鎌倉時代まで実在していた“山幽人”

それはリアル八咫烏、あるいはサンカ衆のことか?

「山幽人」と書いて「やまかくりど」と読みます。

文字通り、人里離れた深い山奥に隠れて、仙人のような生活をする老人たちのこと。

そんな不思議な集団が、鎌倉時代までは確実に存在していたと記録されています。


そもそものキッカケは?

『ウエツフミ』の編纂を命じた初代・豊後国司の大友能直公。

彼がこの古代歴史書を書くことになった直接のキッカケは、この「山幽人」のひとりであった直利平一郎(竹田市三宅生まれの138歳)と出会ったことなのです。

⇒出典:朝倉信舜著『ウエツフミノクドキ』より

 

もともと神話に強い興味を抱いていた大友能直公は、大昔から豊後地方に伝わっていた“昔物語”を聞き出すため、総勢78人の老人たちを自宅に招いて、約一カ月間も酒宴や余興で接待し続けます。

そのほとんどが、100歳近い高齢者であったという事実にも驚くばかりです。

 

最初は、新しく赴任してきた領主様に警戒して口をつぐむ老人たちでしたが、一カ月たってやっと重い口を開くようになり、驚くべきことをしゃべり始めます。

 


驚くべきその内容とは?

そのうちの一人、直利平一郎の証言を要約すると、こんな感じになります。

 

◆自分が99歳の冬のこと、夢の枕元に父親の種俊が立ってこう告げた。

「おまえはもうすぐ100歳になる。100歳になれば“山幽人”といって“山幽神”と直接話が出来るようになる。だから春になったら祖母山まで私を訪ねて来い!」

⇒生きている間はヤマカクリ人で、亡くなったのちはヤマカクリ神となるという意味か?

 

◆のちに祖母山でバッタリと父親と再会すると、彼は秘密の場所に案内した。

そこには、自分の祖先であるジジババたちがずらりと並んでいた。

そのトップが18代前の祖先霊であり、総勢数百人の親類縁者たちが、そこで楽しく暮らしていた。

⇒仏教の説く「極楽浄土」のようなものか?

 

◆あまりにも楽しい場所なので、ついつい長居してしまい、3日ほど家を空けたと思い込んでいたところ、実は30日近くも行方不明となっていた。

⇒このくだり、浦島太郎が竜宮城を訪れたときと共通する。

 

◆この“山幽人”という集団は、祖母山だけではなく、全国各地の山や島には必ず存在する。

 

◆“山幽人”が話をできるのは、自分の祖先である“山幽神”だけであるが、この“山幽神”たちは、もっと高次元の神々とも話ができる。

 

◆その神々が、日本の正しい歴史を口頭で語り継いでいる。

その内容は『古事記』『日本書紀』などの古記とほぼ一致するが、記紀には書かれていない古談も多い。

 

◆この直利平一郎に、鎌倉時代の標準文字であった「漢字」を見せたところ「それは外国の言葉であり、太古の神々が心で造った“モジリ(文字)”とは違う。外国語はソラゴト(空談)を書くには適しているが、わが国の文字は真実を書くための言葉であり、ソラゴトには適していない」という。

 

◆さらに「漢字を導入したのは人皇12代~13代である」と証言しているが、景行天皇や成務天皇のことと思われる。これ以降、わが国の歴史がねつ造されたとも言っている。

⇒景行天皇は「土蜘蛛征伐」と称して、大分県の住民3万人以上を虐殺しているが、その記憶は二千年経った今でも現地で詳細に語り継がれている。

 

◆そこで彼に「豊国文字」を見せると、彼は大いに恐縮して拍手を打ってこれを拝み「これこそが神代のフタミ(文章)のモジリ(文字)であります」と証言したという。

ただし、この豊国文字で書かれた文章は存在せず、みんな口頭で伝承して心で覚えるという。

⇒この直利平一郎の故郷・豊後大野市朝地町には、現在でも豊国文字が伝わっているが、その詳細はここでは公表できない。

 

さてさて、ここまでやっと聞き出すことができた大友能直公ですが、今度は自分自身が直接神様に会ってみたくなります。

 

特に、彼が個人的に信仰していた「エタタ・オトタタの兄弟神」(豊国文字の新字体を発明した神)に会いたいと、直利平一郎にお願いすると、「私は直接は存じ上げませんが、今度山幽神に聞いてみましょう」ということになります。

 

後日、「今から10日後に、御宝山(現在の霊山、本宮山、障子ケ嶽の三山いずれか、または全部)に行けば、私の祖霊たちが案内してくれます」というので、さっそく弟子の朝倉信舜を連れて、二人だけで御宝山に籠ります。

 

山中を放浪すること約一カ月後、ついに大友能直公は、エタタ・オトタタの兄弟神に会うことがかない、さっそく自ら『天政文・国政文』40冊を書き著しますが、残念ながらこの書物は現在行方不明となっています。

 


山幽人とは一体誰なのか?

このお話を読んで、「そんなバカな!」とお思いの方も多いと思います。

現代科学の常識からすればあり得ない、「この世と神の世とを自由に行き来できる存在」

あるいは「次元を越えられる時空トラベラー」、しかも100歳にならないとその能力が授からないというのですから、これはもう一般常識を超えていますよねえ。

 

それは超能力者か? 霊能力者か? あるいは宇宙人か? などと様々な妄想が広がります。

 

でも思い出してみてください。

日本に伝わる“昔話”には、これと似た逸話があまりにも多すぎるのです。

例えば、下記のお話しはどこかで聞いたことがあるでしょう?

 

◆熊野の山中から突然現れて、神武天皇の道案内をした八咫烏(ヤタガラス)

◆竜宮城(ワタツミの宮)に行って、長く帰って来なかった山幸彦

◆現在でも頻発している「神隠し」という行方不明事件

◆東北の恐山に現在も残る「イタコ」や、壱岐の島に残る「イチジョウ」と呼ばれた巫女たち

◆柳田国男が『遠野物語』で伝えた「山神」や「おしら様」

◆大分県竹田市上坂田の「明神様」の石像や、国東半島下成仏にある豊国文字で書かれた石碑を定期的にメンテナンスしている謎の集団

◆大分県竹田市出身の三角寛が詳細に書き記した「サンカ(山窩衆)」の存在

 

これら全ての伝承に共通しているのは「深い山の中にひっそりと暮らす不思議な人たち」であり、普段はめったに姿を現さないが、歴史上の転換期に忽然と登場して、大きな影響力を及ぼす勢力が居た、または現在も居るということです。

 

そういえば、「山幽人」は、無理すれば「サンカビト」と読めないこともありません。

 

例えば、大友宗麟(初代能直から数えて第21代当主)が滅亡するキッカケとなった「耳川の戦い」に際しては、サンカ衆が突然現れて、島津軍に味方したという伝承も伝わっているのです。それは、今から400年前のこと。

 

さらに私が注目したのは、「サンカ文字」というサンカだけが使っていたとされる神代文字が、「豊国文字」にそっくりなことです。

神代文字研究の大家・吾郷清彦先生は、「サンカ文字は、豊国文字の旧字体が新字体へと進化する途中の、中間形態である」と書いています。

上記の逸話の中で、「直利平一郎に豊国文字を見せると『これこそ神代文字』だ!」と感激したというくだりを思い出してください。

 

ということは、この直利平一郎こそ、豊国文字を伝える「サンカ衆」の一員だったと解釈することができます。

 

そういえば、能直公の自宅に集められた78人の老人たちの全員が「大御宝族」だと書かれていることです。

「オオミタカラ」とは、ニニギの命の天孫降臨に付き添って、どこからかやってきた特別な人たちのことであり、現在では「天孫族」と呼ばれることもありますが、その定義はあいまいで謎のままです。

 

しかも、その寿命は平均で100歳を越えており、一般人である「美しき青人草」が平均寿命40歳であったという記述からは、どう考えても普通の人類ではありません。

 

とすれば、この不思議な、まるで秘密結社のような「山幽人」たちこそ「サンカ衆」であり、あるときは「八咫烏」の姿で登場して、つい最近までどこかに実在していたということでしょうか?

 

最後に、この不思議な逸話を公表した朝倉信舜は、こう結んでいます。

「大友能直公が、この山幽神から直接聞いた『神の御法(みのり)』を忠実に政策として実行した結果、豊の国は、民おおいに富み、衣食住に苦しむ者は居なくなり、蔵には穀物が満ち足りて、家来みなが忠誠に励んだ」と。

 

その言葉どおり、豊後大友家の治世は約400年間の長きにわたり続くことになります。