宇佐家口伝が伝える衝撃の真実【Part 1】
久しぶりに『古伝が語る古代史』という本を読み返しているのですが、この“禁断の書物”は、読み返すたびに新しい発見が生まれます。
というよりは、さんざん“ニセ情報の森”で迷子になってきた私にとって、この口伝はまさに“一筋の光”なのです。
その記述は、古代から宇佐神宮の宮司を務めてきた宇佐家の当主・宇佐公康氏が、一族だけに極秘で伝えられてきた“口伝”を暴露したものですから、かなり信ぴょう性が高いといえます。
今回は、神武天皇に関する記述だけを抽出して読んでみたのですが、私がかねてから主張してきたとおり、「渡来人の神武天皇と日向族のヒダカサヌとは全くの別人である」という仮説と見事に一致しています。
それでは、そこには何が書かれていたのでしょうか?
みなさんにも分かりやすく解説してゆきます。
はじめに
まず最初にお断りしておきますが、この書物には
(1)『古事記』『日本書紀』『延喜式』などにみられるいわゆる“通説”と呼ばれている歴史を解説した部分。
(2) 宇佐家に極秘に伝えられてきた“口伝”を公開した部分。
⇒みなさんのご想像通り(1)とは全く異なります。
(3) これらを総合して筆者(宇佐公康氏)の考えを述べた部分。
が混在していて非常に分かりにくい長文となっていますので、今回は(2)だけを抽出して、そこに私なりの独自解釈を加えてみました。
宇佐家伝承の要点と解説
【記述 1】
神武天皇とは景行天皇の弟である。
神武天皇が東征の途中で亡くなったので、兄の景行天皇がその遺志を継いで、九州を侵略した。
【解説 1】
第12代・景行天皇には何人かの弟が居たようですが、一体誰が「神武天皇」と呼ばれた人物なのかは、ここでは特定できません。
のちに述べるように、それはさほど重要なことではありませんでした。
当然、この神武天皇とは、日向族から出たヒダカサヌのことではありませんので、混乱しないようにして下さい。
九州から出たヒダカサヌが九州を侵略することはあり得ませんので。
もっと重要な点は、兄の五瀬命を殺害されて和歌山に駆け付けたヒダカサヌには、東征の途中で何年も滞在している余裕はありませんでしたので。
ただし、兄の景行天皇という人物に関しては、九州各地に伝わる伝承を総合すると、下記のようなプロフイールがくっきりと浮かび上がってきます。
(1) 景行天皇は、極悪非道の侵略者である。
(2) 何万人もの九州人をむごたらしい方法で殺害し、その妻を強姦し、生まれた子供に跡を継がせて、その家督を乗っ取った。
(3) 年貢を強要し、逆らう者は全て皆殺しにした。
驚かないでください! これは、創作や推測ではなく事実です。
大分県では、2000年経った今でも、景行天皇に関する記憶は詳細に語り継がれているのです。
つまり、第10代・崇神天皇と並んで、景行天皇も渡来系の侵略者であると断定できます。
⇒なお、落合莞爾学説では、崇神天皇・景行天皇ともに、さらにのちの応神天皇まで含めて、「新羅の羅津(らじん)を本拠地とするウバイド人」であると説く。
もしこの宇佐家の伝承が正しいとすると、神武天皇も当然渡来人の血を引いていることになります。
だから、神武天皇に侵略されて地元の首長が殺害されたとする逸話が各地に多く残っているのです。
例えば・・・・
(1) 和歌山の名草戸畔という女王が神武天皇に虐殺されたとする伝承
https://wakayama.mypl.net/mp/ichioshi_wakayama/?sid=37590
(2) 富家(ナガスネヒコの子孫)に伝わる伝承では「神武天皇とニギハヤヒが一緒に攻めてきて、奈良の住民を皆殺しにした」とする。
つまりこれは、渡来人の景行天皇(神武天皇の死後にスリ替わった後継者)とニギハヤヒを担ぐ物部氏が一緒に攻めてきたことを象徴しています。
⇒宇佐家伝承では物部氏は筑後川流域を本拠地とする豪族と伝えるが、いちはやく神武天皇・景行天皇の側に寝返った可能性が高い。
【記述 2】
著者の宇佐公康氏は「神武天皇はおそらく西暦180年前後の人物である。」と推測している。
【解説 2】
私も全く同感です。
つまり、2世紀に日本国中を巻き込んだ『倭国大乱』。
この大混乱に乗じて天下を取った景行天皇らが「ヤマト王政」と呼ばれる渡来人による軍事政権を確立したということです。
⇒学会でも、最近では「大和王朝」とは呼ばずに「ヤマト王政」と呼んでいる。
「王朝」は天皇が開くもの、「王政」は為政者が開くものということか?
さらにカタカナに込められた学者たちの真意を斟酌して欲しい。
一方、日向族から出たヒダカサヌは、おそらく神武天皇の100~200年前の人です。
(本当の)神武東征の時期に観測された巨大地震に関する記述と、小氷河期を連想させる記述から、私は「ヒダカサヌは西暦50年くらいの人である」と推定しました。
つまり、この人物が大分から奈良へと遷都したことにより「ウガヤフキアエズ王朝」の国力と支配力が急速に衰えて、それが原因で『倭国大乱』が発生したと解釈しています。
⇒落合莞爾先生も「ヒダカサヌは1世紀くらいの人である」としている。
【記述 3】
もともと(宮崎県の美々津を出発した)渡来人・神武天皇は、大分県の佐伯を侵略しようとしたが、タヂヒナオミという豪族の抵抗にあい、上陸できなかった。
そこで漁師の珍彦が仲介して、宇佐の豪族・ウサツヒコと組むことになった。
そのときの条件は「神武天皇と侍従には住居(一柱騰宮)と食事を提供するが、軍兵には宇佐平野の土地を貸すので、そこを耕して自分で食料を賄うこと。」というもので、これを屯田制と呼ぶ。
【解説 3】
ここで、珍彦という漁師が登場しますが、これはヒダカサヌを先導したシイネツヒコとは全くの別人です。
なぜなら、私の研究により「シイネツヒコはヒダカサヌの従兄弟であった」ことが判明しているからです。そのいとこが漁師などやっているハズはあり得ません。
【過去記事】「椎根津彦から判明した神武天皇の正体」
だから珍彦は岡山の人物であるという説があるのですね、納得です。
ここで、ちょっと話がそれますが、ウサツヒコの出自についても、宇佐家伝承はこう伝えています。
およそ今から9000年前、京都の稲荷山を本拠地としていた「菟狭族」は、シベリアから南下してきた「猿田族」に追われ、各地に逃げ延びます。そのうち岡山県の「高島(笠岡の沖合)」に定着した勢力が、さらに西遷して、現在の国東半島の豪族となります。
なぜ渡来人・神武天皇と菟狭族が組むことになったのか、その理由は書かれていませんが、神武天皇に襲撃されてしぶしぶと従ったのではないかと私は見ています。
その理由は、下記の記述からも分かります。
それとも、菟狭族と景行天皇・神武天皇の兄弟は同族だったということでしょうか?
【記述 4】
このときウサツヒコは妻のウサツヒメを神武天皇に差し出した。
ウサツヒメは神武天皇の子を孕み、ウサツオミと名付けられた。
つまり天種子命とは、この事実を隠蔽するために宇佐氏が捏造した架空の人物である。
【解説 4】
ここでも兄の景行天皇が行った非道な行為をほうふつとさせる記述が出て来ます。
宇佐家の名誉のためか?「自分の妻をお客に差し出すのは日本古来の習慣」であると解説されていますが、私にはどうしても信じられません。
おそらく略奪されたのでしょう?
その証拠に、このウサツヒメはその後神武天皇と行動を共にします。
⇒お客に対する接待ならば夫のウサツヒコを置いていくハズがない。
ちなみに、私もこの天種子命が、アメノコヤネの子孫なのか?オオタタネコの子孫なのか?大いに悩みましたが、架空の人物であるならば全く無視しても構わなかったということですね。
(アメノコヤネ+オオタタネコ)÷2=アメノタネコ
【記述 5】
神武天皇は4年間宇佐に駐在したのち、ウサツヒメを連れて東征した。
その後、福岡の岡田に1年、広島の多祁理宮(埃宮)に6年間滞在したが、2人ともここで病気で亡くなった。
【解説 5】
この事実は一切公表されていません。
おそらく、神武天皇の子孫である天武天皇が、国史を編纂するに際して、自分たちの出自をウガヤフキアエズ王朝に繋げるため、神武天皇という(大した功績も残さずに亡くなった)人物を“つなぎ”として置いて、そのうえにヒダカサヌとよく似た逸話を創作したのでしょう。
そのお陰で、後世になってからヒダカサヌ(第73代ウガヤフキアエズの命)の実在性までもが疑われることになります。
つまり、「天武天皇の正当性の証として、ヒダカサヌそっくりの神武天皇が捏造された。」というのが真実のようです。
⇒もしかして、これが南朝の正体かとも思われるのですが、証拠に乏しいのでいまはコメントしません。
【記述 6】
この多祁理宮(埃宮)とは、現在の広島県府中町である。
ここに「多家神社」があり、そのご祀神は神武天皇。
まさにここが神武天皇の終焉の地であり、この場所でミモロワケと呼ばれる次男が誕生して、その子孫はここを本拠地として「多臣」と呼ばれた。
【神社公式サイト】http://www.takejinja.net/
【解説 6】
これで、府中町が広島市に属せず、飛び地になっている理由が分かりましたね。
もともと「多家神社」は「オオケ神社」と呼ばれていたのでしょう。
その語源は「王家」であり、多(おお)氏も、もともとは「王氏」と呼ばれていたはずです。
つまり、神武天皇家から派生した王族だという意味だと思います。
この一族から、オオタタネコ(多タタネコ)や太安万侶(多の安万侶)らが排出して、さらにのちの阿蘇神社を本拠地とする阿蘇氏や、国東半島に仏教を伝えた多氏なども登場し、まさに「ヤマト王政」の中枢勢力へと発展してゆきます。
そして「壬申の乱」では、この勢力が天武天皇を擁立して、再びクーデターに成功します。
ということは、皇位を略奪された大友皇子(のちの弘文天皇)こそが、由緒正しいウガヤフキアエズ王朝の末裔だということになります。
【記述 7】
神武天皇とウサツヒメは、広島県の厳島にある弥山の岩屋(ここをヒモロギイワサカと呼ぶ)に葬られた。
(現在の厳島神社)
多祁理宮(埃宮)で生まれた次男のミモロワケの妻が、大分県の佐伯氏から出たので、佐伯氏により厳島に社殿が初めて造られた。
【解説 7】
ここで厳島神社の由来が語られていますが、まさか神武天皇が祀られていたとは驚きです。
のちに平清盛が、ここを復興させて栄華を極めたのも、おそらく偶然ではありません。
なぜなら、平家が使っていた「赤旗」は、もともと「神武天皇」が使っていた旗印である可能性が高いからです。
一方、ヒダカサヌが使っていた旗印は「金の太陽と銀の月」ですから、こちらから源氏が出たと断言してもよいと思います。
さらに驚くのは大分県の佐伯氏という豪族。
落合学説では日本に渡来したウバイド人は「サエキ」と名乗ったと書かれているからです。
そういえばこの佐伯氏、「壬申の乱」では天武天皇の側に付き、その直前の蘇我氏と物部氏の仏教対立では、物部氏の側についています。
さらに、この佐伯氏から弘法大師も出ています。
つまり、ウガヤフキアエズ王朝にとっては、やっかいな隣人であったということ。
さてさて、神武天皇に関しては以上ですが、この『古伝が語る古代史』という書物には、その他にも暴露的な新事実が満載ですので、今後ともレポートしてゆきます。
なぜ偽りの古代史がねつ造されたのか?
ところで、ここに書かれている宇佐家伝承が真実だとしたら、なぜ後世の歴史家や為政者たちは、偽りの古代史をでっち上げたのでしょうか?
おそらく、2つの理由が考えられます。
(1) ひとつは、「外国人に占領されて“夷狄政権”が誕生してしまったこと」に対して、これを国辱だととらえ、せめて国民にだけは隠しておきたいという良心的な配慮から。
多分、藤原氏はこの立場にあったのではないかと思われます。
その根拠は『日本書紀』のなかで、崇神天皇や景行天皇やヤマトタケルに関する描写があまりにも過激で批判的すぎることです。
さらに推古天皇も、『先代公事本紀大成教』の序文で、「四夷化して朝と成す」と嘆いています。
つまり、外国人が朝廷になった事実があることを認めているのです。
(2) もうひとつは、国史の編纂を命じた天武天皇の意志だと思われます。
本来は、さんざん極悪非道を尽くした景行天皇こそが、「ヤマト王政」の創始者なのですが、後世の人民に天皇家の正当性を伝えるために書かれた『古事記』『日本書紀』のなかで、景行天皇が主人公となることは好ましくない、つまり天皇家のイメージが失墜すると判断されて、偽りのヒーローであるカムヤマトイワレヒコが創作されたのではないでしょうか?
その証拠に、『古事記』のなかでは景行天皇の九州での「土蜘蛛征伐」の段は、省略されています。
以上のように、国家の大事業『古事記』『日本書紀』の編纂に際しては、この2つの思惑(1)と(2)が、絶妙のバランスで合致して、現在の通説が形作られていったというのが私の結論です。
その際に参考モデルとされたのが、日向族のヒダカサヌ。
「どうせ日向三代の記録は削除してしまうので、あとからバレることは無いだろう」という甘い判断があったのかもしれません。
まさか、その500年後まで、真実の歴史が語り継がれていようとは思わなかったのでしょう。
鎌倉時代に、それをまとめ上げて『ウエツフミ』として公表した大友能直公は、おそらくウガヤフキアエズ王朝の末裔だと思われますが、長くなるのでまた改めます。
それにしても、男どものドロドロとした権力欲に翻弄されて数奇な運命を辿ったウサツヒメですが、その埋葬地が厳島であることも、闇から闇へと葬られてきたのでしょう?
神武天皇の傍で、巫女として“神の言葉を伝える”という重要な役割を担って来たウサツヒメですが、本当の日本の歴史を支えているのは、実は女性たちなのかもしれません。
<宇佐家口伝が伝える衝撃の真実シリーズ>
【Part 1】『神武天皇は東征の途中で病死した!』
【Part 2】『応神天皇と誉田天皇は別人である!』
【Part 3】『徐福と孝霊天皇との密約!』(完結編)
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