ウエツフミの記述から邪馬台国の場所が明らかに
それは、ひょんなところから出てきました。
『ウエツフミ』に書かれた、「オロシの来襲」に関する記述を読んでいたときのこと。
そこには、こう書かれていたのです。
「穴門のクウリナカのマツラクニの・・・・」
穴門(アナト)の国とは現在の山口県のこと。
その端門(ハシド)にあたるのが関門海峡で、
その(クウリナカ)にあるのが「末盧国」だというのです。
この(クウリナカ)が難解なのですが、私は瀬戸内海にある湾のことだと解しました。
つまり「くり貫かれたような形状の内側」という意味。
しかも、石川県の羽咋に押し寄せたオロシを迎撃するため、直入(現在の竹田市)で兵を集めて出発した皇軍の船団がここに立ち寄っているので、関門海峡からそう遠くない場所で、当時はかなり大きな港があったハズです。(下記の遠征ルートを参照)
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=15
おそらく、周防灘の下関市長府あたりだと考えられます。
周防灘の東岸には「松屋」という地名もあり、もともと「マツラ」が訛ったのではないかと、田中勝也氏(ウエツフミ研究家)もコメントしています。
そういえば、この長府という場所、あの神功皇后が「豊浦宮」を置いたことでも有名ですよねえ。
つまり当時は重要な戦略拠点だったということ。
『魏志倭人伝』にもこうあるではないですか、
「(末盧国は)山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。」
この記述は、佐賀県の松浦郡あたりの地形とはずいぶん異なっています。
さらに、『日本書紀』の神功皇后紀には、佐賀県の松浦郡は、もともと「メズラ国」と呼ばれていたとあります。
つまり、末盧国は佐賀県の松浦郡ではなかったということです。
ほとんどの学者が、この末盧国を起点として、邪馬台国の場所を特定しようとしているので、この起点が大きくずれると、結論が全く違ってきます。
それでは、末盧国が山口県下関市長府のあたりだと仮定すると、魏志倭人伝の解釈はどう変わってくるのでしょうか?
対馬⇒壱岐から周防灘に寄港しなければならなかった理由
魏が恐れた「一大卒」とは?
まず、結論から先に書きます。
壱岐から邪馬台国にたどり着くには、唐津か博多に寄港するのが、一番の近道です。
これを「表ルート」だとすると、ここには立ち寄れないある理由がありました。
それは、糸島半島に「一大率」が居て、船の出入りを監視していたからです。
「一大率」とは、漢民族が置いた「出入国管理センター」のこと。
大陸から倭国に入ってくる船と、逆に倭国から帯方郡に出て行く船とは、ここでチェックされて、書類と積み荷とのあいだに矛盾が無いかを調べられていたのです。
つまり、「途中で横領されないように検査する」というのがタテマエで、実際は没収されたり、あるいは課税されていたものと考えられます。
もっとダイレクトにいうならば、漢民族以外の諸民族が倭人とコンタクトするのを見張っていたということでしょうか?
通説では「一大率」を倭国の官吏だとしていますが、私は漢民族の官吏だと解釈しました。
なぜなら、倭国の官吏は「大倭」という別名で呼ばれているからです。
さらに、『魏志倭人伝』の記述をよく読むと、漢本国から倭国に入って来る船については、検査の対象から外されています。
なぜなら、漢が置いた役所だから、漢の荷物を監視する必要はなかったということです。
従って、魏が漢に見つからないようにこっそりと卑弥呼と会うためには、この「一大卒」の置かれた糸島半島を避けて「裏ルート」から入国する必要がありました。
その「裏ルート」こそ、壱岐から周防灘に入るコースだったのです。
魏と邪馬台国、漢と奴国との関係
なぜこっそりと会う必要があったのか?
まず、その裏事情といおうか当時の国際情勢を理解しておく必要があります。
絶大な勢力を誇っていた漢帝国も衰退し、3つの国に分かれます。
これが魏・呉・蜀の三国時代であり、漢の正当な後継者が蜀なので別名を蜀漢とも呼ばれます。
これに対して、魏は漢民族に対立する北方民族(おそらくツングース語族系の高句麗グループ)が興した、独立国家だったのです。
ご存知のとおり、漢は奴国(現在の博多)との友好関係を深め、有名な「漢倭奴国王」という金印を授けています。
だから、糸島半島(当時の伊都国)に「一大率」を置いて、出入国を監視していたのです。
なぜなら、ここからは博多湾と唐津湾の両方を監視できるからです。
一方、魏は漢に反旗を翻した異民族です。
だから、漢の友好国である奴国の目を避けて、こっそりと卑弥呼の女王国と友好関係を結ぼうとしました。
だから、「親魏倭王」の金印を卑弥呼に授けたのです。
つまり、漢=奴国連合に対抗するため、魏=邪馬台国連合を築こうとしたということです。
ちなみにこの頃(紀元後2~3世紀)、日向族の興したウガヤフキアエス王朝は、すでに奈良に遷都しており、九州には数か所の拠点を残すのみで、弱小国が乱立してお互いに覇権を争っている状態でした。
だから、『魏志倭人伝』でも、卑弥呼の女王国の周りには、小国がウジャウジャと乱立しており、その作者である陳寿も「詳細に記述することはできない」とあきらめています。
特に、女王国の北側には、奴国や伊都国など漢と通じる小国が多かったので、多分、魏の使節は容易には立ち入れなかったものと思われます。
さらに、「女王国の南側には狗奴国の男王・狗古智卑狗が居り、女王国に属せず」と書かれていますが、これが『ウエツフミ』の伝える熊本県菊池郡の豪族ククチヒコ(現在の菊池氏)なのです。
もう一度繰り返しますが、女王国の北側には奴国や伊都国など漢の友好国があり、南側には敵対する狗奴国があったということです。
邪馬台国は筑後平野のどこかにあった
もう結論はお分かりでしょう。
邪馬台国は筑後川の流域、筑後平野のどこかにあったということです。
ちなみに『魏志倭人伝』では、女王国との境界にあった小国が、その名前だけ記録されています。
このなかで、私が注目したのは、下記の3つです。
◆好古都国(をかだこく)・・・『ウエツフミ』にも登場する白日国の岡田で、太宰府の南、現在の筑紫野市
◆対蘇国(とすこく)・・・・読んで字のごとく現在の鳥栖
◆蘇奴国(さがなこく)・・・・佐賀の語源か?
【出典】http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm
それではいよいよ、
「末盧国は周防灘の長府であり」
「邪馬台国は筑紫平野のどこかである」
という前提で、
魏志倭人伝を読み解いてゆきます。
(1)まず、魏からやってきた使節は、対馬⇒壱岐を経由して周防灘の長府にあった末盧国に寄港します。
その理由は、すでに述べたとおりですが、ここで態勢を整えてから、次の水行や陸行に備えました。
(2)この末盧国を起点として、東にあった国とは、本州にある国のことです。
また、南にある国とは、九州にある国のことです。
多少の方位の誤差や、距離の不正確さは全く無視しても良いと思います。
なぜなら、この『魏志倭人伝』を書いたのは漢民族の陳寿であり、かつては反乱国であった魏の歴史を書いている訳ですから、正確な情報が入手できないか、あるいは「魏はニセ情報をつかませて漢民族を混乱させたかった」とも解釈できます。
(3)伊都国=出雲国
末盧国から東南に500里行くと伊都国があります。
ここでは、伊都国とは出雲国のこと。
もともとは伊都■国で、モを表す漢字が欠落した?
だから糸島半島の伊都国と混同されたか、あるいは意図的に胡麻化された?
「世々王がある。みな女王国に属している。」とあることから、かなり古い豪族で、邪馬台国と交流があったのは、出雲国以外には考えられません。
(4)奴国=防府市の娑麼(さば)
東南に100里で奴国に到る。
つまり、出雲までの距離を250kmとすると、1/5の50kmの距離には娑麼という土地があり、熊毛族の本拠地でした。
ここから景行天皇が挙兵して九州を攻めたことでも有名。
(5)不弥国=山口市
東に100里で不弥国に到る。
山口と防府は南北にならんでおり、どちらも長府から50kmの距離です。
だから奴国が東南で、不弥国が東。
このあたりの記述、特に(3)(4)(5)は、大した意味は無かったのですが、九州にあった同じ名前の国とわざと混同させるために取り上げられたということでしょうか?
つまり、国名を改ざんすれは記述自体の信用性が失われるので、わざと似たような国名を掲載することで、本当の位置を悟られまいとしているということです。
(6)投馬国=宇佐市
南に水行20日で投馬国に到る。
ここには有名な宇佐神宮があり、ここも秦氏の拠点でした。
しかも船で行ったので、ここから日数表示に変わっています。
ただし、船旅20日はどうみてもかからないので、これも漢を欺くためのトリックでしょうか?
その南には、ウガヤフキアエズ王朝の本拠地があったので、渡来人が無断で入ってこれるのは、このあたりが限界だと考えられます。
(7)邪馬台国=筑後平野
水行十日、陸行一月で邪馬台国に到る。
ここでみなさんも大混乱しているのではないでしょうか?
一か月も歩き続けたら、日本列島からはみ出してしまうからです。
私の解釈はこうです。
長府を出航した使節は、まず行橋市あたりに上陸します。
現在の、福岡県京都郡みやこ町です。
ここは、宇佐までの距離の約半分にあたるので、水行10日としたのでしょう。
ここから、陸路で秦王国があったとされる香春(かはる)を目指します。
現在の福岡県田川市香春です。
香春には秦氏の本拠地があったので、これを中国人が「秦王国」と記しています。
⇒『日本書紀』による。
ここから、筑後平野の朝倉市に抜ける国道322号線、これを私は「秦氏ロード」と名付けました。
つまり、漢民族からもウガヤフキアエズ王朝からも気づかれずに、こっそりと卑弥呼と会うためには、この「裏ルート」が最適だったのです。
さらに、漢民族が興味を持たないように「遠いよ、遠いよ、やめといたほうがイイよ」という意味で、「陸行一月」としたのではないでしょうか?
あるいは、中国人の得意な表現法、例えば「食客三千人」や「白髪三千丈」のように数字には意味がなく、単なる「とても遠い」という形容詞として使われている可能性もあります。
いずれにせよ、一月にはこだわらないこととします。
こうして、魏と邪馬台国の間で友好通商条約が締結されました。
両国は、この「裏ルート」を往来しながら、鉄や水銀などの戦略物質を交換しあったのではないでしょうか?
邪馬台国が急速に力を付けたのは、魏から密かに持ち込まれた鉄製の兵器のお陰だともいえます。
その背後で、秦氏が武器商人として活躍していた姿がチラチラと見え隠れするのですが、それは単なる“幻”でしょうか?
もし私の推測が正しければ、筑後平野のどこかから卑弥呼のお墓が発見されるはずなのですが、ご存知のようにこのあたりは古墳銀座であり、私は文献解釈が専門なので、あとは考古学者にお任せします。
念のため弁解しておきますが、私は他人の書籍を読んでこれを書いている訳ではありません。
参考としたのは、古典の原文と私の直感だけなので、すでにある説と重複しているかもしれませんが、素人の妄言とお許しください。
そういえば、のちに源平時代になってから、平家一門もこの「秦氏ロード」を使って、九州の太宰府に落ち延びようとしますが、途中、末盧国で滅ぼされてしまったのは、単なる偶然でしょうか?
まさに、これが本当の「末路国」?
追記
この記事を書いている途中で、「卑弥呼の鉄鏡が日田から発見された」という報道が出て来ました。
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
これは、本当に偶然の一致なのですが、最近の私はまるで神様に書かされているような感じがします。
でも、私の見解はやっぱり筑後平野であることに変わりません。
なぜなら、日田盆地の周りには「小国がウジャウジャ乱立する」ような、広い土地は無いからです。あしからず。
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