古墳はどう使われたのか?

亀塚古墳とウエツフミを比較して分かったこと

それは、まるでピラミッドのようでした。

大分市丹生地区には、ほぼ完璧な状態で前方後円墳が復元されているのです。

その名も【亀塚古墳】

https://www.wikiwand.com/ja/%E4%BA%80%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3#

最初は、2つの小山が並んでいるのかと思いました。

でも、そうではなかったのです。

遠くからは、【前方部】と【後円部】がふたつ並んで見えていたのです。

上に登ってみて、はじめてそれが一体の構築物であり、きれいな【前方後円墳】になっていることが分かります。

しかも、もともと敷き詰められていた白い玉砂利や、赤い埴輪まで完璧に復元されているのです。

古墳がこんなに美しいものだったことを、初めて知りました。

それもそのはず。

関西の古墳の多くが、深い森に覆い隠されており、しかも立ち入り禁止。

これでは、造営されたときの様子が全く実感できません。

 

さっそく帰ってから『ウエツフミ』を紐解いて、あれこれと調べているうちに、いろんなことが分かってきました。

 


前方後円墳の正しい使われ方

まず結論から先に書きますと、

前方後円墳とは、

「死者の魂が、天之岩船に乗って、星へと帰ってゆくための、離脱ポートである」

ということ。

 

いきなりSF的になってきましたが、ちゃんとした根拠があり、『ウエツフミ』の随所に残された記述からこれを説明できます。


◆当時の葬儀は二段階で行われた。

人が亡くなると、まず【オクツヤヘ】または【オクツヤクへ】と呼ばれた殯屋(もがりや)に置かれます。

しかも座ったままの形で安置されました。

なぜなら、ここでしばらく生き返るのを待つからです。

あるいは、高貴な方については、もっと積極的に【イヨブセノマジ】と呼ばれた蘇生術が行われました。

あえて漢字を宛てると【息呼ぶ施の術】でしょうか?

 

つまり、人を蘇らせるための儀式が存在しており、このときに使われた呪文がニギハヤヒの伝えた「十種神宝(とくさのかんだから)」だったのです。

その呪文を全文掲載しておきますので、みなさんも声に出して読んでみてください。

これは宝物のリストではなく、呪文、あるいは祝詞そのものだったのです。

 

おくつかか へつかか

つるぎかか いきかか

たりかか しなずかか

ちもりかか かもりかか

むしひれ はちひれ

へみひれ けものひれ ものひれ

ひひ ふふ みみ よよ いい

むむ なな やや ここ とと

もも ちち よよ

ふるべ ふるべ

ゆらべ ゆらべ

【出典】『ウエツフミ』宗像本第36綴第7章

http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=36&sno=7

⇒このことは、以前にも書いていますので、こちらから。

 

このモガリが行われた場所こそが、日本の各地に残る「横穴洞穴墳墓」だと考えられます。

⇒詳しくは、こちら

しばらくたって、いよいよ蘇生が困難となってから、はじめて本格的なお墓に移されます。

このときの遺体の乗り物が【ミコシ】であり、これが【お神輿】の原型だと考えられます。

⇒ということは、ユダヤ人たちの聖櫃(アーク)とは全く関係がないということになる。

ちなみに、もがりが行われた期間を【宮隠ル】といい、正式に亡くなることを【神サル】と言っています。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=26&sno=18

 


◆古墳の向きがバラバラなのは、その人の帰るべき星を指しているから。

全ての古墳が全くバラバラな方向を向いて造られているのはなぜでしょうか?

天照大神の教えには「人は死んだらみんな星になる」とあります。

つまり、日向族にとって死後の世界とは、高天之原=宇宙空間のことなのです。

ちなみに、良いことをした人は高天之原に戻って「星の守(カミ)」となり、悪いことをした人が行く場所が「黄泉の国」だったのです。

⇒詳しくは、こちら

 

だから『ウエツフミ』には、全ての八百万の神々について、そのお方の魂を守るべき【守護星】が記録されています。

つまり、古墳の埋葬者は、その人が帰るべき星の方向に向かって(頭を向けて)埋葬されたということです。

 

ちなみに、この【亀塚古墳】は正確に真南を指しています。

つまり、このお方の帰るべき星が真南に存在した「いみ星」であるということであり、このお方は水の神様であるミズハノメに関係のある方だと考えられます。

 

いずれにせよ、この【亀塚古墳】の埋葬者は、この場所から南にある星に向けて旅立つ必要がありました。

そして、その滑走路として使われたのが、前方部分だったのです。

つまり、これが現代でもいろんな神社に存在する「御旅所」だということ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%97%85%E6%89%80

もちろんこれは霊魂の旅であり、実際に死体が宙を飛んだ訳ではりませんので、あしからず。


◆天之岩船とは石棺のことである。

多くの石棺が船の形をしているのは、なぜでしょうか?

それは、死者の魂がこの船に乗ってあの世に旅立つからです。

だから石棺は船の形をしており、それが【天之岩船】と呼ばれたのです。

なぜそれが分かったのかというと、この近くの古墳から盗掘されたとされる「王ノ瀬石棺」が安置されていた場所には「天之岩船神社」が建っていたいたからです。

つまり、天之岩船神社のご神体が【天之岩船】つまり石棺だということ。

【参考】https://www.manabi-oita.jp/materials/detail/3047

 

ちなみに、この亀塚古墳でも、石棺の脇に2台の【舟型埴輪】が設置されていました。

それが、下記の写真。

この岩船に乗って宇宙空間へと旅立っていくのであり(もちろん魂が)、なぜ2台なのか分かっていませんが、多分、この古墳の埋葬者が2人だったからでしょう。

そう考えると、「ニギハヤヒが天之岩船に乗って降臨した」という伝説は、ニギハヤヒが死後の世界から蘇ったとも解釈できます。

だから、ニギハヤヒは死後の世界に旅立つための船の設計図をヒダカサヌに伝授したのです。

⇒詳しくは、こちら


◆くびれにある突起【造り出し】は、お供えの置かれた場所である。

前方後円墳のくびれの部分には、【造り出し】と呼ばれる舞台のようなスペースがあります。

ここには、死者に備えられた【献上品】が積み上げられたのでしょう。

『ウエツフミ』には、具体的にどんなものが献上されたのか、いちいち全て記録されていますが、ほぼ現在と同じようにお米とお酒に加え海の幸・山の幸と布などでした。


◆【朝顔形埴輪】は、焚火が置かれた照明設備である。

このあたりからいよいよ『ウエツフミ』の記述のユニークな部分なのですが、古墳の周りには、7日8晩の間、夜間照明である焚火が燃やされました。

昼間は、焚火に代わって旗が立てられたとあります。

なぜなら、当時は暗い雰囲気になること、現在流にいえば「ネガティブな気分」になることを「八雲(やくも)が下りる」と呼び、大変嫌っていたからです。

だから、死者と遺族が寂しい気分にならないように、夜間は焚火を絶やさなかったので、これを【八雲払い】といい、その担当者まで決められていました。

⇒「八雲払い」は、奥豊後地方ではお神楽の演目として伝わっている。

⇒思うに、これが「厄払い」の語源か?

そういえば、この【朝顔形埴輪】には何カ所か穴が開けられていますが、これが空気口だったのでしょう。

本当に薪を燃やしてみれば、このことが実証されるのではないでしょうか?


◆【円筒埴輪】は、季節のお花が飾られた献花台である。

上記の写真のうち、筒のような不思議な埴輪には、「榊」「オガタマ」「桂」や様々な木や草に咲く季節のお花が飾られました。

現在の献花台と全く同じですよね。

木の枝を切ってそのまま立てていたので、現在の花瓶よりはやや大きめだったんでしょう。

このことは、ニニギの命のお葬式に関する記述から判明しました。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=15&sno=2


◆お通夜は、7日8晩続いた。

そうして、今でいうところのお通夜は「7日8晩」続きました。

これを【夜トモ】と呼んでおり、親戚や家臣たちはこの間、朝夕2回の食事をこの場所で一緒にしていました。もちろんお酒を飲みながら。

⇒奥豊後地方では【夜トギ】または【ヨド】と呼ばれ、現在でも伝わっている。

だから焚火が必要だってんですね。

当時は、お神楽もお葬式も、願をかけるときも、何か重要な催事が行われるときは、この「7日8晩」というのが、ひとつの目安となっていました。


◆葬式の儀式として行われたのが「お神楽」である。

現在ではお葬式では僧侶がお経を読むことが通例となっていますが、まだ仏教が伝来していなかった古墳時代には、壮大に【お神楽】が行われていました。

しかも全員で酒食をともにしながら「舞い遊んだ」とありますから、まるで「葬送記念パーティー」ですね。

高天之原に帰ってゆくことを盛大にお祝いしたのでしょう。

このことは、第4代・ウガヤフキアエズの命の葬儀に関する記述からも分かります。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=11

ちなみに、このお神楽が行われた舞台が、【前方部】の平らな部分です。

それは、「御陵(みはか)の外の所に、喪家(やくや)を太く広らになして」この上でお神楽が行われたという記述から類推できます。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=25&sno=28


◆喪が明けるのは150日後である。

なぜだか分かりませんが、死後150日経つと盛大なお祀りが行われていました。

当時は、月齢を基準とした太陰暦でしたから、30日/月×5か月=150日で、ちょうど5か月経つと、死者の魂は完全に飛び去って、帰って来ないと考えられていたのかもしれません。

このことは、第6代・ウガヤフキアエズの命の葬儀に関する記述から判明しました。

【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=23&sno=1

 


古墳の造られた年代に関する疑問

さてさて、以上の私の解釈ですが、ここに大きな矛盾が存在することにお気づきでしょうか?

『ウエツフミ』の記述がカバーしているのが、ほぼ「弥生時代」であり、せいぜい起源後1~2世紀までの出来事だと私は判断しています。

 

一方、古墳が造られ始めたのが、3世紀以降であるとするのが学会の通説です。

どの論文を見ても、「箸墓古墳」が第一号であり、その年代が炭素14法により正確に測定されており、起源後250年前後、つまり3世紀だというのが定説です。

 

逆にいえば、九州にある古墳は全て3世紀以降に築造されたものであり、ほとんどの古墳が5世紀頃だと認定されているのです。

 

ということは、日向族の神武天皇が大和に遷都したという『神武東征』は完全に否定されていることになります。

 

もしも、「箸墓古墳」が第一号であると仮定するならば、それを持ち込んだ人たちの前方後円墳が、どこか大和以外に存在していることになりませんか?

そうでなければ、前方後円墳は崇神天皇が発明したという、奇想天外な結論となります。

 

もうおわかりですよねえ。

九州の古墳のほうが、大和の古墳よりも古いのです。

 

多分、現在の学会では、崇神天皇が神武天皇であり、初めて大和に統一国家を建国したとしたいのでしょうね。

この大原則に矛盾する証拠は、全て抹消、あるいは無視ということでしょか?

 

そもそも、ニニギの命に始まった天孫族のお墓は、もともとは自然の山の頂が利用されていました。

ところが、年代を経るに従って、古墳として使える山が少なくなってきたので、人工的な築土が、お墓として造られるようになったてきました。これが古墳の始まりです。

 

特に神武東征以降は、関西地方には高い山が少ないので、人工の築土を造営する必要が出て来たのでしょう。

 

ちなみに、この亀塚古墳に埋葬された人物ですが、炭素14測定法で1世紀頃であることが確認できれば、私の推測通りシイネツ彦、またはその一族だということになります。

⇒シイネツ彦に関する過去の記事は、こちら