弥生時代に考案された基軸通貨としての勾玉の活用
日本の貨幣の起源は、一体何だったのでしょうか?
ネットで検索しても納得のゆく答えが出て来ません。
誰も興味を持っていないのか、証拠が無いので議論が盛り上がらないのか分かりませんが、いずれにせよ『ウエツフミ』の記述が、古代史の常識を覆すかもしれないのです。
そこには、あの「勾玉こそが日本の貨幣の起源である」と書かれていたからです。
ウエツフミにある市場と貨幣に関する記述
それでは、『ウエツフミ』には何が書かれていたのか?
一緒に見てゆきましょう。
◆市場の興りは、山幸彦(ヒコホホデミ)から始まる。
ニニギの命の跡を継いで第二代天皇に即位したヒコホホデミは、【ヤキソ】と呼ばれた交易所を全国の国ごとに設置し、米を中心とした「物々交換」が始まります。
この商業活動のことを【オモチ】と呼んでいます。
この“市場”の原型である【ヤキソ】は、春・夏・秋・冬の4回開催されましたが、なんといっても米の実る秋が一番盛り上がったようです。
この市場に出品されたのが、米や麦などの水田津実(ミタツミ)、野菜や雑穀などの畑津実(ハタツミ)に加え、海の魚や海藻、木や金属で作られた道具類などで、その運搬には船や牛・馬に加え、「男は背に担ぎ、女は頭に乗せて(女が背に担ぐのは子供だけ)」運んだとあります。
このときの経済システムをひとことでいえば、「米籾本位制度」でした。
つまり、すべての商品の交換価値が米籾の量で決められていたのです。
そこで、米籾一粒を中心にした重さの単位・長さの単位・容積の単位が定められて、それを図るための道具も開発されました。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=15&sno=9
◆「米籾本位制度」の不便さに気づき始める。
ところが、この「米を中心とした物々交換」には、非常にやっかいな一面もありました。
なぜなら、例えば大漁の鯖100匹を担いでやってきた漁師は、野菜や生活道具などを調達したいのですが、まず米と交換する必要がありました。
ところが、どこの農家も「鯖100匹は要らない」ということで、漁師はあちこちで複数の農民と交渉する必要がありました。
つまり当時は「一品対一品」の交換が基本だったので、大きな商いが出来なかったのです。
「一品を十品、二十品と交換できなければ不便だ」と原文にあります。
さらに、大量に布を必要とする農家は、それに相当する大量の米を市場まで持ってゆかなければならず、これが市場規模に制限をかけるネックとなっていました。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=1
◆勾玉を貨幣として使うことを発明
そこで、第4代ウガヤフキアエズの命の時代に
(私の推定では弥生時代初期の紀元前数世紀頃)
表春中臣の命、太玉忌部の命、思金足禰の命の三人の重臣たちが画期的なアイデアを思いついて、天皇に提言します。
それが、勾玉を貨幣として使うという「勾玉本位制度」だったのです。
ただし、ただの勾玉ではありませんでした。
それは、オオツチの神が製作した「神宝」である「八尺勾玉(やさかまがたま)」のみに限定されていたのです。
つまり、一般人が製作した勾玉は貨幣として認められず、偽造することが不可能であったということです。
◆オオツチとは一体誰なのか?
この記述から、正体不明とされていた「大土神」とは、勾玉に関係する神様だったことが分かります。
【参考】https://nihonsinwa.com/page/2422.html
ただし、原文には「大土の神の物なしたまゑる神宝の八尺勾玉」とあり、この【物なす】は「製造する」にも取れるし「もたらす」にも取れます。
また、ウエツフミには「猿田彦の別名を大土の命という」という記述や「オオツチチノミオヤ猿田彦」という記述もあり、猿田彦一族が勾玉と何らかの関連を持っていたものと思われます。
ということは、三種の神器である「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」も、猿田彦一族によりもたらされたものと推定されますが、決定的な証拠がありませんので、ここはサラリと流します。
◆勾玉の貨幣としての価値
この「神宝」である特別な「八尺勾玉」の交換価値は、その「重さ」により決められていました。
このとき、重さの単位となったのが「米籾1粒の重さを1ツマとする」度量衡の制度でした。
つまり、大きくて重たい勾玉ほど交換価値が高かったということです。
この頃から【アキドヤ】と呼ばれた(現在でいうところの)お店が建ち始め、その周りに商人や職人や鍛冶屋なども住み始めて、商店街が形成されていったようです。
そして、この貨幣としての「八尺勾玉」が、何でも買える万能の通貨として流通し始め、職人などのサービス提供型労働者への賃金としても使われていたのです。
このようにして、【ヤキソ】と呼ばれる商店街が、農作物の生産地を中心に全国に整備されてゆきました。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=22&sno=2
この制度への評価
これはある意味、画期的な制度でした。
例えば、中国に於ける貨幣の起源は殷の時代(紀元前17~10世紀)に始まった「タカラ貝」だとされていますが、海洋国の日本では貝は誰でも容易に採取できるので、漁師だけが大金持ちになってしまいます。
あるいは、「金本位制度」にすると金鉱山を所有している者だけが富を独占することになります。
つまり、この「勾玉本位制度」は、天皇家による強力な与信機能と、市場経済の良心的で客観的な(つまり特定の勢力の恣意私欲に偏らない)コントロールを可能としていたのです。
ちなみに、当時の天皇家には「市場を独占して平民どもを奴隷にしてやろう」などという不届きな考えは全くありませんでした。
ただただ、人民が便利で豊になって、幸福になってくれれば良いと、それだけを願っていたのです。
さらに天皇家は、例えば「1000ツマの重さの勾玉を米一俵の価値とする」というように、勾玉の交換レートを変動させて、市場経済を自由にコントロールすることが(理論的には)可能です。
平民の側からしても、いつでも天皇家に勾玉を持ち込んで、米と交換することができるので、安心して取引することができます。
つまり、勾玉は「兌換貨幣」であったということであり、それが可能となった理由は、天皇家こそが「日本最大の米生産農家」だったからです。
⇒天皇家は「天の大スサ田、小スサ田」と呼ばれた農地を所有しており、自ら耕作することが天照大神以来の伝統であった。
⇒当時は「荷前(ニマエ)」と呼ばれた年貢も存在したが、これはあくまでも強制ではなく、現在の奉納に近いものだった。秋になると人民が農作物を奉納してくるので、置き場所がなくなり「荷前停止令」が出されたという記録もある。
⇒逆に不作時には、天皇家は自らの穀物保管庫(これを「ミヤケ」と呼ぶ)を開放して人民に米を放出していた。
ところが・・・押し寄せる外圧
古代史を研究する人たちのなかには「稲作と鉄器が大陸から持ち込まれたので弥生時代が始まった」と考えている人が多いようですが、とんでもない間違いです。
米作が既に山幸彦(ヒコホホデミ)の時代から存在していたことは、上記にもあるとおりです。
農作物に恵まれていたわが国では、中国産や韓国産の外来米を食べる必要も無ければ、そんなものはまずいに決まっています。
第一、それを日本の国土に植え付けても、育つという確証はありません。
つまり、米は日本固有の原産種であるということ。
さらに、鉄器にいたっては笑止千万です。
「鉄を大量に所有する億万長者」というのは聞いたこともありませんし、当時の日本では鉄それ自体には何の価値もありませんでした。
放っておけばタダ錆びるだけのやたらに重い金属ですし、それを使って家や橋などの構造物を造ろうという需要も皆無でした。
ただし、ある特殊な状況になったとき、鉄が俄然として経済的価値を持ってくるのです。
それが「戦争」でした。
つまり、鉄で出来た刀や槍という兵器を使って、人様の丹精込めて育てた農産物をかすめ取ってやろうという不届きな輩が登場してこそ、鉄は初めて価値を持ってくるのです。
しかも、その不届者が登場して、大暴れし始めたのは、2世紀の「倭国大乱」以降のことで、すでに弥生時代は終わろうとしていました。
その意味で、弥生時代というのは、戦争のない実に平和な時代でしたし、武力を行使して年貢を要求する領主も存在しませんでした。
その平和な日本を、鉄器により侵略した外国人が居たのは事実でしょうが、その人たちをもって“日本人の祖先”とするのは、いかにも情けない、あきれた主張にほかなりません。
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