官たちは、大宮の周辺である三田井や春日のゆりす(場所不明)の地に、屋敷を建てて住んだ。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=21&sno=4
⇒三田井は高千穂にある地名で、現在も三田井一族がお神楽などで重要な役割を果たしている。そして、この一族は大分県の緒方郷から移り住んだという伝説もあり、二上神社の宮司もそのことに触れていた。
◆そこで、周辺の豪族たちは毎月一度、ここ高千穂に参拝すること。また毎日自宅の神棚で神々を拝むこと。さらに毎月一回、年12種類の節句を行うことを定めて、国中に周知徹底した。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=21&sno=9
◆このときに、細かい建築様式(現代の神社建築の元となる)を定めた。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=21&sno=8
◆鹿児島県の霧島山に神社を建てて、イザナギ・イザナミを祀り、外国人の侵略を封じ込めることとした。だからここには天の逆鉾が刺さっている。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=4
◆自らの住む大宮に祀った神の名前は、天照大神、月読命、スサノオの三神であり、これを高千穂のフタノボリ山に祀った。
⇒これが現在の二上山である。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=5
◆また、東西南北の四方神を、阿蘇の御岳(みたけ)に祀った。
⇒阿蘇山の高岳のことと思われる。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=6
◆さらに、その他の諸神を豊日(大分県)の白山(しらやま)に祀った。
⇒現在、大分県豊後大野市には白山渓谷があり「大白谷」と呼ばれる地区があるが、その源流である傾山は、かつては「大白山(おおしろやま)」と呼ばれていた。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=7
すみません、少々引用が長くなりましたので、何を言おうとしているのかが、分かりにくくなったと思います。
もう一度、整理すると・・・・
◆第4代・ウガヤフキアエズの命(幼名をエミツホアカシ)の時代に、高千穂町(多分現在の高千穂神社のある場所)に、大宮が造られました。
私の推定では、紀元前500年前後のこと。
◆当時の天皇は、神々と一緒に寝起きしていたので、大宮とは皇居であり、同時に人民が参拝する神社でした。
そのなかには、大勢で会食する場所などもあり、ここでお神楽などの神事が行われていという記録もあります。
◆そして、大宮の周辺には多くの神社が建てられ、人民が毎月一度ここに参拝する決まりになっていたので、高千穂町は今以上に繁栄していたものと思われます。
◆ただし、この大宮は新しい天皇が即位するたびに遷都されたので、ずーっと高千穂に存在した訳ではありませんでした。
『ウエツフミ』には、歴代74代のウガヤフキアエズの命が、どこに大宮を置いたかが詳しく書かれていますが、後代になるほど大分県側に比重が移されて行ったようです。
そして、現在の二上山に祀られていたのが、太陽の神様・アマテラスと月の神様・ツクヨミ命でした。
またここで、二上神社の「額」に描かれていた赤い丸(太陽)と銀色の丸(月)の絵柄を思い出してください。
ウガヤフキアエズ王朝では、これが天皇家のシンボルとなります。
さらに、付け加えるならば、スサノオが五ヶ瀬町の近くに祀られていたかもしれません。
地図で検索すると、二上山の南西側に「祇園山」があり、ここに「祇園神社」があります。
しかも、二上神社の宮司が言っていたレイラインの真上です。
多分、ここがスサノオの鎮座した場所かと思われます。
最後に、侵略者の正体について
さてさて、このように天皇の皇居として、また神様の集まる場所として繁栄していた高千穂町ですが、それを侵略して破壊した者の正体について触れておく必要があります。
ヒントは、この記事のなかにも登場しています。
ズバリ!それは「鬼八伝説」です。
その概略は、ここでは省略しますので、興味のある方は、下記のサイトをお読みください。
【参考】https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/033.html
私が、疑問を抱いたのは、鬼八を退治したとされる「ミケヌ命」の存在です。
◆『ウエツフミ』では、ミケヌイルヌの命は、紀州和歌山の「ニシキの海戦」で、新羅の軍艦と刺し違えて戦死したと書かれているのです。
◆ところが「鬼八伝説」では、ミケヌ命は、暴風のため船が押し戻され、ひとり高千穂に帰国して、鬼八を退治したことになっているのです。
この違いは何か?
そうです。
答えは明白で、2人は別人であるということです。
このトリックに、私は過去2度も騙されています。
◆ひとつは、名草トジを虐殺したとされる神武天皇の伝説。
⇒神武天皇と名乗る侵略者が、和歌山の地に居た女王・名草トジを虐殺しているが、これは日向族の日高サヌではない。
◆もうひとつは、岡山県に伝わる「桃太郎伝説」。
⇒実は桃太郎が侵略者で、鬼の岩屋に立てこもった温羅一族こそが地元民であるという伝承。
しかも伝説では、鬼八を退治したのは大久米命であるとか、タケイワタツであるとか、主人公がバラバラで首尾一貫していません。
つまり、ニセ物の伝説なので、あえて曖昧にしておきたいのでしょう。
もうお分かりですよね。
ミケノ命と称するミケヌイルヌによく似た名前の別人が、高千穂に攻めてきて、本物のミケヌイルヌの子孫たちと、その信仰していた龍神「鬼八」を滅ぼしているのです。
私の推定によると、2世紀の「倭国大乱」のときです。
そういえば、ウエツフミによると、戦死した本物のミケヌイルヌの命は、「サイモチの神」に姿を変えて新羅の軍艦を海中から攻撃したとあります。
「サイモチの神」とは、まさに海の竜のこと。
つまり、ミケヌイルヌが戦死して「鬼八」と呼ばれる守護神になった可能性大なのです。
このときから、どうやら二上神社のご祀神も差し替えられたようです。
もともと天照大神が、二上山の女岳に祀られ、月読命が男岳に祀られていたのに、これをイザナギ・イザナミに差し替えただけでは飽き足らず、今度は鍾馗様に変えようとしているフシがあります。
もしかしたら、鍾馗とは、高千穂を侵略して鬼八を退治した外国人のことではないでしょうか?
そして、その子孫たちが明治維新を起こした可能性があります。
なぜならこの時代、二上神社は「郷社」にまで格下げとなり、現在やっと名誉を回復したものの、やっと「別表神社」どまり。
つまり天皇家には何の縁も所縁も無いので神社庁は保護しないという意味の「別表」です。
さてさて、長いレポートになってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
最後にもうひとつだけ付け加えておきます。
ウガヤフキアエズ王朝は、祖母山のどこかに降臨したニニギの命を始祖とし、まず高千穂地方で繁栄し、その後、第73代ウガヤフキアエズの命となるヒダカサヌは大分周辺で活躍したが、ご託宣により奈良に遷都。その後、大和王政を名乗る謎の勢力に滅ぼされて、その本拠地であった高千穂や竹田市は、壊滅的な状態となって現在に至る・・・・・
でも、これで終わらないのが歴史の面白いところです。
なぜなら、そのヒントを握っているのが「うのこの滝」だからなのです。
そして、もうひとつのヒントが、二上神社の脇神である「お稲荷様」。
なぜかこのお稲荷様は、二上神社の右脇にある滝から流れ出す清水のそばに安置されていたと宮司さんが証言しています。
つまり、水神だったということです。
その答えは長くなるので、また章を改めることにします。
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