大分県が豊の国と呼ばれた理由
天照大御神が天岩戸に籠ってしまった事件はご存知ですよねえ。
では、このとき天照大御神を岩戸から引っ張り出した14人の姫神については、どうでしょうか?
たぶん誰も知らないはずです。
無理もありません、それはどこにも書かれていなかったからです。
この十四柱の姫神を、【トヨの媛大神】といいます。
つまり【十四の媛大神】であり【豊の媛大神】。
宇佐神宮に祀られている【比売大神】も、多分この方たちです。
そして、伊勢神宮の下宮に祀られているのもこの姫神たちであり、だから【豊受大御神】と呼ばれます。
つまり【豊(トヨ)】とは【十四】のことであり、14柱の神々の総称だったのですね。
『古事記』にも『日本書紀』にも、「タジカラオの命が天岩戸を押し開いて、天照大御神を引っ張り出した」と書かれています。
なぜ、媛大神たちを無視してしまったのでしょうか?
もしかしたら、彼女たちこそが「根源神」であり「大地の母神」であり、しかも女神だから?
『ウエツフミ』だけが、本当の神話を詳しく伝えています。
まず、そこには何が書かれていたのかを、駆け足で見てゆきましょう。
ウエツフミによる天の岩戸
天照大御神が天岩戸に籠ってしまったことにより、下記の一連の動きが連続して起こります。
(1) オモイカネが知恵を絞って
(2) アメノコヤネが祝詞をあげ
(3) アメノフトダマが榊の枝を捧げ
(4) アメノウズメと8人の女神が舞を踊り
(5) 天照大御神が岩戸を少し開けて外を見たので
(6) タジカラオが一気に岩戸を押し開きます。
ここまでは、全ての記述に共通なのですが、このあとが『ウエツフミ』だけのユニークな部分です。
(7) 十四柱の姫神たちが、ただちに駆け付けて、その御手をつかみ、その胴体を抱え上げて、畏みつつ戴き出してしまった。
(8) すぐにアメノコヤネとフトダマが、天岩戸の入り口に「しめ縄」を張って、中に入れないようにした。
(9) このとき、ヤタの鏡を天岩戸に入れたので、岩戸に触れて少し傷ついた。
(10) ここに、天照大御神を新しいご神殿(これを日の若宮、または大宮という)に遷宮して
(11) アメノコヤネとフトダマが「日の御綱」を張り巡らせて
(12) 十四柱の姫神たちを「大宮の女の命」として、その御前に座らせ
(13) 天の岩戸別の命に、その門を守らせて
(14) フトダマに大殿を斎き祀らせた。
【原文】http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=4&sno=1
さてさて、まだピンと来ていないかもしれませんが、この中で私が注目したのが、(7)(9)(13)の三点です。
そこにはどういう意味があるのか順番に解説してゆきます。
(7) 天照大御神を岩戸から引き出した14女神
そもそも岩戸に籠っていた天照大御神を、表に引きずり出すという行為は何を象徴しているのでしょうか?
単に「太陽を洞窟から出した」ということではないようです。
天照大御神は太陽神ですから、ご本人単独では単なる「巨大なエネルギー源」にすぎません。
このエネルギーを大地で受け止めて、それを人類の最も大切なものに変えてくれる存在が必要なのです。
例えていうならば、太陽光パネルのようなもの。
このパネルが発明されたので、太陽エネルギーを電気エネルギーに変換することができるようになりました。
その大切な役目を担っているのが、【豊受大御神】であり、その14人の子供たちである【トヨ(十四)の媛大神】なのです。
しかも、この14人はそれぞれに重要な役目を担っていました。
それが、十四種類の農作物を生じさせるという大役です。
この14柱のお役目を一覧表にしてみましたので、じっくりとご覧になってみてください。
つまり、太陽エネルギーを14種類の食べ物(これをウカといいます)に変換させるという超大変なお仕事は、この女神たちにしかできないのです。
⇒ウカノミタマとは「食物の根源神」という意味。
(9) 天岩戸とヤタの鏡との関係
もうひとつ、見過ごしてはならない大切な記述が(9)です。
(9) このとき、ヤタの鏡を天岩戸に入れたので、岩戸に触れて少し傷ついた。
この短い一文から、さまざまな重要なことが分かります。
ひとつは、本物にはキズが入っているということ。
これは誰しも初耳だと思います。
しかし、重要なのはそこではありません。
天照大御神が天岩戸を出たあと、そこに戻れないように、岩戸の中にヤタの鏡を入れたという点です。
つまり、本物のヤタの鏡は現在でも洞窟に埋まっている可能性が高いということ。
では、ニニギの命が天孫降臨するときに持参したとされるあの「八咫の鏡」とは、一体何だったのでしょうか。
『ウエツフミ』を詳細に読み返してみても、この2つが同じものであるとは、どこにも書かれていません。
「最初の2枚のヤタの鏡(No.1とNo.2)は、小さすぎたので改めて2枚(No.3とNo.4)を作り直した」
と書かれており、八咫とは長さの単位で、直径1.5mくらいとする説が有力です。
つまり、人の背丈ほどもある巨大な鏡を洞窟の中に大急ぎで入れようとしたので、キズついてしまったと解釈できます。
すなわち、洞窟の入り口は、天照大御神が出入りできるほどの1.5m位の高さであったことになります。
これに対して、ニニギの命が持参した八咫の鏡(No.5)は、天照大御神が直接手に持ってニニギに手渡したとありますから、ハンディ・サイズであり、ここからNo.1とNo.2のうちいずれかを手渡したのではないか?という仮説も生まれます。
もっと重要なのは、太陽エネルギーを反射して、大地の母神たちに伝えるためのエネルギー転換装置である本物のヤタの鏡は、どこかの洞窟に埋まっている可能性が高いということです。
それは、一体どこなのでしょうか?
そのヒントを与えてくれるのが、(13)の記述なのです。
(13) 門番としての天の岩戸別の命
天照大御神が新たに鎮座した日の若宮(または大宮)、その御門を守る役目が【天の岩戸別の命】だというのですが、その正体については『ウエツフミ』にさえ、どこにも書かれていません。
多分、大切な聖地のある場所を、誰にも知られたくなかったのでしょう。
ところが、ひょんなところからその答えが出て来ました。
それは、『古語拾遺』という書物であり、忌部氏の末裔の斎部広成が書いたものです。
なお、忌部氏とは藤原氏に追い出されたアメノフトダマの子孫だと私はにらんでいます。
⇒忌部氏の本分は幣帛を造ることだとされているが、上記(3)にもそのことが書かれている。だとすると、本来「日の若宮」を守るのは忌部氏の役割である。上記(14)参照。
そこには、こう説明されていたのです。
天の岩戸別の命とは、「豊磐間戸の命」と「櫛磐間戸の命」の総称である。
この豊磐間戸(とよいわまど)の命と櫛磐間戸(くしいわまど)の命の2柱ですが、みなさんもきっとどこかで会っているはずですよ。
大きな神社には必ず山門があります。
その山門の両側に、左右から豊磐間戸の命と櫛磐間戸の命が見守っていることに気づきませんでしたか?
そう、まるでお寺の山門を守る仁王様と同じように。
例えば、下記の写真。
このお名前からピンと来ました。
豊はもちろん豊の国(当時は豊日の国)のことであり、櫛は奇日の国(クシヒ、現在の宮崎県)のことなのです。
つまり、大分県側と宮崎県側に、ふたつの「磐間戸」、つまり岩で出来た出入り口である【戸】があり、そこを2柱の神様が守っているということになります。(上記の図を参照)
結論は、天照大御神が新たに鎮座した「日の若宮」とは、大分県と宮崎県の県境にあり、その両方に玄関があることになります。
それは、祖母山以外には考えられません。
そして、大分県側の玄関が「健男霜凝日子神社」であり、宮崎県側の玄関が「天岩戸神社」なのです。
つまり、祖母山一帯は天照大御神が祀られた聖域であり、ここから先には入ってはならぬということ。
ちなみに、この2つの神社をつなぐレイラインを真北に伸ばしてみてください。
そこにあるのが「宇佐神宮」であり、この場所からは真南にある太陽を遥拝でき、それを反射するヤタの鏡、それを受けて植物を生成させる豊受大神が一直線に配置されているということです。
さらにいうならば、このレイラインを真南に伸ばすと、そこにあるのが「宮崎神宮」です。
私はあえて、「日の若宮」だと書きましたが、天照大御神の鎮座する大宮は、時代とともに、ときの権力者とともに、転々と移動している可能性が高いのです。
ざっと概観すると、下記の流れになるでしょうか?
◆もともと「越の国」にあった、イザナギ・イザナミの娘としての初代・天照大御神
◆ニニギが連れてきた、九州の祖母山に祀られた第2代・天照大御神
◆神武東征とともに奈良の大神山周辺に移された第3代・天照大御神
◆崇神天皇により各地を転々とし、伊勢の地にたどり着いた現在の天照大御神
そのときどきにより、天照大御神はオオヒルメと呼ばれたり、ヒムカタヒメと呼ばれたり、トヨテルオオヒルメムジと呼ばれたりしたのではないでしょうか?
しかも重要なのは、太陽神そのものではなく、その神霊を現実世界に下ろすことができる巫女さんの存在、これが「日の巫女」とか「ヒミコ」とか呼ばれたのではないでしょうか?
そして、その全てに共通しているのは、女性でなければならないということです。
だからこそ天照大御神には、夫たる男神が存在していないのです。
つまり、太陽⇒大地⇒植物⇒食料に至る一連の生命エネルギーの根源は、女性がコントロールしているということになります。
結びにかえて
歴史を振り返ると、つい最近まで、人類の進化は男性が主体となって推進されてきました。
それは、「地下資源と近代科学」の恩恵を最大限に活用しながら、逆にそれを奪い合うという、“おバカな男たちによる競争社会”でもありました。
その結果、戦争の火種は尽きず、格差社会が生まれ、地球さえをも破滅させかねないところにまで来ています。
今回の「新型コロナウィルス騒動」は、そんな男性社会に対する警鐘でもあり、人類はさらなる次のステップへ向けての準備を迫られることとなりました。
もし仮に、人類が肉体を必要としなくなり、スピリチュアルな霊体だけで生存できるようになったとしたら、そこに必要なものは何でしょうか?
「ハイテクマシーン」でもなければ「無限エネルギー」でもない、ましてや「権力」や「領土」はもはや無用の長物です。
それは、私にさえも分かりません。
ただ、ヒントとなるのは「八百万の神々」たちです。
彼らが何を行ってきたのか?
それを学んで、同じことを実行すれば良いような気がするのは、私だけでしょうか?
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