神社の千木・鰹木の名前の由来は“天秤”だった!

『ウエツフミ』は、何度読んでも興味深い記述にあふれており、毎回“先人たちの失われた知恵”を鮮明に蘇らせてくれるのですが、今回は神社の千木・鰹木とハカリ(天秤)との関係について説明します。

 

神社の屋根の両端には、千木(ちぎ)と呼ばれるV形、またはX形の飾りが付いていますよねえ。

さらに屋根のピークには鰹木(かつおぎ)と呼ばれる、枕のようなものが乗せられています。

実は、これらの名称は、弥生時代に実際に使われていたハカリ(天秤)から来ていたのです。

 

当時は、ハカリのことを【チギ】と呼んでいました。

さらに、ハカリには必ず使われる天秤棒のことを【カチヲギ】(樫の木の意味)と呼んでおり、これが【カツオギ】になまったようなのです。

そして、これらがハカリとそっくり同じ構造をしていたので、神社の屋根飾りも同じ名前で呼ばれるようになったというのです。

 

フムフム、なるほど。あると思います!

実は、私が幼少のころまでは、九州地方ではハカリ(天秤)のことを【チキリ】と呼んでいました。

祖母が「チキリ持っち来なあ!」と、おらんでいた(叫んでいた)ことを思い出します。

つまり、弥生時代の「チギ」の名称が現在まで生き続けていたということ?

 

さらに、当時の国鉄(現在のJR)では「チッキ」と呼ばれた、今でいう宅配便のような事業をやっていたのですが、このチッキもチキリまたは千木から来たものだと思い込んでいました。

なぜなら、荷物を委託するときには、まずハカリで重さを測っていたからです。

【参考】https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1118443186

 


ウエツフミの記述より

それでは、『ウエツフミ』には何が書かれていたのかを見てみましょう。

 

◆ニニギの命は、天孫降臨すると、さっそく日本全国の度量衡(長さ、大きさ、重さの単位のこと)を統一します。

 

◆まず、米一粒を基本単位として、その一粒の長さを1ツツ、その100粒の容量を1シカ、その一粒の重さを1ツマと定めて、ここから全ての単位が統一されてゆきます。

 

◆そして、このお米の重さを測る道具として登場したのが【チギ】なのでした。

 

◆その構造とは・・・・

(1)山から樫の木を伐り出して貫き木(竿棒)とし、

(2)松の木を(2~3本組み合わせて)門松のような形に組み(これをヒギという)、

(3)その真ん中に縄を垂らして、これで樫の竿棒の中心を縛り、

(4)その両端には、カゴをぶら下げて

(5)阿蘇の埃岳の高千穂の稲籾を基準米として、片方のカゴにに入れ、他方のカゴには測りたい稲籾の粒を入れて、高千穂米の何粒に相当する重さかどうかで、重量を測った。

・・・・と、言っています。

(6)さらに、このときに使われる道具を【チギ】といい、これが家の氷木(ヒギ)や鰹木(カチヲギ)と全く同じ構造なので、そのような名前になった。

・・・・と、いうのです。

⇒【原文】は、こちらから。

 

さてさて、文章で説明しても分かりにくいかと思いますので、イラストにしてみました。

下記をご覧ください。

⇒ちなみに当時の門松は、門代(カドシロ)と呼ばれ、現在でもかがり火を焚くときなどに使われる三本足の台を各家庭の玄関前に設置して、ここに季節のお花を飾って「節供のお祝い」などを行っていたという記述もある。

 

どうですか?納得していただきましたか?

 

普通は、ここで終わるのですが、試しに【チギ 天秤 千木】などで画像検索しているうちに、大変なものを見つけてしまいました。


古代エジプトと神社との関係

なんと、『ウエツフミ』が説明しているハカリ(天秤)の構造は、古代エジプトから出土したハカリと、全く同じだったのです。

下記の画像をご覧ください。

これがエジプトから出土したハカリ。

【出典】http://www4.airnet.ne.jp/sakura/blocks_menu/conjyaku_08/hakari/hakari_07.html

そして、2枚目はパピルスに描かれている天秤ですが、支える台が一本足か、三本足かの違いだけで、基本的には同じ構造です。

ちなみに、ここでは「ハカリは人の生前の罪の重さを測るための道具」として描かれています。

 

ということは、「日本の神社は、エジプト由来の天秤を屋根に乗せている」ということになりませんか?

つまり「日本エジプト同祖論」という結論になります。

 


その証拠は?

この「日本エジプト同祖論」という仮説を裏付ける証拠を、下記に列挙してみますと。

 

◆ウエツフミ研究家の吾郷清彦氏は、「豊国文字とヒエログリフがそっくりであること」に注目して、ヒエログリフは豊国文字で解読できると断言しており、論文まで残している。

⇒私の、過去記事はこちら

 

◆「生前に犯した罪が死後に裁かれる」ことには、天照大御神も言及しており、良いことをした人は天上界で星になり、悪いことをした人は黄泉の国に追放されるとある。その判定を行うのが大国主の役目だったと『ウエツフミ』は伝える。

⇒エジプトでは、この役目はオシリス神またはアヌビス神であり、仏教でいえばさしずめ閻魔大王といったところ。

 

◆しかもエジプトも日本も同じ太陽神信仰であり、エジプトではラー、日本では天照大御神と呼ばれる。

 

◆インド由来であると自称している山王神を祀る日吉神社系では、千木や鰹木は設置されない。さらに、新羅由来であると思われる八幡神を祀る八幡神社系や、京都の賀茂神社にも設置されない。つまり、これらはエジブト由来ではない。

【参考】https://hurattojinnja.blog.fc2.com/blog-entry-63.html

 

◆クフ王のピラミッドから発掘された丸木舟は、ウエツフミが描く弥生時代の丸木舟にそっくりである。

 

◆日本の文明は、いまから7300年前に起きた「鬼界カルデラの大爆発」で、いったんリセットされているはずなので、それ以前には日本とエジプトの間で交流があったとしてもおかしく無い。

⇒グラハム・ハンコック氏はエジプト文明の起源を1万2000年前くらいだと考えている。『神々の指紋』より。

 

◆古代エジプト人が信仰していた「オリオン座」は、日本では住吉三神と呼ばれたのではないか(推測)。

つまり底筒男・中筒男・表筒男命の住吉三神とは、オリオン座の三つ星を意味する。

なぜなら「ツツ」とは「星」という意味だからである。

さらに、住吉神社の御神紋である「花菱」は、オリオン座のひし形を表しているのではないか?

⇒私の、過去記事はこちら

 

その他、挙げればキリが無いのですが、ニニギの命がエジプトからやってきたという決定的な証拠は見つかっていません。

 

私の推測では、ニニギの天孫降臨とは紀元前660年ごろのことであり、この頃エジプトがどうなっていたのかは全く知識がありませんが、紀元前671年にはメソポタミアで勢力を拡張するアッシリア人に征服されているらしいのです。

 

つまり、シュメール⇒ウバイド⇒アッシリアと続く謎の侵略集団が、エジプト文明に止めを刺して、その末裔たちが日本に逃げてきて「弥生文明」が始まったのだとしたら?

 

その後、さらに追いかけてきた崇神天皇や景行天皇、応神天皇らウバイド人たちに、日本も完全に征服されてしまったのでしょうか?

落合莞爾先生はそう説明していますが、もしそうだとしたら、天皇家は千木や鰹木の置かれた日本の神社を徹底的に嫌うはずなのですが・・・・???