ある日、高校の後輩の佐藤達矢君が「私の住んでいる庄内町(大分県由布市)の周辺には、五瀬の命を祀る神社がたくさんあるので、案内しましょう」と言い出しました。
彼の車で、庄内町周辺を走り廻っているうちに、このあたりがとんでもないパワースポットであることに気づかされます。
そして、何気なく訪れたのが『大将軍(だいじょうごん)神社』でした。
「大将軍って、一体誰のこと」
なんだか日本の神様にはふさわしくないこの名前に、私は反射的に「百合若大臣のことじゃないのか?」と答えてしまいました。
百合若大臣は、大分県に伝わる『真名野長者伝説』では、真名野長者の孫娘の玉世姫と結婚した伊利大臣の三男・金政公のことで、大分市上野東にはそのお墓とされる「大臣塚古墳」もあります。
さらに、壱岐の島に伝わる『百合若説教』では、壱岐に攻めてきた外国人を撃退してくれた豊後の武将として伝わっています。
その祖父の真名野長者が、牛馬の守護神である山王様を熱心に信仰していたので、この大将軍神社も牛馬信仰つながりで、「真名野長者一族に関係するのでは?」と、軽く思いついただけだったのです。
ところが、あとになってこの私の“ふとした思いつき”が、まんざらでも無いことが分かってきました。
この不動明王は、一体何だ?
それは、大将軍神社の裏山に登ったときのこと、そこには巨大な磐座があり、その上には不動明王がそそり立っていたのです。
その説明書きを読むと「日羅聖人が自ら建立した不動明王の石造である」と説明されていました。
そんなハズはありません。
この石像は、どう見ても古代の日本人のお顔立ちで、しかも髪型は【みずら】を結んでいます。
つまり弥生人~飛鳥人がモデル???
えーっ、日羅聖人は大分県各地に痕跡を残していますが、ここまでやって来ているのか?
でも、日羅聖人ゆかりの神社だとすると、百合若大臣とは一体どういう関係になるのか?
ちなみに、この神社のご由緒書きを読んでも、保食神以下いろんな神様がごちゃまぜに祀られており、どの神様も「大将軍」と呼べるほどのエピソードを残していません。
⇒多分これは、あとからこの土地の殿様となった細川氏の仕業だと思われる。細川氏は佐賀関の「早吸日女神社」の無力化などにも尽力している。
「大将軍って、一体誰のこと」
またもや、私は眠れなくなり、肝心の『ウエツフミ』も時代が違うので参考にならず、ネットに向かって何度も何度も検索攻撃を仕掛けてみました。
私は、これを「ネット占い」と呼んでいます。
すると、おぼろげながら分かってきたのが、下記の事実です。
全国各地にある「大将軍神社」や「将軍神社」では、ご祀神を日羅としているところが多いということ。
さっそく日羅について調べてみると、いろいろと分かってきました。
日羅という人物の再現
私の推測はこうです。
◆日羅の本名は伊利金政である。
なぜなら、【日羅】を韓国語読みすると【イラ】となり、【일라】を長者伝説では【伊利】と表記したのではないか?
◆あるいは、「日羅」はのちに出家した際の法名(戒名)であり、俗世間では「伊利金政」と名乗っていたのでは?
◆ただし、日羅の父親の伊利金満には少なくとも3人の息子が居た。
◆そのうちの一人の伊利金政こと日羅金政が、百済国内で「達率」という高い地位を与えられたので、日本人はこれを歓迎して、彼のことを「大将軍」と呼んだ。
すごく大胆な仮説ですが、なんだか当たっているような気がします。
ちなみに、日羅の公式記録では、生年月日不明で、亡くなったのが583年12月。
『真名野長者伝説』では、伊利金政が玉津姫と結婚したのが562年8月で13歳のとき。
逆算すると、伊利金政は550年生まれで、日羅が暗殺された583年には33歳を迎えていたことになります。
つまり、年齢的にも伊利金政と日羅は、どんぴしゃで一致します。
さてさて、なんだか楽しくなってきたので、私の仮説をもとに日羅に関するプロフィールを書き直してみると、こうなります。
(1)日本初の帰国子女としての幼少時代
日羅は、熊本県芦北を本拠地とした国造刑部靭部阿利斯登の息子として生まれました。
アリシトは、おそらく自分が赴任した百済国での呼び名で、日本国内での本名は伊利金満だったことは上記のとおりです。
父の伊利金満は、日本初の外交官で、日本政府の依頼により、百済国に移り住んでその国の動向を探るという、いわば諜報部員のようなものでした。
幼い日羅は、父とともに百済国に赴任してそこで育ちますが、13歳の時に一時帰国して、そこで欽明天皇からフィアンセを紹介されます。
それが、大分県の国司であった真名野長者の孫娘・玉世姫でした。
欽明天皇としては、真名野長者の財力と伊利親子の外交手腕が結びつけば、当時不安定な半島情勢にも対抗しうる最強の勢力が誕生すると考えたのでしょう。
しかも、両家はお隣りどうしなので、嫁が里帰りするにも近くて便利です。
(2)欽明天皇や聖徳太子の外交コンサルタントとしての青年時代
日羅が成人したころ、その高い語学能力と外交手腕が評価され、百済国の威徳王は彼を「達率」という高い地位に取り立てます。
達率は、百済国内では国王に次ぐNo.2のポジションで、これを日本人は「日羅大将軍」と呼んで歓迎しました。
おそらく、当時百済国と倭国は、新羅や高句麗の侵略に対抗するため軍事同盟を結んでおり、さしずめ「共同軍事作戦」をとる必要があったので、百済軍の中にも日本人指揮官が必要だったのでしょう。
ここで大きな手柄を立てた日羅ですが、今度は欽明天皇がこの人材を放っておくはずがありません。
彼を日本国内に呼び戻そうとするのですが、百済国とのあいだでスカウト合戦となり、強制的に帰国した日羅は、あらぬ疑いをかけられて、百済の手配した殺し屋により暗殺されてしまいます。
33歳のときのことでした。
・・・と、ここで「待った」がかかります。
もしそうだとすると、聖徳太子の師匠としての活躍はいつのこと?
しかも、全国各地に残る日羅の仏教伝道師としての足跡は、いつの間に成し得たの?
そこで、私のもうひとつの仮説が誕生します。
(3)「死んだフリ作戦」説
百済の恨みをかうこと無しに、日羅を合法的に日本国内に呼び戻すためには、ここでいったん死んだことにするのがベストです。
そこで、「日羅は暗殺された」という報道発表を行い、実は仏教の僧侶として出家させて、全国各地を転々としながら潜伏していたのではないか?という仮説が成り立ちます。
現在のスパイ映画でもよく使われる手ですよね。
もしそうだとすると、九州各地のみならず、遠く大阪にまで日羅の足跡が残されているということは、あえて住所不定の状態にして、あちこちの山岳密教の聖地をさまよっていたのではないでしょうか?
この間に、聖徳太子とも極秘に密会して、外交政策について提言を行っていたというのは十分にあり得ることです。
ところが、そのうちに百済国自体が滅亡してしまい、もう隠れる必要が無くなったので、堂々と日羅の開基した寺院が、実名で公表され始めたのです。
大分県だけでも、少なくとも5つの寺院が、熊本県に至っては12~13か所のお寺が、日羅を開祖として伝えています。
【参考】http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki764.html
(4)「兄弟混同」説
もうひとつの仮説ですが、さきに「金政は三男であった」と書きました。
つまり、日羅以外にも少なくともあと2人の男子が兄弟として存在していたことになります。
その全員が、「日羅〇〇」と名乗っていたら?
三男は外交官として暗殺されましたが、長男や次男は僧侶として、自分が育った国・百済国の先進的な仏教の導入に努めたという可能性もあります。
そう考えると、壱岐の島まで出兵して異敵を滅ぼした百合若大臣とは、日羅のお兄さんのことであったという可能性も浮上してきます。
結びにかえて
さてさて、以上は私のほんの思いつきにすぎませんし、『大将軍神社』を訪れた翌日にわずか数時間でこの原稿を書き上げていますので、まだまだ検証の余地は充分にあると思います。
この拙稿を読んで触発されたみなさんが、ぜひ日羅という人物について真相を追及していただきたいものです。
最後に、私の最も大胆な仮説を書いておきます。
大将軍神社の磐座の上に鎮座していた不動明王像は、もしかしたら聖徳太子ではないのでしょうか?
全く根拠の無いお話しなのですが、私にはそう見えてしょうがないのです。
なぜならば、日羅こそが百合若大臣であったとすると、聖徳太子とは義理の兄弟になるからです。
きっと二人は、仲良く日本国の将来を論じ合ったことでしょう!
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MIX (木曜日, 17 11月 2022 10:42)
大将軍神社について調べてみました。大将軍神社は"方位神である大将軍神を祀って方位神である大将軍神を祀った神社"ということでした。(ウィキペディアより)
大将軍という”方位神”についても調べたところ”方位神(ほういじん)とは、九星術から生じた神々で、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらす…"で、大将軍は
"大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。…
大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ…”(ウィキペディアより)とありました。
この大将軍ですが、前ブログにあります牛頭天皇の八人の子供(八王子の名の由来)の内の一人で、他の7人も方位神に連なっています。
貴殿の考えを元にすると神仏習合の際に蘇我氏が自身の身内を方位神として祭り上げたということになりますが。。どうでしょうか?